異変
深い緑色の湖面を風が渡っていく。湖に着くなり、生徒さんたちは靴を脱ぎ捨てて、ざぶざぶと水の中に入っていった。ジャンマーも一緒に湖に入って火照った足を冷やしている。相棒の無口な白い馬は、近くの林を散策しに行ったようだ。
風は冷たくてもこの湖の水は一年中暖かい。そのせいか様々な生き物が住み着いているのだそうだ。今日は一日ここでのんびり過ごす予定にしている。小さな村でさえ軍事演習が行われているので、毎回人里離れたこの湖まで生徒さんを連れてくるのだ。
私も靴を脱いで暖かな水に足を浸した。足元では乳白色の砂利が穏やかな波に洗われている。
「うわあ、きれいな石! さっきのお話みたいだね」
半透明の緑色の石を見つけてシスカが大声を上げた。
「ハルカさん、これは持って帰ってもいいんですか?」
「ええ、石は構いませんよ」
『魔法世界』の石も外界の石と組成は変わらない。『魔石』と呼ばれる魔力を秘めた石が混ざっていないか検疫での検査はあるが、原則として鉱物は持ち帰ってもよいことになっている。
「やった! もっと拾っちゃおう」
「ほら、あそこにたくさん落ちてるよ」
すでにズボンをびしょびしょに濡らしたエドウィンが水の中を指さした。生徒さんたちは集まってきて、色とりどりの石を拾い始めた。中にはこぶし大の宝石のようなものもあり、拾い上げるたびに彼らは歓声をあげた。
皆のポケットが石でいっぱいになった頃、突然に大きな波が押し寄せて来た。水をかぶった生徒さんたちが叫び声を上げた。
「あれは何?」
ティポが波の原因に気づいて沖の方向を指さした。二十メートルほど先の湖面が盛り上がり、そこを中心に波が広がっているのだ。やがて紫がかった巨大な岩の塊のような物が水の中から浮かび上がってきた。
「なんなの? 魔法の島?」
岩の塊が動きを止めたかと思うと、周囲の水面からにょきにょきと吸盤のついた足が現れて、勢いよくこちらの方に伸びてきた。生徒さんたちは悲鳴を上げて浜辺に駆け上がった。
「タコのお化けだ! 食べられちゃう!」
シスカがそばにいたジャンマーにしがみつくと、馬はいななくような声で笑いだした。
「嬢ちゃん、大丈夫だ。こいつは俺のダチなんだよ。人間なんて取って喰いやしないさ」
ジャンマーは毎回大ダコと組んで生徒さんを驚かせるのを楽しみにしている。今回も成功したので嬉しそうだ。私は彼の楽しみをぶち壊したくないので、危険がない限り傍観することにしている。
「ええ? さっきの話のお化けかと思ったのに」
「ありゃあ、作り話だ。嬢ちゃんたちをびっくりさせようと思ってな。まあ、ツアーの余興だと思ってくれ」
岩の塊ががぐるりと回転して、大きな目玉が水の中から現れた。
「こんにちは、みなさん。お化けと言われると傷つきますが……」
巨大なタコはそう言いながらずるずると浜辺に上がってきた。八本どころではない数の太い足も入れると一軒家ほどの大きさがある。性別は不明だがタコの声は女性的で柔らかかった。
「ごめんなさい」
シスカは大ダコに歩み寄って、素直に謝った。
「いえ、脅かしたのはこちらです。気になさらないでください。きれいな石を集めておきましたので、お土産にお持ちくださいね」
「なんでタコさんは湖にいるんですか?」
すっかりリラックスした様子で、シスカが先程の疑問を直接タコにぶつけた。
「川を辿って旅をしていたのですが、気づいたら『壁』が出来てしまっていて海に戻れなくなったのですよ」
という事はずいぶんと昔からこの湖にいるらしい。
「方々に『門』があった頃は、あなた方の世界にも遊びに行ったのですよ。ちなみに私はタコではなくクラーケンという生き物なのですが、ご存じありませんか? 一族では小さい方なのですけどね」
「そうなんですか? 外界では船を襲う怪物だって言われてますよ」
「ああ、それは悲しい誤解なのですよ。沈みかけた船を救助しようとしていたのに、目撃した人はクラーケンが事故の原因だと思ったようなのです。昔は海難事故が多かったですからね」
ツアーのたびにこの生き物には会っているけど、クラーケンだったのか。おかしな形のタコだとばかり思ってた。
生徒さんたちは湖の中でクラーケンを囲んで遊び始めた。レイデンも仲間に入って笑ってる。少しは元気が戻ってきたのかな?
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帰りの馬車の中、レイデンに身体を押し付けるようにして座ってみた。普段なら頬を赤らめて嬉しそうな顔をするんだけど、彼の表情は硬いまま、こちらを見ようともしない。やがて馬車の揺れに合わせるように、彼の体は少しずつ離れていった。
間違いなく避けられてる。今日は道中、結婚式の準備について話そうと思ってたんだけど、それどころじゃない。理由を知りたかったけど「どうして避けてるの?」とは尋ねにくかったし、答えを聞くのはもっと怖かった。
村の広場で解散して事務所に戻ると、レイデンは疲れたからと夕食も取らず二階に上がってしまった。私が寝室に入ると、彼はすでに寝息を立てていた。背中を向けて眠る彼を起こさないよう、私はベッドの端で眠った。
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日が経つにつれてレイデンはますます私と距離を取るようになった。あれから悪夢を見ている様子はない。けれども相変わらず元気はなく、自分から会話を始めようともしなかった。
私に触れられるのを明らかに避けていた。露骨に表情に表すわけではないのだけど、触ると身体を固くして、すぐに離れてしまうのだ。汚らわしい物を避けているかのように。夜も私に触れようとしない。言い訳さえしなかった。
避けられるのが怖くなって、ここ数日は彼に近づいてさえいない。『婚姻の契約』の話で盛り上がっていたのが、夢の中の出来事のように思えた。
話しかけられれば彼は優しい笑顔を見せてくれる。でもその笑顔は私の心を切り裂いた。『ミョニルンの目』を持たない私にも、それが作り笑いだって分かっちゃうんだよ。
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「ねえ、私、どこか変わった?」
『魔法院』の帰り道、ドレイクに聞いてみた。
「臭かったり汚く見えたりしない? ええと……その……魔法的な意味で」
レイデンは私の姿を『ミョニルンの目』を通して見ている。竜も魔法や真実を見通す目を持っているという話だから、私が原因なのだとしたら何かヒントをくれるかもしれない。
「どういう意味だ? ハルカは相変わらず愛くるしいが......」
竜は首を伸ばして、私を四方から眺めまわした。
「そ、そう?」
こいつには愛くるしく思われていたのか。
「何かあったのか?」
「ちょっとね」
「ふん、目玉の小僧だな。俺がヤキを入れてやろうか」
「たいしたことじゃないよ。余計な事はしないで」
「たいしたことじゃない? それならどうして泣く?」
顔に手をやると頬を涙が濡らしていた。竜は足を止めて自分の硬い頬を押し付けてきた。
「何するの?」
「ここで泣いていけ。『ドラゴンスレイヤー』が泣きっ面で村に戻るわけにはいかないだろう?」
彼の頬の暖かさに、抑え込んでいた不安や胸の痛みが一気に溢れだした。私の涙が枯れてしまうまで金色の竜は辛抱強くそこに立っていてくれた。




