幸せな未来
私の頭はレイデンの言葉を理解することを、かたくなに拒んでいた。
こんなの悪い夢に決まってる。もう少ししたらレイデンが私を揺り起こして、「ハルカ、朝ですよ」って言ってくれるはず。それとも、誰かに魔法をかけられたのかも。意地の悪い幻影の魔法で、私を困らせようとしてるんだ。
顔を上げればレイデンがただ黙って私を見つめている。さっきと同じ、感情の消えた緑の瞳で。
これは現実じゃない。こんなに辛いことが現実のはずがない。これほどまでに好きな人と、どうして別れなくっちゃならないの?
「……嫌……だよ」
はっきりと言ったつもりなのに、かすれた声しか出なかった。
「すみません」
「……どうしてなの? ずっと一緒にいてくれるって言ったのに」
「ええ、言いました。でも、無理なんです」
「式を挙げるって言ったのも嘘なの?」
「それは謝ります」
「謝ってなんて欲しくないよ」
「ここでの仕事は続けます。あなたに迷惑はかけません」
「迷惑って……そういう話じゃないでしょう?」
彼の柔らかな声にも、長いまつ毛に縁どられた美しい瞳にも、ひとかけらの感情もこもっていない。どう考えたっておかしいよ。あんなに優しくて泣き虫だった人が、ここまで変わってしまえるものなの?
もしかしたら、魔法で操られているのかもしれない。誰かが彼に化けている可能性だってある。どんなに荒唐無稽に思えても、『魔法世界』ではなんだって起こりえるのだから。
「……あなた、本当にレイデンなの?」
「何を言ってるんですか?」
「だって、私の知ってるレイデンはこんなに冷たい人じゃないよ。今のあなたは……人形がしゃべってるみたい」
彼の顔に初めて感情が浮かび上がった。それは今まで彼が一度も見せたことのない怒りの表情だった。
「あなたが私の何を知ってると言うんですか? 顔さえまともに見たことがないというのに」
「そんなことないよ。いつだって見てるでしょう?」
「いいえ、あなたにはわかっていないんです。この『目玉』も私の一部なんですよ。これを隠さなければ、あなたには私の姿を見ることすらできないんです」
彼は両手の手袋をはずし、無造作に床に落とした。
「……何……してるの?」
「あなたに私を見てもらうんですよ」
手袋を外した理由は一つしか思いつかない。退路を求めてドアの方向へ一歩下がった時、彼は短い呪文を唱えた。足が床に吸い付いたように動かない。これは……拘束の魔法? 禁じられた呪文を私に使ったっていうの?
「どこに行こうとしてるんですか?」
両手がゆっくりと差し出され、私の顔に近づいてくる。触れられれば恐ろしい『ミョニルンの目』が見えてしまう。
「やめて、触らないで!」
「そんなこと言うんですか? 顔見てセックスできない男とは結婚できないなんて言ってたくせに?」
大きな両の手のひらが私の顔を挟み込んだ。反射的に目を閉じようとしたけれど、金縛りにあったように瞼が動かない。巨大な濁った『目玉』が無遠慮に私の目を覗き込んだ。
「やめて、レイデン、お願い!」
私の必死の懇願にも彼は力を緩めようとしない。『目玉』の真っ黒な視線が私を刺し貫いていく。膝の力が抜けて、私は床にへたり込んだ。
指輪に呪文を込めて攻撃すれば、彼から逃れることができるかもしれない。そう思って右手を握りしめはしたものの、腕が持ちあがらなかった。『目玉』は私の身体の自由を奪い、感覚をも蝕みつつあった。私の意識から切り離された身体は、それでも『目玉』の支配に抗おうとして釣り上げられた魚のようにびくびくと跳ねた。
『目玉』の闇はアメーバのように心の奥底にまで潜り込み、大切な思い出が秘められた小箱を次々とこじ開けていった。幸せな記憶ばかりではない。過去の恥ずべき思い出も、自分の中に存在することさえ知らなかった薄暗い思いも、舐めるように読み取っていく。隠せるものなんて何もない。
細部まで貪りつくすと興味を失い、次の記憶へと手を伸ばす。用無しになった記憶のかけらが雪崩のように私の意識を飲み込み押し流した。
いつしか、私は薄暗い部屋の中に立っていた。冷たい地面を見下ろせば私は靴を履いておらず、子供のような小さな足をしていた。
どうしてこんな場所に来てしまったのか分からない。おうちはどこだろう? 迷子になってしまったみたい。
部屋の中を見回すと暗い隅っこに背の高い人が立っていた。壁の方を向いて、何かを呟いている。
「レイデン……なの?」
私はその人に声をかけた。でも……レイデンって誰だったっけ?
私の声に振り向いたそれは人ではなかった。ねじれた灰色の人間の身体の上に、巨大な目玉がのっかっている。
怪物は私に向かって手を伸ばした。私は部屋から飛び出して、細くまっすぐな道をひたすら走って逃げた。どこかで見た懐かしい日本の街並みが私の周りを流れていく。すれ違う人たちが私の名を呼んだけど、返事もせずに走り続けた。
気づけば家の近所まで来ていた。まっすぐ進めば私の通う小学校。右に曲がれば神社の境内に出る。でも自分の家がどっちにあるのか思い出せない。
曲がり角から見覚えのあるシルエットが現れた。明るい色の髪をした男性だ。私の名を呼びながら手を振っている。
「お父さん? 迎えに来てくれたの?」
私は父に駆け寄り抱きついた。お父さんの身体、冷たいな。どうしたのかな? 見上げたら、首の上には大きな目玉がついていた。
しまった、騙されたんだ! 怪物は逃げようともがく私を羽交い絞めにして、湿った路地裏の黒ずんだブロック塀に押し付けた。冷たい身体が覆いかぶさってくる。
「やめて! いやだよ!」
「ドウシテ? ワタシヲ ホシイトイッタノハ アナタデスヨ?」
口もないのに無機質な声が耳元で響く。怪物は私の顔に自分の大きな頭部を押し付けた。目玉の表面のどろりとした粘膜が私の口と目をふさぐ。振りほどこうとしても私の顔に貼りついて離れない。
額の中央に激痛が走った。焼いた釘を打ち込まれているような痛みが、額から全身へと広がっていく。それと同時に怪物が感じている残忍な喜びが肌を通して流れ込み、耐えがたい痛みを麻酔のように和らげた。
痛みから逃れたいばかりに、私は怪物にすがりついた。押し付ける度に私の身体は怪物の中に飲み込まれていく。お互いの肉体が混じりあうにつれ、おぞましい快感も増していった。けれども、ますます激しくなる額の痛みには、焼け石に水でしかない。
もう逃げられない。痛みで発狂するか、怪物に取り込まれてしまうまで、この苦しみは終わらないのだ。絶望に泣きたくても、もう自分の顔がどこにあるのかも分からない。
遠くで誰かが叫んでいる。助けてほしいと誰かの名前を呼んでいる。それは自分の声だった。もう口なんてないのにどうやって叫んでいるんだろう……。
叫び声に呼応するように、視界の端にまぶしいオレンジ色の光が差し込んだ。私を飲み込んでいた怪物は溶けるように姿を消し、突然に痛みから解放された。心の隅々にまで入り込んだ黒い闇が明るい光の波に洗い流されていく。
底なしの冷たい深淵に晒されていた私の目は、暖かな光の源に引き寄せられた。そこには太陽のように輝く大きな獣が立っていた。
息を吸おうとして、自分の吐いたものでむせ返る。私は床の上に体を丸めて転がっていた。自分が事務所にいるのだとわかるのにしばらくかかった。かび臭い路地裏で怪物に襲われたのは幻覚だったのだろうか? 額にはまだ確かに鈍痛が残っているというのに?
「ハルカ、もう大丈夫だよ。しっかりして」
獣が振り返り、私に話しかけた。溢れ続ける涙で獣に焦点が定まらない。でも、獣の声はケロの声だった。
身体を起こそうとしても、手足が言うことを聞かなかった。ケロは私とレイデンの間に立ちはだかり、私を守ってくれていた。逆立った背中の毛が電球のフィラメントのように光を放っている。物凄い魔力を感じる。これがケロの魔法?
「レイデン、なにしてるんだよ? ハルカを殺すつもりなの?」
ケロが唸るように彼をなじった。
猫の向こう側に立つレイデンは、何事も起こらなかったかのように平然としている。落ち着き払った表情は完璧なまでに美しく、髪一筋の乱れすらない。
「すみません。少しやり過ぎてしまいました」
手袋をはめながら、反省の色など微塵も感じられない声で彼は謝った。
「少しじゃないだろう? 君のしたことは犯罪だよ。わかってるの?」
「わかっています。でも、こうでもしないとハルカには理解してもらえませんから」
そう言うと彼は私に向かって一歩踏み出し、手を差し出した。
「ハルカ、立てますか?」
返事をしようと口を開いたけど声が出ない。さきほどの恐怖がよみがえり、私は震える手足で体を持ち上げて、彼から離れようとした。
「ハルカに近づかないで!」
ケロが稲妻のような速さでレイデンの手をひっかいた。手袋が大きく裂けたのに、レイデンは表情も変えずに私に語りかけた。
「これでわかりましたね? あれが私の本性なんです。私のような化け物に誰かと添い遂げる資格はありません。だからあなたも諦めてください。そうすれば……あなたも私も幸せになれるんですから」
「……それが……あなたの……見た未来?」
喉がヒリヒリと痛むけど、私はなんとか声を絞り出した。
「私たちが別れたら……あなたは幸せになれるの?」
「はい、そうです」
「……本当に?」
「本当です。『目』が見たことは、必ず実現するのですから」
「私と一緒になったら……その未来は叶わなくなっちゃうんだね」
「はい。私の幸せは伴侶を持つことで得られるものではないんです」
それはつまり私には彼を幸せにはできないということだ。
「……わかった。それなら……諦める」
彼の表情が目に見えて和らいだ。この先、何が彼を待ち受けているんだろう? 私を捨てても手に入れたいほどの幸せって? 自分さえいれば満ち足りているのだと信じてた。でもそれは私の思い込みに過ぎなかったのだ。
死を覚悟するほどの恐ろしい目に遭わされたのに、それでも彼を愛していた。でも彼は私なんて邪魔者でしかないと言っている。胸の奥がえぐられるように痛んだ。ぼたぼたと涙が汚れた青いワンピースに染みを作っていく。
「今までの事……感謝しています」
レイデンは私に向かって深く頭を下げ、ドアを開いて出て行った。
第一部 ー完ー




