ケルピー
池の底から躍り上がったケルピーの姿に、村人たちは縄を放り出し、悲鳴を上げて散り散りに走り去った。
「ちょっと、逃げないでよ! 戻ってきなさい!」
ジャニスが怒鳴ったけど、もちろん誰も戻ってこない。
「待って、私がやる」
彼女が杖を構え直したのを見て、私は慌てて名乗りを上げた。住処から追い出された上に水圧でぺっちゃんこにされては、いくらなんでも気の毒だ。
まずは迫りくる馬に杖を向けて力を測る。見た目は獰猛だけど、たいして強い生き物ではない。手加減しないとハーピーのように消えてしまうだろう。
「ハルカ、何してるの? 急ぎなさいよ!」
ジャニスは今にも杖を振り下ろそうとしていた。慌てて呪文を唱えると、巨大な馬はもんどりうってひっくり返った。勢いがついていたものだから、転んでもすぐには止まらない。そのまま滑り続けて私たちの数メートル手前でようやく動かなくなった。
「もう、危ないところだったわね」
ぶつぶつ言いながら服に跳ねた泥を払うジャニスを無視して、私は馬の巨体に近づいた。脚の骨を折っていないといいんだけど。
「ジャニスさん、この方は?」
おそるおそる近寄ってきた村長さんの目は私のパピャイラの杖に向けられている。
「メルベリ村の代理店のハルカさん。害獣退治が得意なの」
「ああ、噂には聞いております。お陰で助かりました。ありがとうございます」
「いえ、お役に立ててなによりです。噂ってどんな噂なんですか?」
「エルフ退治にかけては右に出るものがいないと伺っていますよ。どうしたことか、エルフの奴ら、最近急に数を増やしましてな。うちの村の者では手に負えないのです。よろしければお時間のある時に駆除してはいただけませんか?」
「はい。もちろんです」
私は即答した。最近増えたという事は、失恋の憂さ晴らしに追い払ったエルフがこの村まで流れて来た可能性が高い。責任を感じたのだ。
「ねえ、もうこの水、戻してもいいのかなあ?」
いらいらとジャニスが口を挟んだ。
「は、はい。お疲れ様でした」
池に水を戻すのは、抜いた時以上に圧巻だった。巨大な水の塊は球体を保ったまま高度を下げ、池のくぼみの中へと沈み込んでいく。やがて、魔法の張力から解放された水が小さな波を立てて、静かに池に収まった。これだけの質量の水を正確にコントロールできるなんて、ものすごいスキルだ。滞在許可が出たのにも納得がいく。
「上からザバーッと流し込むのかと思った」
「魚も住んでるし、水草だって生えてるでしょ? そんなことしたら全部死んじゃうわよ」
見下すようにジャニスが言う。さっきは馬に水をぶつけるって言ってたくせに。
村人たちは縄を持って倒れたケルピーを取り囲んだ。
「そんな細い縄で捕まえられるんですか?」
「捕縛用の『魔具』ですよ。縄を握ったものに従うようになります」
「そういうのって違法じゃなかったっけ?」
エレスメイアでは人であろうと動物であろうと魔法で生き物を縛ることは固く禁じられている。
「『魔法院』から借りて来たんです。許可は取ってありますよ」
けれども首に縄をかけた途端、馬の耳がぴくぴくと動き出し、村人たちは慌てて逃げ出した。意識を取り戻した馬は、頭を持ち上げてぶるぶると振った。
あれ? 誰も縄の先を握ってないけど?
「ええと、その縄、握ってなくてもいいんですか?」
「いいえ、ダメです」
村長さんが申し訳なさそうに答える。仕方ないなあ。
「そのまま動かないで。おとなしくしないとまた撃つよ」
私はケルピーに杖を突きつけた。先ほどまでの怒りはまったく感じられない。馬は横たわったまま首を伸ばして、私の腕に鼻面をこすりつけてきた。
これは……よくないパターンだ。ドレイクのように懐かれてしまっては厄介なことになる。
「ええと、あなたはしゃべらないの?」
ぐいぐい頭を押し付けてくる馬に話しかけてみた。ジャンマーの相棒の馬みたいに無口なだけなのかもしれない。濡れたたてがみには池の藻が絡まっていて生臭かった。
「ケルピーがしゃべるかよ。馬鹿かお前は」
ニッキが鼻でふふんと笑う。そんなの知るか。昨夜見せた優しさは幻覚かと疑うほどの辛辣さだ。
「おい、こいつを捕まえてどうすんだ?」
遠巻きに眺めている村人たちに彼が尋ねた。
「人がいない場所に連れて行くんです。もっと広い池や川もたくさんあるのに、なんでこんな小さな池に住み着いているんだか……」
代表して村長さんが答えた。
「そりゃあ、理由があるんだろ。ちょっと待て。俺が話してみるよ」
「はあ? やっぱり話せるんじゃないの」
「ちげーよ。人がしゃべるみたいにはしゃべんねえって意味だよ」
「翻訳魔法でも通じないの?」
「頭ん中でしゃべる奴らもいるんだ。説明しろって言うなよ。俺にもよくわかんねえんだから」
ニッキは馬の前にかがみこんで、大きな鼻面に手のひらを押し付けた。
「お前はなんで人を襲うんだ。もっと広いとこに住みたくないのか?」
馬は何も言わず、ニッキの顔を見つめ返している。
「そうか。おい、あそこの家に住んでた女はどうした?」
ニッキは池のほとりの小さな家を指さした。
「南の方へ引っ越しました。ペルンブィの農夫と『婚姻の契約』を結んだんです」
村長さんが答える。
「そいつに仔馬の時から可愛がってもらってたんだよ。人が来ると戻って来たんじゃないかって飛び出してたんだ」
「そうだったんですか。それはかわいそうですね」
「もう脅かしたりしないって言ってる。ここに置いてやってもいいか」
「おとなしくしているのでしたらかまいませんが」
「こいつは寂しがりなんだ。もっと遊んでやれ」
ニッキはポンポンと馬の首を叩き、魔法の縄を外すと馬を立ち上がらせた。
あれだけ怖がっていた村の人たちは、危険がないと分かったとたんに馬の周りに集まって、泥にまみれた身体にペタペタと触りだした。一件落着したようだ。
ニッキはさめた様子で村人たちと馬を眺めているが、口元にはうっすら笑みが浮かんでいる。
「やっぱりエルフだね」
「ああ?」
「外界のエルフっていう意味だよ」
「つまり誉めてんだな?」
「うん。格好良かったよ」
「ならいいんだ」
「あ~あ、泥まみれになっちゃったわね」
ジャニスが自分のスカートを見てため息をついた。
「あんたたち、うちに来てシャワーを浴びなさいよ」
ケルピーに頭をこすりつけられたところが生臭い。このまま帰りの馬車に乗るのも憚られるので、そうさせてもらうことにした。
村人たちに別れを告げて、私たちは歩き出した。ところが、馬は池には帰らずに私たちの後ろをついてきた。ニッキが戻るように言ったけど、離れようとしない。
「乾くとまずいんじゃないの?」
通り沿いに置かれた水桶を見かけるたびに、ジャニスが杖を振って水をかけてやった。
途中の屋台で昼ごはんを買い、民家の塀に座って食べた。空は青く澄み渡り、小鳥たちがおこぼれを貰おうと話しかけてくる。
「あれ、今朝よりも明るい顔してるじゃない」
ジャニスが私の顔を覗き込んだ。
「あいつの事、考えてる暇がないんだろ」
笑いながらニッキが私を小突く。
「うん、そうだと思う」
言われてみれば、今日はすごく気が楽だ。それにこの二人といると凄く楽しい。楽しいなんて思えたのは何週間ぶりだろう?
「帰ってから気をつけろよ。反動があるからな」
今言わなくてもいいのにな。
のんびり歩いて、事務所の前の広場まで戻ってきた。ジャニスの家は次の角を曲がったところだという。
「ねえ、馬はどうするの? うちの風呂桶には入んないわよ」
「池には戻りたくねえみたいだな」
ジャニスが噴水の池を指さした
「あんた、帰りたくないんだったら、そこに入ってなさいよ。乾くとヤバいんでしょ? また明日遊んであげるから」
驚いたことにケルピーは素直に噴水の池に飛び込んだ。首から上が出てしまうけど、噴水が霧雨のように降り注いでいるので、乾燥する心配はなさそうだ。
私たちは馬の頭をよしよしと撫でて別れを告げてから、ジャニスの家に向かった。
彼女は事務所のすぐ近くの立派な一軒家に住んでいた。代々の職員が使っているらしく、内部は外界風に改装されている。
「今日はうちに泊まって行きなさいよ。どうせ家に戻ってもみじめにあの男の事、考えてるだけなんでしょ?」
「そんなことないけど」
本当は図星だけどね。もう一泊していこうかな。
「ええ、それなら俺んとこ、来いよ」
「二泊も野宿させたらかわいそうだと思わない?」
「俺の家のどこか野宿なんだよ?」
ニッキには悪いけど、恋人でもない異性のところに連泊もおかしいし、彼に添い寝されたのも思い出すと恥ずかしすぎた。
「今夜はジャニスにお世話になるよ」
「わかった。じゃ、俺も泊る」
ということで、ジャニスの家に三人で泊ることになった。ケロが心配するといけないので、小鳥の郵便屋に伝言を頼んでおいた。
早速、外界式のシャワーを使わせてもらう。馬につけられた泥を洗い流して、すっきりした気分で身体を拭いていると、いきなりジャニスが飛び込んできた。私の肩をつかんでタイルの壁に押し付ける。
「な、なに!?」
そういえば、「うちに泊まってけ」と誘われたんだった。まさか、それってそういう意味だった?
「あ、あの、私、女の人はダメだから」
「え? ち、違うわよ。変な誤解しないでよ」
ジャニスが真っ赤になって慌てて私から離れた。
「じゃ、なんなの?」
「あんた、『ドラゴンスレイヤー』だったの?」
「え、え? ええ? なんで?」
「お、おい、ハルカ……」
ジャニスの後ろから神妙な顔をしたニッキが現われた。
「今までの無礼、許してく……、い、いや、お許しください」




