レイデンを誘う 《二年前》
レイデンと暮らし始めてもう二年になる。今でこそ普通の恋人のように振舞ってくれるけれど、付き合いだしてからしばらくの間は、彼の自己評価の低さに振り回されてばかりだった。
私が同情心から付き合っているのではと疑っていたらしく、触れるたびに申し訳なさそうな顔をするものだから、ある日とうとうブチ切れた。「同情で好きでもない男と付き合えるか」と怒鳴りつけたら、彼はおいおい泣きながら「ハルカを疑ってすみませんでした」と平謝りに謝った。
弱い者いじめをしている気分になったけど、それからは徐々に遠慮がなくなってきたので、結果的にはよかったのだと思う。
二人きりの時には手袋をはずすようにさえなった。彼に触れる時には目を閉じるのだけど、それでもうっかり『ミョニルンの目』を見てしまうことがあって、そのたびに心臓が止まりそうな衝撃を受けた。
瞬きをしない巨大な目玉は、気味が悪いなんてものじゃない。白目の部分には血走った細かい血管が走り、濁った光彩からにじみ出すべったりとした闇に絡めとられそうな恐怖に襲われる。『目玉』を通して、どこか別の場所にいる存在に見られているんじゃないかと疑わずにはいられない。何度見たって『目玉』への恐怖は薄れることはなかった。
この国では『怪物』と言う言葉は、見た目の恐ろしい生き物ではなく、他者に害を与える悪しき存在に対して使われる。しかし私にはこの『目玉』が気の毒なレイデンに寄生している怪物にしか思えない。
それほどまでに不気味な『目玉』なのだけれど、その能力は想像を絶するものだった。ありとあらゆる呪文が見える上に、なんと未来を垣間見る事すらできるのだという。彼によれば「近い将来の出来事がちらりと見えるだけ」らしいんだけど、それでも凄い。
真面目を絵に描いたようなレイデンは、仕事中は私に触れようとしなかった。休憩時間や終業後に遠慮がちにキスしてくれるぐらい。私の恋人でいられるだけで満足しているらしい。
毎日並んで仕事をしているのに、いつまで経っても進展がない。物足りなくなった私は、彼の頭を引き寄せて、思い切り長い間、唇を押し付けてやった。
「ハルカ? 何するんですか?」
解放されると、レイデンは心底ショックを受けた顔で尋ねた。
「キスだけど」
「な、長過ぎやしませんか?」
「ごめん、嫌だった?」
「いえ、嫌じゃありませんが、最初に説明がなかったもので窒息するかと思いました」
「鼻で息したらいいじゃない」
「そ、そうですね」
いかにも納得した様子で大きくうなずくと、彼は紅潮した顔を突き出した。
「あの、次は大丈夫です。いつでもどうぞ」
なんなの、この人。可愛すぎるよ。彼の一挙一動に私がキュンキュンしてるだなんて、本人は夢にも思ってないんだろうなあ。
最初のうちはぎこちなく唇を合わせていた彼も、やがて自分の身体をぴったりと押し付けてきた。何度もキスを繰り返すうちに彼の息が荒くなる。どんな顔をしてるのか気になったけど、目を開けても『目玉』しか見えないのは分かってる。彼の唇の感触だけを味わうことにした。
「ハルカ……」
息を弾ませて、耳元でレイデンがささやいた。
「休憩時間、終わっちゃいましたよ」
「そ、そうだね」
彼は私からすっと離れると、さっさと机に向かった。
「報告書の続きから始めればいいですか?」
いつだって彼は時間厳守だ。休憩時間なんてただの目安だし、終業までに今日の仕事さえ終わらせれば問題ないっていつも言ってるんだけどなあ。
せっかく盛り上がってきてたのに、仕事を忘れるほど情熱的にはなれないのかな? 『ミョニルンの目』は私をどんな姿に見せてるんだろう? 惹かれると言っても、性的な魅力はないのかも。
書類から顔を上げてレイデンの方を見たら、彼が熱に浮かされたような眼差しで私を見つめていた。私と目が合ったとたん、慌てて目をそらす。
あれれ、さっきのキスの効き目が出てきたのかな?。
こっそり観察していると、私をちらりと見ては赤くなったり、そわそわ身体を揺すったり、まったく仕事に手がついていない。言い方は下品だけど、彼は欲情しちゃったらしい。そしておそらく自分ではそのことに気づいてさえいない。
「ねえ、僕は下の部屋で寝るからいいんだよ」
足元でケロが言った。
「え?」
「ソファの方がいいんだったら、上に行くけど」
ああ、そういうことか。猫のくせに変に気が回るな。
「誘うつもりはないけど?」
「ええ? それじゃ、レイデンがかわいそうだよ。きっとどうしていいのかわからないんだよ。ハルカが挑発したんだから、ハルカから誘ってあげないとダメじゃないか」
挑発したつもりじゃなかったんだけどな。でも、レイデンは女性と付き合ったことがないわけだし、ケロの言う通りかも。
「誘ったほうがいいのかな?」
「恋人同士なんだから、そろそろ恋人らしいことしたら? それともハルカはしたくないの?」
「そ、そんなことはないけどさ」
「そうだよね。いつも寝言でレイデ~ンって言ってるもんね」
「え? ちょっと人の寝言、聞かないでよね」
かわいい猫だと思って布団の上で寝かせてたけど、寝室からは追い出したほうがいいな。
惚れた相手に熱い視線を向けられっぱなしじゃ、こちらも落ち着かない。今日やっとイチャイチャ出来たところなのに、ベッドに誘っちゃ早いかな。でも彼の様子を見てると、あまり待たせても気の毒な気がする。
昼過ぎに激しい雨が降り出したのを見て、決心がついた。
「凄い雨だね。レイデンにはいつ止むのか見えるの?」
彼は申し訳なさそうに首を振った。
「いいえ、分からないですね。見たいものが見えるわけじゃないんですよ」
「もし夕方までに止まなかったら、今夜は泊まっていけば?」
「ありがとうございます。でも私は背が高過ぎてソファでは眠れません」
「違うよ。私の部屋で寝たらいいでしょ?」
「でもハルカがソファでは気の毒です」
この人、鈍いにもほどがあるなあ。
「レイデン」
「はい?
「私の部屋で一緒に寝たらどうかなっていう提案なんだけど」
「え?」
みるみる彼の頬が赤く染まる。
それにしても、露骨に誘っているのに、伝わるまでにこれほど時間がかかるとは。本当に女性経験がないことだけが理由なんだろうか?
「ダメです!」
レイデンはいきなり椅子から立ち上がった。
「絶対にダメです。今日中に提出の分は終わってますので、早退させてください」
それだけ言うと、彼はドアを開けて、大雨の中へと飛び出していった。
「レイデン、ちょっと待ってよ」
慌てて呼び止めたけど、彼はあっという間に視界から消えた。
「どうして撃たないのさ?」
ケロが咎めるように言う。
「男が泊まってかないからって攻撃してたら、ただの変質者でしょ? 明日、彼が落ち着いたら話してみるよ」
思いっきり拒絶されて、普通なら傷つくところなんだろうけど、なにせ相手はレイデンだ。きっとまた常人には理解のできない理由があるに違いない。
そうは言っても、さすがに気になってその晩は眠れなかった。女性と関係を持つと、化け物の姿のまま元に戻れなくなっちゃうとか、体中にあの目玉が増殖するとか、そんな恐ろしい理由があったらどうしよう。
翌朝、彼は事務所に現れなかった。真面目な彼が無断欠勤をするはずもなく、黄色い小鳥が「今日はお休みします。すみません」と書かれたメモを配達してくれたのだった。




