ハルカの葛藤
なんでこんなことになっちゃったんだろう?
頭では逃げなきゃと思っていても、どうしたって逆えない。馬乗りにされて唇をついばまれているというのに、嫌だと思うことさえできないのだ。
間近で見るニッキは息を飲む美しさだ。イケメンというよりは中性的な艶っぽさがある。寝る直前まで飲んでたはずなのに、熱を帯びた肌には張りがあるし息だって臭くない。歳は私とさほど変わらないのに世の中って不公平だな。
だめだ、そんなことをのんびり考えてる場合じゃない。縄の魔法のせいなのか、一つの事に意識を集中し続けるのが難しい。
やがて唇を押し割って舌が入ってきた。これはヤバイぞと訴える理性を無視して、私の身体がキスを返す。やめろと命じても、止められない。
満足げに息をついて彼が頭を持ち上げた。蜂蜜色の瞳を潤ませて私を見つめている。立ち上る色気に理性までとろけてしまいそうだ。
「どうしてこんなことするの?」
やめてよ、とは言えないけど、質問の形式でなら言葉にできた。
「セックスしたいって言ったのはお前だろ?」
それは誤解だ。
「心配すんな。今からたっぷり抱いてやる」
そんな心配していない、と言い返したいのに口が動かない。ニッキがぴったりと身体を合わせ、服の下に手を差し入れて来た。
ーー抵抗しろ、私の身体。
『魔具』で縛られたままなんて……ええと、絶対に『間違ってる』。ここは『嫌だ』と言うべきところなんだけど、私の身体も感情も嫌がるどころか彼を求めてしまっている。
理性を総動員して逆おうとしても、彼の身体のぬくもりが心地よすぎて、抵抗する気力がどんどんと薄れていくのだ。
ーー諦めちゃだめだよ。彼と寝てはいけない理由は他にもあるはずだ。考えろ。考えろ。考えろ。
唐突にレイデンの姿が脳裏に浮かんた。彼の瞳にはもう私は映ってはいない。それでも彼が好きだった。この世界に一人だけの誰よりも誰よりも愛しい人。
僅かに自由を取り戻した感情が、こんなのは嫌だと叫ぶ。どんなに傷つけられたって私が好きなのはレイデンだけだ。他の誰にも触れられたくはない。
ーーそれで?
頭の中で自分の声が問い返した。
ーーこれからもずっと彼の事だけを想って生きていくの? この胸の痛みをかかえて彼のそばにいるの?
それは……そんなのはもっと嫌だ。泣くのにも疲れ果てちゃった。彼への想いからもう解放されたい。
ーーそれなら抵抗するのをやめればいいんだよ。身も心もニッキにゆだねてしまおう。少しでもレイデンを忘れられるのなら、じくじくと血を流す心の傷を癒してくれるのなら、そんなの大したことじゃないでしょう?
ニッキの唇が再び私の口をふさぐ。柔らかな明るい髪が頬をふわりと撫でた。嫌だと思う気持ちはどこかに消えてしまった。ようやく手に入れた反撃のチャンスを私は自らつぶしてしまったのだ。
態度こそ悪いけど、彼は心の暖かい人だ。それに誰かに求められるのはこんなにも気分がいい。自分はまだ必要とされてるんだって信じたい。ニッキだって私を求めてくれてるんだから。
そうなの? それは本当に彼の意志なの? ニッキは酔っぱらってるんだよ。自分をコントロールできないんだよ。
押し流されそうになっていた理性が力を取り戻した。正気に戻れば彼は自分のしたことを悔やむだろう。私だって『魔具』で縛られたまま関係を持っても惨めになるだけだ。私がここで彼を止めてやらないと辛い結果しか待ち受けてはいない。
ーー考えろ。どうすればこの状況から逃れられる? 縄の干渉を受けずに私にできることは?
質問してみたらどうだろう? 彼の意志に逆らうわけじゃない。それぐらいなら許されるはず。でも何を尋ねればいいの?
「ねえ、ニッキには好きな人がいるんだよね?」
自然とその言葉が口からこぼれた。ニッキの動きがぴたりと止まる。
「私、誰なのか知ってるよ」
「う、う……嘘だ」
長いまつげが小刻みに震え出す。彼は明らかに動揺していた。
「嘘じゃないよ。その人、外界人でしょう?」
やっぱりジョナサンで当たりだな。共通の知り合いで思い当たるのは彼しかいない。
「頼む! 誰にも言わないでくれ!」
「言わないよ。でもどうして?」
「だって、知られたら……嫌われちまうだろ? そんなの、嫌なんだよ」
パタンと小さな音がして、突然にすべての呪縛が解けた。それはニッキの手に握られていた魔法の縄の端っこが床に落ちた音だった。
「ニッキ、どいて」
『主従の契約』はすでに有効なはずだ。初めて私から受けた命令に、彼は困惑の表情を浮かべたが、素直に身体を持ち上げて私から離れた。
「ありがとう。遅くなっちゃったから寝た方がいいよ。おやすみなさい」
「あ、ああ、そうだな。おやすみ……」
彼は床にばたりと身体を横たえて目をつぶり、その数秒後にはスースーと寝息を立て始めた。
--た、助かった。
安心したとたんに意識が朦朧としてきた。契約の呪文のせい? 体内に入ったニッキの血に私も酔ってしまったんだろうか?
次第に視界が暗くなり、それから先は何も覚えていなかった。
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目覚めたらニッキの顔が目の前にあった。慌てて身を起こして周囲を見回す。厚手の敷物の上でジャニスとニッキに挟まれて寝ていたらしい。胸から下には分厚い毛布がかけられている。
カーテンの隙間からは陽の光が差し込んでいた。もう日は高い。
「ん……、おはよう」
眠そうに目をこすりながらニッキも身体を起こした。
「もうこんな時間か。お前がなかなか起きねえから俺も二度寝しちまったよ」
壁のカッコウ時計を見上げれば、もう11時前だ。
「うわ、あんたたち、血まみれじゃないの。あたしが寝てる間にどんなプレイをしたっていうのよ?」
後ろでジャニスが大声を上げた。私たちの会話で目を覚ましたらしい。昨夜の出来事を思い出して手のひらに目をやると、切られた傷には布がまかれている。痛みはほとんど感じない。手首にはうっすらと縄の跡が残っていた。
「俺たち、『主従の契約』を結んだんだよ」
明るい声でニッキが報告した。
「え? ハルカ、あんた、嫌がってなかったっけ」
「ニッキに無理やり結ばされたんだってば」
「ええ? 無理やり?」
意味が分からないといった表情でジャニスが首をかしげる。
「そういうことで、俺、仕事辞めるわ。ハルカの村に行く」
「ええ? あんた、始めたばかりでしょ? 急に辞められたら困るんだけど」
「悪いが俺のことは諦めてくれ。俺は『スレイヤー』についてなきゃなんねえからな。ハルカ、これからもよろしく頼むぜ」
彼は私の肩をぽんぽんと叩いた。
「それはダメ。あなたはジャニスのところでこのまま働いてくれる?」
「そりゃ無理だ。俺はお前について行く」
「あなたと私は『主従の契約』を結んだんでしょう? それじゃ、ご主人さまの命令には逆らえないよね」
「う……」
彼の表情が凍り付いた。
「たまに遊びにくるのは構わないからね」
「お、おい、ハルカ。図りやがったな」
「図ったのはあなたの方でしょう? 『魔具』で縛って言いなりにさせるなんて最低だよ」
「そんなことしたの? それは最低だわ」
ジャニスが眉をひそめた。
「だ、だってそうでもしないと、お前は契約なんて結んでくれないだろ?」
「その後にしたことは?」
「え?」
「覚えてないの? たっぷり抱いてやるって言ったのも?」
ニッキの顔から血の気が引いた。
「ま、まさか……やっちまった……のか?」
「ほんとに覚えてないの?」
「覚えてねえよ。呪文を唱えた後の記憶が飛んじまってるんだよ」
「『魔具』で縛って襲うだなんて犯罪でしょう。最低どころの騒ぎじゃないわね」
ジャニスの顔に軽蔑の色が浮かんだ。エレスメイア人は気軽に誰とでも寝ちゃうけど、その反面、意志に反して関係を持つことを酷く嫌う。魔法で自由を奪って行為を強要なんて許されることではない。
「まあ、未遂だったから許してあげてもいいけどね」
「そ、そうか……よかった……」
ニッキはその場にへたりこんだ。
「嫌な思いをさせてすまなかったな。ほんとに申し訳ない」
いつも偉そうなニッキが気の毒なぐらい小さくなって頭を下げた。顔色は蒼白のまま、語尾も震えている。未遂だとわかってもこの反応だ。あそこで止めていなければ大変なことになっていたな。
「あなたも色々背負ってるみたいだからもう責めないけどね。ただし、あの縄は二度と使わないで。誰にもだよ。これは命令だからね」
「ああ、わかった。もう二度と使わねえ」
切れ端とは言え『魔法院』の『魔具』を盗んだのも罪になるはずだ。その時にはまだ私が『スレイヤー』だとは知らなかったのだから、私に契約を結ばせるために盗んだわけではないだろう。
本当は何に使うつもりだったんだろう? 悪い予感しかしないし、決して使わないように釘を刺しておいた方が彼の身のためだ。
「これからはハルカのいいなりなんでしょ? あんたも物好きねえ」
ジャニスが呆れたように笑う。
「構わねえよ。これからは『スレイヤー』を探してほっつき歩かなくてもいいんだからな」
「それでふらふらしてたの?」
「そうだよ。ババアに予言を成就して来いって追い出されたからな」
「でも三人目の『スレイヤー』には会いに来なかったじゃない」
私が『ドラゴンスレイヤー』になってからもう二年以上経ってるのに。
「『魔法院』に行ってはみたんだけどな。機密からだってどうしても居場所を教えてもらえなかったんだよ」
「でもおばあちゃんの予言のことは話したんでしょう? 協力してくれなかったの?」
「『あなたの前に現われるという予言なのだから、それまで待ってみてはいかがですか?』って言われたんだ」
「もしかして院長?」
「そうだ。よくわかったな」
いかにも彼が言いそうなことだ。つまり彼はニッキが私を探していたのを知っていたわけか。彼の事だから他にも色々隠してそうだな。
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この日は三人でだらだらと一日を過ごした。おとなしく噴水の池で待っていたケルピーを連れて散歩したり、屋台で村の名物を味わったりした。日常から離れて知らない場所を散策するのは楽しいものだ。最初のうちはぎくしゃくしていたニッキも、しばらく経つと元の傍若無人な態度に逆戻りしたのでほっとした。
帰りの馬車の時間が近づくと、とたんに気持ちが落ち着かなくなった。この二人といる間はレイデンの事をほとんど考えずにいられた。家に戻って一人きりで眠るのが怖くて仕方ない。
「なあ、朝一番の馬車に乗れば仕事の前に戻れるぜ」
私の気持ちを察したニッキが笑いながら引き留めてくれた。
そういうわけで私はジャニスの家にもう一泊させてもらったのだった。
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翌朝、事務所に戻るとすでにレイデンが来ていた。
「ごめん、遅くなって」
「いえ、まだ二十分前ですよ」
私が遅刻するんじゃないかと早めに来てくれていたようだ。相変わらず気が利くな。彼の顔を見たとたん、胸がぎゅっと締め付けられた。覚悟はしていたはずなのに、予想以上の心の痛みに泣きたくなる。
「おかえり、ハルカ。二日も僕をほったらかしにするなんて、とっても楽しかったんだね」
ケロが奥からのっそりと出て来て嫌味を言った。
「うん。楽しかったよ」
「ニッキと寝たの?」
「え?」
「ニッキの匂いがぷんぷんするからさ」
歯に衣着せぬ質問にたじろいだけど、後ろではレイデンがなんの反応も見せずに書類に目を通している。
「うん、寝たよ」
どうせ彼は気にもしてないんだろうけど、いつまでも未練があると思われるのが悔しかった。一緒に寝たのは事実だし、嘘はついていない。
「ふうん、そうなんだ。三泊もするぐらいだから気が合ったんだね」
「うん。ニッキってね、態度は悪いけど案外かわいいところもあるんだよ」
これも正直な感想だから嘘じゃない。
仕事が終わってから、私はケロにあったことを正直に話した。猫は笑って、「そういうことだろうと思ったよ」と言っただけだった。




