夜の訪問者
「どうしちゃったんだよ? あいつとデートする気なの?」
図書館から出たとたんにケロが尋ねた。
「呪いを解くの」
「ええ? ハルカ、呪われてるの?」
「レイデンとの思い出に振り回わされるのはもうたくさんってこと。もう何か月も経つんだから、先に進みたいの」
サリウスさんがどんな意図で私を誘ったのかはわからない。恋人として付き合いたいと思っているのかもしれないし、外界人を抱いてみたいだけなのかもしれない。でも、そんなのは会ってみればはっきりすることだ。
「ああ、呪いってそういう意味か。僕はサリウスならいいや」
「あれ? 嫌いだって言ってなかった?」
「毛並みを褒めてくれたからいいんだ」
単純な奴だな。
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そうは問屋が卸さなかった。
たまたま開いた引き出しの奥からドイツ旅行の予定表が出てきたのだ。ベッドの上でガイドブックを眺めながらレイデンと二人で作った予定表。新婚旅行にしましょうねって彼もあんなに楽しみにしていたのに。
「ハルカ、どうしたの? 大丈夫?」
ケロが膝に飛び乗って、私の顔に大きな頭を擦りつけた。
「ううん。苦しいよ。胸がきりきりする」
悲しみと寂しさは深呼吸では抑えきれない。レイデンが恋しかった。次の恋なんてどうしたって無理だ。
オレンジ色の猫を抱きしめて私は泣いた。このまま消えてしまえたらいいのに。何もかも忘れてしまえればいいのに。
「ハルカ、ハルカ、しっかりして。ちゃんと息をしてよ」
腕に感じた鋭い痛みで我に返った。ケロが私の腕に爪を立てている。
「あれ? 私、今……」
「死んじゃったのかと思ったよ。どうしちゃったんだよ?」
その時、階下からどんどんと大きな音が聞こえた。誰かがドアを叩いている。
「急用みたいだね。僕が見てくるから、ハルカはここにいて」
ケロが言ってくれたけど、深夜の来客が誰にせよ、用があるとしたら私の方だろう。
涙をぬぐってから階下に降りた。ドアに穿たれたのぞき窓から外を見て、心臓が締め付けられた。そこにはレイデンが立っていたのだ。
今は彼には会いたくない。けれども彼がこんなに乱暴にドアを叩くなんて、よほどの急用に違いなかった。息を深く吸い、心を落ち着けてドアを開けた。
レイデンが勢いよく踏み込んできた。私の腕をつかんだかと思うと、私は彼の二本の腕に力強く抱きすくめられていた。
「大丈夫ですか?」
耳元で彼がささやいた。
どうしてレイデンが私を抱きしめてるの?
わけがわからず顔を上げたら、彼が私を見下ろしている。不安げに眉を寄せ、心から私を案じているように見えた。大好きな緑色の瞳に見つめられて涙がこぼれた。
「泣かないでください」
彼が顔を寄せてくる。思わず伸びあがって彼に口付けた。彼が身体を固くしたのが感じられたけど、私から逃げようとはしない。それどころか唇を押し付け返してきた。
レイデン、帰ってきてくれたんだ。やっぱり気が変わって、私を選んでくれたんだ。
「ハルカ、どうしてその人とキスしてるの?」
後ろからケロの声が聞こえた
「だって、レイデンが……」
嬉しい知らせをケロに告げようと彼から身を離して愕然とした。目の前にいる人はレイデンではなかったのだ。
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「ジリン……さん?」
私がキスしていた相手は、美しい顔をした、けれどもレイデンとは全く似ていない艶やかな赤毛の男性だった。
「そうか。私をレイデンだと思ったんだね」
彼は申し訳なさそうに私から離れた。
「す、すみません。でもどうしてこんな時間に?」
「広場に差し掛かったら、君の叫びが聞こえたんだよ」
「え?」
「心の叫びだよ。助けてほしいってね」
「分かるんですか?」
「ああ。私の一族に『天』より与えられた力なのさ。人の心に安らぎを与えるのが、私たちの役目だからね」
ジリンさんは 人蛇のリリーダニラさんの夫で、人と同じ姿をしているけれど、人ではない。彼の種族は他の生物と性的関係を持つことで精気を吸い取り、生きる糧にするという。
私が彼をレイデンだと思い込んだのも彼の持つ特殊な能力のせいだ。彼らは自分自身に相手の望む姿を投影することができるのだ。
「ハルカはまだ彼を想っているんだね。リリーダニラもそうではないのかと心配していたよ」
「努力はしてるんですが、忘れられないんです」
「彼は素敵な男性だからね、当然のことだよ。でもここまで心を痛めるなんて、なにかあったのかい?」
「ええ、まあ……」
「彼の新しい恋人のことかな?」
「知ってるんですね」
「広場の住人ならみんな知っているさ」
彼は腕を伸ばして私の頬に触れた。
「心が痛くて仕方がないんだね。けれども彼らの不幸を願ったり、妬んだりするわけではない。ハルカはいい子だね」
彼は私を事務所のソファに座らせ、自分も隣に座った。先ほどのレイデンとのキスでまだ胸がドキドキしていた。彼ではないとわかって失望したはずなのに、それでも胸の高鳴りは収まらない。
「あの、もう少し、ここにいてもらえませんか?」
「ああ、私は構わない。でも、本当にいいのかい?」
「どういう意味ですか?」
「だって、ハルカは私にもう一度レイデンに戻って、自分を抱いてほしいって思ってるからさ」
「そんなこと思ってません」
「そうだね。でも心の奥底ではそうなることを願ってる。私にはわかるんだよ」
「ジリンさん、人の心が読めるんですか?」
「心じゃない、感情がね、見えるんだ。仕事柄、相手が何を思ってるのか当てるのがうまくなっちゃったのさ」
彼はくすりと笑った。リリーダニラさんと『婚姻の契約』を結んではいるが、彼はいわゆる男娼として働いている。お代として相手の精気を貰うのだそうだ。
「君はさっきの続きをしたいのさ」
「……そうかもしれません」
彼が言ったことはおそらく真実だ。私はレイデンに触れられることを望んでいる。
「ジリンさん、私を抱いてくれませんか?」
ためらいもなく口にした自分に驚いた。たとえレイデンの姿に見えたとしても、相手は全くの別人なのだ。いつまでも続く苦しみに、私の心は壊れ始めているのかもしれない。
あんなに突然に別れを告げられたから、彼を忘れられないんだ。心のどこかでそう信じている自分がいる。最後にしっかりと抱きしめて欲しかった。最後のキスぐらいして欲しかった。だから今、彼に抱かれれば、きっと諦めがつくはずだ。
「私の仕事はね、その人の望む姿を取って、望みを叶えてあげることなんだ。人には言えないような欲望を持った人もいるけれど、僕はできるだけの事はしてあげる。それがその人の幸せに繋がるのならね」
ジリンさんは私に言い聞かせるようにゆっくりと話した。
「でも、ハルカの望みは叶えられないな」
「え?」
「別れた相手と寝ることで、ふっ切れる人も確かにいるんだ。でもね、君の場合、想いが強くなるだけだね。私に精気を奪いつくされたって、彼を忘れることはできないよ。私に抱かれたいっていうのなら、喜んで依頼は受ける。でも、レイデンの姿だけはダメだ。君を泥沼に突き落とすような真似は、私にはできない」
彼は厳しい眼差しを私に向けた。
「強すぎる執着は呪いに変わる。君はもう囚われかけているようだね。自分でもわかっているんじゃないのかい?」
心当たりがあり過ぎて、思わず彼の顔を見つめ返した。『魔素』のあるこの世界では、強い思念には魔力がこもるという。私に呪いをかけたのはレイデンではなく自分自身。そしてその呪いは着実に私を追い詰めていた。
「ハルカ、今からうちにいらっしゃい。リリーダニラと会うといい。君と話をしたがっていたからね」
私はパジャマ姿のまま、誘われるままに広場を横切って彼の家までついて行った。
「本当の事を言うとね、君を抱けないのは残念なんだよ。さきほどのキスは忘れがたいほど美味だったからね」
隣を歩くジリンさんは本当に残念そうに見えた。
「……いきなりキスしちゃってすみませんでした」
「こちらこそ、すまなかった。誤解だと分かっていながら、つい君の精気を頂いてしまったよ」
昔、外界で夢魔や淫魔と呼ばれていたのは、彼の一族はではないかと言われている。彼らの話が外界に伝わると、未婚の女性を妊娠させる犯人に祭り上げられてしまったが、『魔法世界』では人の心を癒すことを生業としている善良な存在なのだ。
ジリンさんは店のドアを開け、明かりをつけた。リリーダニラさんのお店は魔法と染料で染めた鮮やかな糸でいっぱいだ。私は縫い物も編み物もしないけれど、色とりどりの糸を眺めていると気持ちが明るくなる。でも、もちろん今夜はそれぐらいでは救われない気分だった。
「ハルカさん、いらっしゃい」
奥から出てきたリリーダニラさんは私を見ても驚いた様子は見せなかった。
今夜の彼女は上半身だけ女性の姿をしている。半人半蛇の彼女の種族は、外界の様々な伝説や神話に登場するのだが、人と蛇の比率は自在に変えられるらしく、たまに頭だけ人間になって石畳でごろごろしている。その姿だと服を着なくていいので楽なのだそうだけど、見るたびにぎょっとさせられる。
彼女にはジリンさん以外にも人間の配偶者がいる。「私、欲求が強いからちょうどよいのよね」なんて言ってるけど、二人とも『婚姻の契約』を結んだ相手なので、愛情はとても深いのだ。そのせいか、村の人から恋愛相談を受けることも多く、店の隅にはテーブルと椅子が置いてある。
彼女は私を椅子に座らせ、自分はテーブルの反対側にとぐろを巻いた。私は今までのことをすべて話した。レイデンが新しい恋を見つけたこと。サリウスさんにデートに誘われたこと、それなのにどうしてもレイデンを忘れられないこと。話しているうちにティーカップの中に涙がぽたりと落ちた。
「失恋に効く魔法ってご存じ?」
「そんな魔法があるんですか?」
「ええ。でも人の心に作用する魔法は、資格がなくては使えないの。王都にもよい術師がいるのだけど、ハルカさんは毎週『魔法院』にいらっしゃるでしょう? そこで聞いてみてはどうかしら?」
「はい。そうしてみます」
その魔法なら私をこの苦しみから解放してくれるだろうか? 突然、目の前に現れた希望に、少し心が軽くなった。
ジリンさんは私を事務所まで送り届けてくれた。
「遅くまでありがとうございました。あの……すごく助かりました」
「元気になったらお礼に私と寝てくれるかい?」
「え?」
「冗談だよ。でもハグぐらいなら構わないだろ?」
彼は色気たっぷりに目配せをして、リリーダニラさんの待つ糸屋へと引き返していった。




