レイデンの呪い
今、なにが起こったの? ただのお別れのキス……のはずはない。唇に……唇にあんなキスしてたし……。
どうして、この二人が? ありえないでしょう? 矢島さん、私にもキスしたよね? そうだ、彼はキス魔なんだ。キス魔だから私にもレイデンにもキスしちゃったんだ。
そんな理由を信じられるはずもなく、私は『門』の方角を目指してスピードを上げていく矢島さんの飛行ぞりを呆然と見送った。
レイデンが事務所に戻ったのを見定めて、建物の隙間から広場に足を踏み出した。今見たものの衝撃で、膝が震えて足元がおぼつかない。
「あら、どうしたんだい? そんなところから出て来て」
ラウラおばさんが隣のパン屋から顔を出した。
「なんでもないです」
「おかしな顔して、なんでもないことないだろう? 今のを見てたんだね? もしかしてあの二人のこと、知らなかったのかい?」
「え?」
「あら、いやだ。ほんとに知らなかったんだね」
「おばさんは知ってたの?」
「だって、キュウタちゃんが帰る時にはいつもああやって見送ってるからね。仲睦まじい感じだろう?」
「矢島さん、今までも私のいない日に来てたの?」
「あんたが『魔法院』に行く日に来ることもあったね。やっぱり付き合い始めは二人っきりになりたいんじゃないのかい?」
村の人に見られても平気なくせに、どうして私には教えてくれなかったんだろう?
「いつから?」
「そうだねえ。もう三週間になるかねえ。あたしゃ広場で起こってることは見逃さないからね。最初に見かけたときはお互いぎくしゃくしてたから、あの時が初めてだったんだろうね」
初めて? 初めてって、初めてのキス? レイデンが私を図書館に送り込んだのも、もしかして、矢島さんとの逢瀬を楽しむため? いや、さすがに彼もそこまではしないだろう。しないと信じたい。
「あんたが『東の森』のきれいな子と外泊する日も、戸締りしてからキュウタちゃんと帰ってくよ」
「どこに?」
「そりゃ、あの子の家じゃないのかい? キュウタちゃんはいつも金曜日はどこかに泊まってくからね」
泊ってく? 矢島さんが? レイデンの家に?
おばさんは私の顔をじろじろと眺めていたけれど、急に真顔になった。
「ハルカ、ちょっと中に入りなさい」
彼女は私を店の中に引きずり込んで、小麦粉で白くなった椅子に座らせた。
「あんた、まだレイデンに未練があるんだね? 嘘ついても分かるよ。正直にお言い」
「……うん、そうなの。馬鹿みたいでしょ」
「あのきれいな子は新しい彼氏じゃなかったのかい?」
「ううん。ニッキはただの友達。私を励ましてくれてたの」
事務所に戻ってレイデンと顔を合わせられる精神状態ではないと思ったのだろう。彼女は甘いクッキーを私の手に押し付けて、熱いお茶を淹れてくれた。
「あんた、強がりはいい加減にしなさいよ。あたしも騙されたじゃないか。未練があるんだったらそう言ってくれりゃ、話ぐらい聞いてやったのに」
「おばさん、ごめん。自分でも平気なフリをしていたかったの」
「まあ分からないこともないけどね。婚約までした相手だからねえ。何年引きずったって不思議はないさ」
おばさんはしきりに引き留めてくれたけど、いつまでも事務所に戻らないわけにはいかない。私は大きく深呼吸をし、心を落ち着けてからドアを開けた。
「おかえりなさい」
レイデンが書類から顔を上げた。
「ねえ、レイデン。矢島さんと付き合ってるの?」
「え?」
「ラウラおばさんに聞いたの」
「そ、そうですか」
彼は頬を赤く染めて、逃げ道を探すかのように周囲を見回した。明らかに動揺している。
「ずっと黙ってるつもりだったの?」
「すみません。そろそろ話そうとは思っていたんですが、言い出せなくて……。矢島さんは 『ICCEE』の人ですし、最初にハルカに相談するべきでした」
「済んじゃったことはしかたないよ。私のいない時に来てもらわなくても構わないんだよ。今は仕事も少ないんだから、二人で外に行ってお茶でもしてきたらいいのに」
「ありがとうございます」
彼は安堵した表情で礼を言った。
「あの、休みの日に外界に行っても構いませんか? 矢島さんに誘われて……」
付き合ってたことを私に知られていなかったので、今までは言い出しにくかったわけか。
「私は構わないけど、『魔法院』に許可を貰わないと……」
「それなら、矢島さんが話を通してくれるそうです」
彼がまた少し赤くなった。矢島さん、役職を利用して恋人を呼び出すつもりなのか。
「私は構わないよ。楽しんできて」
「はい、ありがとうございます」
心から嬉しそうに彼が笑ったので、私の心はぎりぎりと締め付けられた。
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その晩はなかなか眠れなかった。
矢島さん、何考えてるんだろ? 私の次のターゲットにレイデンを選んだわけじゃないよね? 外界に行ったときにも彼の面倒をこまめに焼いていたけど、興味を持っているようには見えなかった。実はタイプだったけど、私の彼氏だから対象外だっただけ?
それとも、レイデンの方から誘ったの? 一ヶ月前、彼は帰り際の矢島さんを引き留めた。戻ってきた時、レイデンの挙動がおかしかったのではっきり覚えている。あの時、彼の方から告白したのかもしれない。
私と別れた時に『自分の幸せは伴侶を持つことでは得られない』ってはっきり言わなかったっけ? 伴侶は必要ないって意味じゃなかったの? 矢島さんならよくて、私だとダメだったってこと? すごくモヤモヤする。
レイデンが同性と付き合うことに驚きはない。エレスメイアじゃごく普通の事だ。矢島さんは何が相手でもOKそうだしな。
ああ、そうか。彼は『ミョニルンの目玉』を見ても平気なんだ。あの『目玉』に耐性のある相手なんて、そうそう見つかるものではない。レイデンは彼にぴったりの相手に巡り合えたのかもしれない。
だとしたら喜んであげるべきなのだ。もちろん今はそんな気分にはなれないけれど。
悔しいことに、舞い上がるそりから交わしたキスは、物語のワンシーンのように美しく見えてしまった。いつでも自信にあふれた矢島さんと知的で物腰柔らかなレイデンは、私よりもずっとお似合いに思える。
妬こうと思っても妬くことすらできない。ただ惨めで悲しくて、すべてが悪い夢であってほしいと祈りながら眠りについた。
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私の祈りは聞き届けられず、翌朝の気分は最悪だった。その元凶であるレイデンは穏やかな表情で郵便物を開封している。失恋直後のレベルにまで落ち込んでしまったけど、それでも事務所では普段と変わらない顔をして過ごした。
二日後にまた図書館へ行った。歴史の話を聞きたい気分ではなかったのだが、レイデンのそばを離れる口実が欲しかったのだ。私を心配してケロもついてきてくれた。
いつも通りサリウスさんの話を聞いていたのだけれど、ノートを取る手も止まりがちだ。彼はちらりちらりと私の方を見ていたが、やがて手元の本をパタンと閉じた。
「気が乗らないようだな。今日はここでやめておこう」
「すみません。せっかく来てもらったのに」
時間を割いて個人講師をしてくれている人に対して失礼なことをしてしまった。私は恥ずかしくなって頭を下げた。
「謝ることはない。何か理由があるのだろう? 私に話してはもらえないか?」
「いえ、たいしたことじゃないんです」
「そうは思えぬが……」
彼にまで心配をかけてしまった。レイデンには恋人までできたっていうのに、それでも振り回され続けてるなんて、自分が情けなくなる。
レイデンの馬鹿、私に呪いをかけたんじゃないの? こんなに諦めの悪い女じゃなかったはずなのに。こんな呪い、なにがなんでも解いてやる。
「あの、この間の話ですけど……どこで会いましょうか?」
私が唐突に言ったので、サリウスさんは目を見開いたが、すぐに明るい笑みを浮かべた。
「キアチュル公園の噴水の前で。講義の時間ではなく週末に会えないかな? 二時間だけではせわしなかろう」
「いいですよ。では、土曜日に会いましょう」
自分自身に言い聞かせるように、私は力をこめて返事をした。




