誓いの呪文
翌日は熱を出して一日中ベッドの中にいた。ツアーもイベントもない週末だったので、幸い仕事に影響はなかった。
少し眠っては夢にうなされて目を覚ました。『目玉』に記憶をかき回されたせいなのか、子供の頃に起こった出来事が夢に出てきた。あまりに鮮明なので目覚めたときに自分がどこにいるのか分からないこともあった。起きているときはレイデンを思って泣いた。何度も吐いたけど、何も食べていないので胃液しか出ない。
ケロはしきりに病院に行くように勧めた。魔法の攻撃を受けたのだから後遺症が出るかもしれないと言うのだ。けれども、そうするとレイデンが私に対してした事を説明しなくてはならない。彼に罪に問われて欲しくはなかった。
私に諦めさせるために、やむなく『目玉』に襲わせたのだと信じたかったし、実際にそう信じていた。彼はいつだって私を気遣ってくれていた。別れると決めたからって、私の身体にダメージが残るような真似をするはずがない。
私が記憶の中で出会った怪物は『ミョニルンの目』の化身だったのだろう。レイデンの意志で動いていたようには見えなかった。もしそうだとしたら、本性を隠したサイコパスと私は二年半も付き合っていたことになってしまう。
怪物は私に何をしようとしていたのだろう? 私を苦しめることを喜びを見出してはいたけれど、他にも目的があるように感じたのだ。怪物から受けた拷問を思い出すたびに額の奥がずきりとうずいた。
幸い記憶の乱れはその日の晩には落ち着き、翌朝には起き上がって食事を取れるまでに回復した。けれども、まだ体の中に『目玉』の残滓がうごめいている気がして、時折気分が悪くなった。
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月曜日の朝、レイデンは何事もなかったような顔で出勤してきた。あまりに平然としているので、本当に私と別れたのかと疑ってしまうほどだった。
私は前の晩も泣き明かしてしまい、目だけでなく顔全体が腫れ上がっていた。レイデンは私の顔を見ると、少しだけ困った顔をして「大丈夫ですか?」と聞いた。あの時みたいに無感情でもなければ恐ろしくもなく、それがあまりにもいつものレイデンみたいだったので、私はまた泣き出してしまい、それを聞きつけたケロが飛び込んできた。
「あれ? なんで君がいるんだよ?」
「仕事は続けると言いましたよ」
「そうなの、ハルカ?」
私はタオルで目頭を押さえたままうなずいた。
「ハルカ、首にしちゃいなよ」
「それは無理なんです。私はこの先もここで働くことになってるんですよ」
レイデンは少しだけ申し訳なさそうに見えた。
「それは君の『目玉』が見たことなの?」
「はい」
「じゃあ、仕方ないね」
ケロはあっさりと受け入れた。この世界の人たちは、魔法で定められた運命には逆らおうとしないのだ。
「でも、僕は心配だな。君は禁じられた魔法を使ったからね」
「もうあんなことはしませんよ」
「それじゃ、僕の前で、君の『目玉』の魔法をハルカに使わないって約束してくれる?」
「わかりました。二度とハルカに『ミョニルンの目』の能力を使わないことを誓います」
彼は自分の左胸に手を当て、静かな声で呪文を唱え始めた。聞いていたケロの首の後ろの毛がざわりと逆立った。
「ねえ、その呪文を使う必要があったの?」
「これならあなたにも信用してもらえるでしょう?」
「そうだけどさあ……」
ケロは納得のいかない顔をしたけど、レイデンは気にも留めない様子で自分の席に座った。
後からケロに聞いたところによると、レイデンが唱えた呪文は、数ある誓いの呪文の中でも最も効力のあるものだという。術者は決して誓いを破ることができない。破ろうと試みた瞬間に心臓が止まってしまうのだから。
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レイデンと別れたあの日から二週間が経った。別れたと言っても彼は住居を村のはずれの小さな家に移しただけで、毎朝欠かさず出勤してくる。『目玉』が見た未来には逆らえないのだろうけど、毎日狭い事務所で彼と顔を突き合わせているのは辛すぎた。
彼が恋しくて毎晩布団の中で泣いた。絶対に別れないって言ったのに。彼の言葉を疑いもしなかったのに。いつまでも二人で並んで歩いていけると思っていたのに。
まだ少しでも私の事を気にかけてくれてるんだろううか? たとえそうだとしても、彼の『目』は未来の幸せを見てしまったのだ。私への愛情が障害になるのなら、無理にでも忘れようとするだろう。
仕事の後はケロと二人きりだ。気を紛らわせようと、夜間は害獣退治のバイトに精を出した。
この晩も杖を握ってバサの畑に入った。バサの新芽をエルフたちが切り落としてしまうので、追い払ってくれと頼まれたのだ。
紙の原料になる植物なので、切り落としても何の役にも立たない。エルフたちはただ村人を困らせるためにいたずらをするのだが、いたずらなんてかわいらしいものではない場合も多い。
身長は五十センチほど。妖精的なかわいい外見をしていても、目を見れば奴らが悪意の塊であるのが分かる。昔は方々にあった『門』からドイツ側に遠征して悪事を働いたといい、『門』が閉じられてからも子供が行方不明になったり病が流行ったりすると彼らのせいにされたそうだ。
エルフの痕跡を探しているうちに、丸太のように太い縞模様の蛇と鉢合わせた。
「あら、ハルカさん、こんばんは」
鎌首をもたげて蛇が言った。彼女は広場の反対側で糸屋を営んでいるリリーダニラさんという 『人蛇』だ。気分によって蛇になったり女性になったりするのだが、今は見事な大蛇の姿をしている。
「最近、ツノネズミを見かけなくなっちゃって。もう少し残してもらってもよろしいかしら?」
「ごめんなさい。そんなに減っちゃいましたか?」
「おやつにちょうどいいサイズなのよねえ」
「エルフの駆除を頼まれてるんですけど、ネズミも驚かしちゃってたんですね。気を付けます」
駆除と言っても攻撃魔法で脅かして追い払うだけなのだけど、私が毎晩しつこく見回りに行くものだから、ネズミたちも嫌気が差したのかもしれない。
「ところでハルカさん」
リリーダニラさんが舌をチロチロと震わせた。
「はい」
「レイデンさんと何かあったのかしら?」
「え、そ、それは……」
突然に切り出されて私は口ごもった。
「答えにくかったら答えなくてもよいのよ」
「いえ、いいんです。……彼とは別れたんです」
「あら、やっぱりそうだったのね」
大蛇は居心地悪そうに身をくねらせた。
「嫌なこと聞いちゃってごめんなさいね。でも皆さん、心配されているの。それならあたしが聞いた方がいいかなって」
そういえば、村の人たちも、私と話すときは一切レイデンの名前を出さなくなった。気を使ってくれてたんだ。ゴシップ好きのラウラおばさんでさえ何も尋ねようとしないぐらいだし。
「そうですよね。話そうとは思ったんですが、まだ辛くって……」
「私から皆さんに伝えても構わないかしら」
「ええ、そうしてもらえると助かります」
私はためらわずにお願いした。彼女ならうまく話してくれると思ったのだ。
「あの、よろしかったらお茶を飲みにいらっしゃいね。お話したら気持ちが楽になるかもしれなくってよ」
「ありがとうございます」
リリーダニラさんは伸びあがって私の額に鼻で触れ、そのままバサの茂みの間に滑り込んで見えなくなった。蛇のキスは幸運を招くと言われているから、元気づけようとしてくれたんだろう。
何日か経つと憎たらしいエルフ共は一族郎党引き連れて隣の村に移ってしまい、害獣退治に出る必要もなくなった。
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家にいると気が滅入るので、今度は夕方の散歩を日課にした。三年も住んでいる小さな村なのに、のんびり歩いてみると新しい発見がある。最近太り気味のケロも時々連れて行った。
その日は通りの標識を見ながら歩いた。取り出したメモに私が目をやるのに気づいたケロがメモを覗き込んだ。
「なあんだ。レイデンの家を探してたの?」
「まあね。どんな所に住んでいるのなって思って」
標識を見てもエレスメイア語の表記なので、文字の形を照らし合わせないとわからない。
「もう諦めた方がいいよ」
「諦めてるけど? 突然出て行っちゃったし、ちゃんとしたところに住んでるのかなって心配してるだけでしょ?」
「全然、諦め切れてないじゃないか。ほら、なんだったっけ、外界で女の子にフラれたのに、付きまとって逮捕された人いたじゃない」
「ストーカーのこと?」
「そうそう、今のハルカ、ストーカーみたいだよ」
「やめてよ。気持ち悪い」
でも、客観的に見たら、確かに今の私の行動は気持ちが悪い。
「いつまでもハルカが忘れてくれなかったら、レイデンだって困るだろ?」
「そうだね」
「早く新しい彼氏を作りなよ」
「そうするよ。でもレイデンより素敵な人なんてこの世に存在しないと思う」
「重症だね」
「うん、重症。でも頑張って忘れるよ」
そうだ、ケロの言う通りきれいさっぱり諦めよう。彼に未練がましい女だと思われたら悔しいし。




