退職届
レイデンのことは忘れるとケロに宣言したので、ますは寝室の模様替えをした。家具を動かし、ベッドのカバーも違う色に変えて、この部屋に彼がいた痕跡はすべて消し去った。それなのに朝になると時間通りに彼が出勤してくるのだから、どんな努力も無駄に終わってしまう。
毎朝支度をして階下の事務所に降りていくのが憂鬱でたまらない。耐えられなくなった私は、ある決断を下した。
「ねえ、ケロ。仕事を辞めることにしたんだ」
「え? ほんとに?」
「うん。今日退職届を書くよ。今期もあと一週間だし、すぐに提出すれば次の留学生が来るまでに引継ぎもできるでしょ」
ディアノの本社や『ICCEE』から引き止められるのは目に見えているし、事務所からも引っ越さなくてはならない。色々と面倒なのは分かってるけど、いつまでも失恋の相手と並んで仕事をするよりはずっとましだ。
「レイデンは仕事はできるから、次の人ともうまくやっていけると思うよ」
「次の人って、本社のハルカに意地悪してた人が来るのかな?」
「うん、きっとそうだろうね」
あの人たち、私がいなくなれば喜ぶだろうな。彼女たちの一人がここでレイデンと働いているのを想像すると胸がきりきりと痛む。でも彼はもう私の恋人ではないのだ。距離を取らないと私がダメになってしまう。
なにがなんでも事務所を辞める。そう決意したら少しだけ心が軽くなった。
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どの留学生に滞在許可を出すのか、そろそろ『魔法院』が最終的な決断を下す頃だ。求められる能力の持ち主であれば、シホちゃんのように先に決まることもある。山田さんも決定なのだけど、辞退する意思は変わらないようだ。
講師のジェドから聞いた話によると、今年は北アメリカ地区とユーラシア南部地区からも一人ずつ選ばれそうだということだった。一人は水面にぽっかりと穴を開けることができるらしい。そんな魔法をなんに使うんだろ?
もう一人は?と聞くとジェドは肩をすくめて見せた。『上級魔法使い』の私には一介の代理店職員には教えられないことも話してくれるのだけど、なにか事情がありそうだ。院長に聞いてみようかな。
今日は修了証書の下書きに取り掛かった。修了証書は魔法学校の修了式で生徒さんたちに手渡される。それぞれの代理店が自分のところの生徒さんの下書きを担当する事になっていた。
学校からのレポートを集計した表計算ソフトを眺めながら、レイデンと私は修了証書に書き込む内容について話し合った。彼との共同作業は精神的に堪えるが、あと少しでこの苦しみから逃れられるのだと思えば耐えられた。
二年前に代理店同士で相談して大雑把に魔法の系列を分けた。『魔法院』の定める分類からはかけ離れたものだけど、そんなの、外界の人は誰も知らないんだから気にすることはない。エレスメイアの公式資格でもないので、修了証書に何を書こうが『魔法院』も関知しない。
「ダニエルさんですが、火炎系が二十五、水系が二十四、治癒系が七つですね。後りはみんな五つ以下です」
PCの画面を見ながら、レイデンが澄んだ声で読み上げた。
「うーん、火と水とどっちがいいかな?」
「ジェドからの覚書がありますよ。薪に点火できた時が一番嬉しそうだったと書いてあります」
レイデンがダニエルのファイルを確認する。面談でも火を使う魔法はわくわくするって言ってたな。
「じゃ、火の方がいいね」
ということで、修了証書には
『属性: 火炎』
『魔法力: B+』
と書きこまれる。
実際には火炎系、水系なんて単純なわけ方はできない。火を起こすことができても炎を操れなかったり、水の上を歩けても雨すら避けられない人もいる。つまり『属性』なんてものは存在しないのだ。
最初のうち、修了証書には魔法学校に通った期間しか記載されていなかったのだが、生徒さんの要望に従って今の形式に変わったのだそうだ。
確かに「俺の属性は火炎なんだ」って断言できたほうが格好いい。どうせ外界に戻っても魔法は使えないのだから、それなら少しでも喜んで貰えたほうがこちらも嬉しい。
それとは別に、使う事のできた魔法のリストを手渡すことになっているんだけど、外界に戻ってからそれを見ても、虚しくなるだけなんじゃないかと心配になる。準備するたびにあの時のジョナサンの寂しそうな顔が頭に浮かぶのだ。
いつか誰もが自由に行き来できる日がくればいいのにな。
今日作った下書きは、代理店と 『ICCEE本部』が目を通し、内容に問題がなければ 『本部』で印刷される。
村の名産のバサの紙でできた証書を渡せたらいいんだけど、『魔素』のない外界に持ち出すとすぐに劣化して崩れてしまう。紙もインクも外界の物を使わなくてはならないのだ。
証書の下書きのファイルをSDカードにコピーして封筒に入れた。休み時間を使って書いた退職届も別の封筒に収めてある。明日の朝一番に送るつもりだった。
終業時間になり、帰宅しようと立ち上がったレイデンに声をかけた。
「ねえ、レイデン」
「なんでしょうか?」
「私、仕事を辞めようと思ってるんだ。って言うか、もう決めたん……」
「無理ですね」
言い終わる前にレイデンが遮った。
「え、どうして?」
「辞めようとしても辞められないんです。ハルカがこの先もここで働いているのを見てしまいましたから……」
申し訳なさそうに彼は自分の額を指さした。
「そ、そうか。『目玉』で見えちゃったんだったら時間の無駄だね」
「はい、そういう事です。では、また明日」
レイデンは優雅に頭を下げて、ドアから退場する。帰り際まで腹が立つほど格好いい。
残された私はソファにへたり込んだ。退職の望みも絶たれてしまった。もうどうしていいのかわからない。
「ハルカ。元気出しなよ」
ケロが大きな頭を私の足にこすりつけた。
「ねえ、レイデンって悪魔なのかな? じゃなきゃ、こんなに私を苦しめるはずがないよね」
「そんなわけないだろ。しっかりしなよ。悪魔なんて外界の迷信だろ?」
しきりにケロが励ましてくれたけど、どん底まで落ち込んだ私は夕食も取らずに布団に潜り込んだ。




