外界へ 《三か月前》
レイデンが初めて外界に渡ったのはほんの数か月前のことだ。今期留学生の『第一次選考会』に、私と共にスタッフとして参加することになったのだ。
一月中旬の寒い午後、私たちはケロの入ったケージを押して『門』をくぐった。
『門』と呼ばれているものの、実体のある扉を通るわけではない。エレスメイアと外界を繋ぐ『門』は直径数メートルの小さな球体の空間だとされているが、特殊な能力を持った魔法使い以外には感知できない。どこにあるのだか分かりにくいので、エレスメイア側では周囲にぐるりと五本の柱が立っている。
初めて『門』を抜けたときには拍子抜けした。外界側の床に描かれた円に足を踏み入れたと思ったら、違う景色の中に立っていたのだ。衝撃どころか移動した感覚すらなかった。
今回、レイデンも同じことを感じたらしく、突然に変化した周囲の光景にきょろきょろと辺りを見回した。
『門』の外界側は巨大な金属製のバンカーで覆われていて、薄暗い。所々に配置された大きなライトの光も隅々までは行き届かないのだ。
レイデンが遥か頭上の天井を見上げて何か言ったのだけど、『門』から漏れ出してくる『魔素』は薄すぎて翻訳魔法は使えなかった。
その場で一通り身体検査を受けてから、窓のない通路を車で五分ほど走ると『ICCEE』の本部の入国管理棟に着く。ここまでは一切外に出ることはないが、たとえ外の風景が見えたとしても、だだっ広い敷地内に点在する近代的な建物が見えるだけだ。
『ICCEE』の本部は、ドイツの黒い森のはずれにある。黒い森と言っても『門』が出現した当時、この近辺一帯は工業地帯として開発が進んでいた。ドイツ政府が周辺の土地を買い上げたが、エレスメイア側が個々の国との交渉を持つことを拒んだため、現在は周辺の数キロ四方を国際機関の『ICCEE』が管理している。
入国ゲートでは矢島さんが待ち構えていた。留学事務所にはちょくちょく様子を見に来るのでレイデンとも顔見知りだ。
「俺はまだ準備がある。先に空港に向かってくれ」
彼は大きなスポーツバッグをレイデンに押し付けた。
「先にって、矢島さんも来るんですか?」
「今回は日本が会場だからな。日本人の俺が行くのが理にかなっているとは思わんか?」
選考会は留学代理店が主催するのだが、『ICCEE』の指示に従って行われれるので、当然、『ICCEE』の職員が参加する。
「お前らのボディガードも兼ねてだけどな」
ジャケットの裾を持ち上げると、銃のホルスターのようなものがちらりと見えた。
「そんなの持って飛行機に乗るつもりですか?」
「そうだよ」
「使えるんですか?」
「昔取った杵柄だからな」
どういう杵柄だろう? 謎の多い人だな。
レイデンが受け取ったスポーツバッグには彼の洋服が入っていた。ここで着替えて行けということだ。
私の服もロッカールームに保管されているので、まずはそちらに向かうことにした。私専用のロッカーにはエレスメイアに持ち込めない私物を保管してある。
出入国ゲート前の広いラウンジの壁は一面の鏡張りになっていた。鏡を嫌うレイデンは頭を下げるようにして歩いていたが、突然立ち止まって、鏡に近づいた。震える手を伸ばして鏡に触れ、次に自分の額に触る。
「どうしたの?」
「イッケルンシュダルフィ」
「え?」
外界ではお互いの言葉がわからない。彼は鏡に映った自分の顔を、食い入るように見つめていた。
「どうしたのかな?」
ケージの中でケロが唸った。もちろんケロの言葉も通じない。ケージの蓋を開いて、ケロから溶け出した『魔素』の中に顔を突っ込んだ。とたんにケロの唸り声が言葉になって耳に飛び込んできた。
「外界には『魔素』がないから、レイデンには『ミョニルンの目ん玉』の能力が使えないんだよ」
「え、それじゃ……」
「『目ん玉』のついた化け物みたいな顔が、レイデン自身にも見えないってことさ」
つまり、彼は生まれて初めて自分の目で自分自身の素顔を見ているのだ。驚くのは無理もない。
「ね、レイデンは恰好いいでしょ?」
通じないのを承知で話しかけたら、彼は私に顔を向けた。緑の瞳がじんわりと涙で潤んでいる。もの凄く感動しているようだ。
彼は手袋をはずし恐る恐る手を伸ばして私の顔に触れた。反射的に目をつぶってから、その必要がないのに気づいて目を開ける。彼の肌が触れているのに、彼の顔に変化は見られない。
そのまま私を引き寄せてキスをした。二人とも目を開いたままお互いを見つめ合う。傍目にはおかしく見えるかもしれないけれど、私たちにとっては最高に贅沢なキスだった。




