軍事演習の日
その日は平日だったけど、朝早くから生徒さんたちを連れて日帰りツアーに出かけた。行先は王都から馬車で数時間の湖だ。エレスメイアでは、年に二回、軍事演習が行われる。この間、外界人は王都や地方都市などの居住地区から離れなくてはならない規則なので、演習の日に合わせてツアーを組むのだ。
演習があることは留学生には知らせていない。平和でのどかなエレスメイアも国軍を所有しており、王都の外れには大きな軍事施設がある。石造りの高い壁に囲まれ、近くを通っても外からは地味な色の塔しか見えない。『ICCEE本部』では『ヘッドクオーター』と呼んでいるが、中に入った外界人はいないそうだ。
エレスメイアには職業軍人は僅かしかおらず、有事の際には国民が兵として駆り出されるらしい。演習はそのためのものなのだけど、留学代理店の現地人スタッフは参加を免除されるので、レイデンは今日もツアーにくっついてきた。
「毎回休んじゃって大丈夫?」
いつものように馬車の一番後ろの席で揺られながら、レイデンと私は周囲に広がる緩やかな丘陵地帯を眺めていた。観光案内は馬車馬のジャンマーにお任せだ。
「ええ、私は戦闘要員ではありませんから」
レイデンはこちらを向いてにこりと笑顔を見せた。
「戦争する相手もいないのに、どうして年に二回もやるの?」
「災害時の訓練も兼ねてるんですよ。避難経路や備蓄品の確認などもこの日に行います」
「エレスメイアでも災害が起きるの? 魔法で抑えちゃえるんでしょ?」
「過去には魔法使いが総出でも太刀打ちできなかった天変地異があったそうですよ。『壁』の出現も一種の天変地異と言えますしね」
「ふうん。それじゃ防災訓練も必要だね」
「ええ……」
彼は景色に視線を戻し、それ以上会話を続けようとはしなかった。
あの晩からレイデンの様子がおかしい。どうかしたのと聞いてみても、なんでもないですよと笑顔を見せるだけ。会話も続かないし、キスもハグもこちらから求めなければしてくれない。気がかりがあるのは確かなようだけど、話す気になるまで待つしかないのかな。
空は晴れ渡り、遠くの山の稜線まではっきりと見える。でも丘越えの道は風が強くて肌寒い。生徒さんたちは毛布に包まって、これから行く湖に昔住んでいたというタコの怪物の話で盛り上がっている。
「そいつはな、湖に近づく生き物を片っ端から捕まえて喰っちまったんだよ。ニョロニョロと長い足を延ばしてな」
上り坂だというのにジャンマーは息も切らさずしゃべり続けている。
「みんな怖い化け物がいるって知ってたんでしょう? どうして湖に近づいたの?」
シスカがこわごわと尋ねた。
「水辺にきれいな石が落ちてるからさ。怪物が人間をおびき寄せるために並べておいたって話だけどな」
「でもタコは海の生き物なのに、どうして湖にいたの?」
「さあなあ、俺にはわからないよ。だが、嬢ちゃん、これはもう百年も昔の話だ。怖がることはないさ」
もうすぐ生徒さんたちともお別れだ。この仕事をしている限り、別れは避けては通れない。せっかく仲良くなったけど、彼らと再び会う機会なんてほとんどないのだ。留学期間が終わるといつも気持ちが落ち込んでしまう。でも今回はレイデンとの『婚姻の契約』の式が待っているから、寂しさも紛れそうだな。
彼の方をちらりと見たら、バッグからごそごそと封筒の束を引っ張り出している。日帰り旅行にまで仕事を持ってこなくていいのに。
「今日はのんびりしてくれていいんだよ」
「いえ、今朝これが届いていたんです。先に内容を確認した方がいいかと思って」
持ち上げて見せた淡い紫色の封筒は『魔法院』からのものだ。権限がある者にしか封が切れないように呪文がかけられている。私はエレスメイア語が読めないので、手紙を読むのはレイデンの担当なのだ。
「山田さんに滞在許可を出すかどうか審議にかけるそうですよ」
素早く手紙に目を通した彼は、生徒さんたちに聞こえないように私の耳元でささやいた。
「やっぱりね。あーあ、残念だなあ」
先週の面談でもし滞在許可が下りたらどうしたいか尋ねたら、山田さんはきっぱりとこう答えたのだ。
「帰りますよ。家族を置いてきちゃったもんですからね。娘たちが独立して、妻に先立たれるようなことがあれば、いつか戻ってくるかもしれませんが」
誰もが喉から手が出るほど欲しがる滞在許可なのに、今までにも何人もこういう人がいたそうだ。応募要項に「滞在許可が下りた場合、エレスメイアに滞在できる方」、と一文付け加えてくれれば済むことだと思うのだけど、エレスメイア側から条件はつけるなと言われているらしい。
院長に理由を尋ねたら、「そりゃあ、何事も縁ですからね。ここに残っても残らなくても意味があるんですよ」と、いつもの謎めいた答えが戻ってきた。
私はティポとシスカに挟まれて笑っている山田さんに目をやった。最初は心配したけれど、若い生徒さんたちにも慕われて仲良くやっている。溢れるほどの魔法の才能があるのに、鼻にかけることもない。町工場を経営してるって言ってたけど、きっと社員にも好かれているんだろう。
残らない彼の代わりにシホちゃんが滞在できればいいのに、うまくいかないものだな。
馬車は小さな丘の頂上を越えようとしていた。前方に大きな湖が光っている。吹き上げてくる冷たい風にぶるりと身震いした時、おかしなことに気がついた。
暑かろうが寒かろうがいつもなら鬱陶しいほどにくっついてくるレイデンが、今日は十センチも離れて座っているのだ。やっぱりおかしいな。この間の悪夢が原因なんだろうか? それともほかに気に障ることをしちゃったのかな?




