森の中での一夜
これは……例の『お誘い』だと思って間違いないよね?
誘われるのにも慣れたつもりだったけど、相手がニッキだとさすがに動揺してしまう。
「俺らと一緒に帰ろうぜ。明日は休みなんだし、ちょっとぐらい早く終わってもいいんじゃねえのか?」
「ええ、構いませんよ。事務所は私が閉めますから、ハルカは先に出てください」
間髪入れずに、レイデンが私の代わりに返事をした。
いくら鈍いレイデンでも、ニッキが私を誘ったのは分かったはずだ。別れた相手が誰と何をしようと気にしないんだろうけど、私にしてみれば、まだ好きな人からよその男に抱かれて来いと言われたようで、さすがに堪えた。
「ハルカ? ちょっと泣かないでよ」
「泣いてないけど」
「目から水が出てるんだけど?」
ジャニスはレイデンをきっと睨みつけると、短い呪文を唱えた。窓際に置いてある花瓶からごぼごぼと水が吹き上がり、弧を描いてレイデンの頭を直撃した。
「あんたさあ、ちょっとはこの子の気持ち、考えなさいよね。そんなきれいな顔して、ほんとは鬼じゃないの? 鬼だわ、鬼」
それでもジャニスの怒りは収まらない。レイデンにしてみれば理不尽過ぎる仕打ちだろう。『気を効かせて』戸締りを引き受けただけなのだから。
彼は黙って立ち上がると、トレイの上に置いてあった布巾で濡れた髪を拭いた。前に長く垂らした黒髪を両手でぬぐうそのしぐさがあまりに艶っぽくて私の目からまた水が出た。
水をぶっかけた当人も私と同じことを感じたらしく、動きを止めてレイデンに見入っている。すぐに我に返った彼女は私の手をつかんで立ち上がった。
「ああもう、イライラする! ほら、行きましょ。こんな男に関わってちゃ時間の無駄よ」
一瞬でもレイデンに見とれてしまった自分に怒りを抑えきれない様子だ。
「わかった。行くからちょっと待って」
止めようと思っても涙は出ちゃうし、この騒ぎの後にレイデンと二人きりで残されるのも気まずい。杖と宿泊ツアー用のバッグをひっつかんで、二人と一緒に事務所を後にした。
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乗合馬車は家路に向かう人たちで混み合っていた。ジャニスとニッキにぎゅうぎゅうに挟まれて座っていると、だんだんと冷静に考えられるようになってきた。
フラれたことは受け入れたつもりだったし、次の恋を見つけると宣言もした。けれども、さっきのレイデンの言葉を聞くまでは、もしかして彼はまだ私が好きなのかも、復縁のチャンスだって残ってるのかも、なんて、頭の隅っこで考えてたんだと思う。自分の未練がましさが情けない。
ニッキが私の手をぎゅっと握って顔を覗き込んだ。
「いい加減、落ち着いたのか? また不細工が酷くなったな」
いつだって偉そうな口しかきかないくせに、その眼差しには気遣いが見て取れる。
ーー私、何やってるんだろ?
勢いに任せてついてきてしまったけど、彼と寝るわけにはいかない。
「ニッキ、ごめん、気持ちは嬉しいけど……」
「わかってるって。ハルカは外界人だもんな。でも、気晴らしに遊びに来るぐらい構わねえんだろ?」
彼は鷹揚に笑って見せた。
「そんなこと言って、行ったら襲われるわよ」
ふふんとジャニスが鼻で笑う。
「ハルカの方が俺より強いって」
「そうよね。あんたは害獣みたいなもんだからね。明日は遅刻してもいいから、しっかり慰めてやりなさいよ」
「明日は土曜だろ?」
「事務所の掃除しろって言ったでしょ?」
「行かねえよ。どんだけブラックなんだよ」
ネタが尽きることのない二人の言い争いを聞いているうちに、馬車はプタイタ村の停留所に到着した。馬車を降りてジャニスと別れ、ニッキの家へと向かう。彼は家が密集する村の中心を通り抜けて、村はずれの森の中にずんずんと入っていく。
「ええ、村から出ちゃったよ? 家はどこにあるの?」
「こっちだよ」
「木しかないんだけど?」
「俺は木があるところが好きなんだ」
ほどなくして、木々の間にぼんやりと光るテントのようなものが見えてきた。
木と木の間に張り渡されたロープから薄い布地がカーテンのようにぶら下がり、小さな空間を囲っている。布と布の間から中に入ると、草の上に敷かれた布の上に、日用品が並べられていた。頭上にはエレスメイアの澄んだ夜空が広がっている。天井はないけど天幕って呼んでもいいのかな?
魔法がかけてあるらしく、内側には夜の冷たい風は入ってこない。
「ほんとにエルフって感じだね」
「お前まで言うのか?」
「外界のエルフは上品で教養があって格好いいんだよ」
「それは分かってんだけどさ。なんか腹が立つんだよな」
「村に家は借りないの? 代理店と契約したんだったら、しばらくはこの村にいるんでしょ?」
「俺はこっちの方が性に合ってる。飽きたら簡単に場所を移せるしな。さ、どこにでも座ってくれよ」
床に敷かれた布は、一見薄っぺらいのに弾力があって座ってもお尻が痛くない。
家具はミカン箱をひっくり返したような台が一つだけ。上には食器や筆記用具に交じって写真の入った額が置かれていた。
「あれ? この写真……」
王都の繁華街でニッキが矢島さんとジョナサンに挟まれて笑ってる。外界でプリントされた写真のようだ。
「矢島さんたちが留学してた時の写真だね」
「ああ、それ、ジョナサンが送ってくれたんだ」
彼らは一期生だから七年前になるのかな?
「みんな若いね。ニッキも素直に笑えるんだ」
「俺はいつも素直だろうが」
「楽しそうだね」
「ああ、あの頃は楽しかったな。もっと自由に会えりゃいいんだがなあ」
「どうやって知り合ったの?」
「外界には昔から興味があったからな。留学生が来るって聞いて見に行ったんだよ。思ってたのと全然違うもんだから、色々質問してさ、そのうちにつるむようになったんだ。でも半年もしないうちに帰っちまった」
「矢島さんはすぐに戻ってきたんでしょ?」
「いや、一年以上経ってから 『ICCEE』の職員になって戻ってきたんだ。滞在許可が出たなんて聞いてなかったから驚いたな。キュウタのコネで外界の仕事を貰えるようになったんだよ」
「あれ? 喧嘩ばっかりしてたんじゃないの?」
「まあ、そうなんだが、俺が頼み込んだんだ。ジョナサンはこっちには来れないからな」
なるほど、こんなに態度が悪い奴が選ばれたのはそういう事情だったのか。苦手な相手でも面倒は見てやるところが矢島さんらしい。
「ほれ、枕だ」
ニッキがフェルトの塊のようなずっしりとしたクッションを投げてよこした。
「私もここに寝るの?」
「一部屋しかねえからな。それに離れて寝たらしゃべれねえだろ?」
毛布も一枚しかないようなので、仕方なく並んで潜り込む。明かりが消えても、上から差し込む月明かりで天幕の中は明るかった。
「なかなかいいもんだろ?」
「うん。でも、雨が降ったらどうするの?」
「雨除けの魔法をかけんだよ」
月がきれいだ。寝室の窓からレイデンとよく眺めたな。そう思ったらまた涙が出そうになった。
「あ、また泣いてんだ」
「まだ泣いてないよ」
月の光を照り返して彼の金の髪と白い肌が淡く光っている。なんてきれいなんだろう。
「なんだ、俺に見惚れてんのか」
「うん。しゃべらなければ最高だよ」
月光を浴びたレイデンもきれいだったな。艶のある黒髪と浅黒い肌がミステリアスな感じでさ……
「ああ、もういい加減にして!」
思わず声が出た。
「おい、なんで怒ってる?」
「何を考えてもレイデンが出てくるの」
「お前さあ、ほんとにあいつの事が好きなんだな」
「だって一生を誓い合った相手だったんだよ。どうやったら忘れられるのか、わからないんだ」
「気持ちは分かんねえこともねえが、あいつはやめといて正解だ。お前にあの『目ん玉』は手に負えねえよ」
「え? どうして知ってるの?」
「見えんだよ。俺も目がいいからな」
ニッキがにやっと笑った。
「ほら、こっちこいよ。あいつの事、忘れさせてやる」
「それは断ったでしょ?」
「ひっつくぐらいなら構わねえだろ?」
見た目より筋肉質の腕が伸びてきて私の肩を抱き寄せる。抵抗はしなかった。なんだかんだ言いながらもニッキを信頼していたし、人のぬくもりが恋しかったのもある。
「馬鹿だなあ。こんなに遠くまで来てフラれてやがんの」
からかうような声が耳をくすぐる。
「うるさいな」
とたんに抑えられなくなった涙が溢れだした。
「ほれ、これで拭けよ。俺に鼻水つけんじゃねえぞ」
ニッキは柔らかな布切れを私の顔に押し付けて、ぎゅうと抱きしめてくれた。
「好きな奴に見てもらえないってのは辛いよなあ」
そう言った彼の声は少し寂し気だ。彼にも想い人がいるのかな? 涙を拭いて顔を上げると彼が私を見つめていた。明るい琥珀の瞳はそれ自体が光を放っているように見える。何もかも見透かされているような気がして、急いで目をそらせた。
「ほんと、こじれ過ぎなんだよ」
「こじれるって恋愛の話? こじれるも何も別れちゃったんだけど……」
「お前の運命のことだよ」
「え? ニッキって未来が見えるの?」
「ちょっとした占い程度だがな。占いって言ったってお前らの世界のインチキよりは当たるんだぜ」
笑いながら私の額に口づける。ちょっと、それはやり過ぎだって。
「お前ならいいかもって思ったんだけどな……」
「え?」
「でも、こんだけこじれてちゃ、俺には付き合いきれねえよ」
「……そんなに……ひどいの?」
「すでにこじれまくってんだろ?」
顔を上げたら、彼はニヤニヤ笑ってる。人事だと思ってさ。まあ、否定はしないけどね。
「私、ニッキにまでフラれちゃったみたいだね」
「そういう事だな。まあ、お前がどうしても俺と付き合いたいって気になったら、頑張ってみてもいいがな」
「うん、ありがとう」
それはなさそうだけど、とりあえず礼だけ言っておこう。
「なあ、ハルカ。タニファがお前をここに送ったのは、お前を苦しめるためじゃねえと思うぜ。どんなに辛くてもすべての出会いには意味があるんだ。繋がってみなくちゃ分かんねえのが厄介だけどな」
彼の身体は清々しい匂いがした。森の木々に包まれているような穏やかな気持ちになる。これほどまでに人の温もりを求めていたなんて思いもしなかった。彼は自分の故郷の話や、外界に行った時の出来事などをぽつりぽつりと話してくれた。
瞼が重くなってきた頃、耳元で柔らかな歌声が聞こえた。薄目を開けると、信じられないことにニッキが歌を口ずさんでいた。
ーーやっぱりエルフじゃないか。
歌声は澄んだ冷たい水のように心の傷を洗ってくれた。彼の暖かな腕に包まれ、久しぶりに安らかな気持ちで眠りについた。




