ハルカのホームステイ 《三年前》
三年前の春、ニュージーランドからドイツ南部の黒い森の『ICCEE本部』に連れてこられ、時差ボケを治す間もなく研修を受けさせられた私は、力尽きて宿舎のベッドでぐったりしていた。
散らかったアパートの部屋もそのまま、身の回りの物だけを持って飛行機に乗せられたのだ。タニファからの使命に外界と『魔法世界』の命運がかかっているのだと力説されれば、来ないわけにはいかなかった。任期終了間近のニッキと、私の猫になると決めたらしいケロが同行してくれたので、それほどひどい旅ではなかったけれど。
うとうとし始めたところでドアが激しくノックされ、開けると矢島さんが立っていた。彼は『本部』で働いている唯一の日本人で、私の担当を任されたらしい。
年は四十前後、切れ長の目がきりりとして時代劇のお侍を思い起こさせるが、態度はニッキと同じぐらいにでかい。ドイツ語も英語もペラペラだけど、エレスメイア語は苦手だと言っていた。
「ハルカ。お前はただの留学生じゃないからな、『魔法院』で働いている方がステイ先になってくれる。事情も知ってるそうだ」
「事情って、タニファに出会った事ですか?」
「そうだ」
タニファのことは『ICCEE本部』でも知っている人が限られているらしい。突然に現れた私に怪訝な顔をする留学生もいたが、もちろん事情を話すわけにはいかず、『本部』がでっち上げた嘘の説明をするしかなかった。
「『魔法院』の職員と個人的な付き合いができるなんてめったにないチャンスだ。しっかり仲良くなって来いよ」
『ICCEE』がエレスメイアと交渉する際には『魔法院』が窓口になる。『魔法院』というのは省庁のようでもあり学術機関のようでもあり、とにかく魔法に関することはすべてここの管轄に入るようだ。外界人は立ち入りが禁止されているので、詳細は謎に包まれている。
強大な魔力を持つ『魔法使い』が院長を務めているというのだが、外界人で実際に面会したものはいないらしい。
私の持ってきた『今明かされるエレスメイアの真実』というムック本には、いかにも『魔法使い』の長といった威厳に満ちた白髭の老人が描かれていた。長い杖を振り上げ、ほとばしる稲妻で魔物たちを成敗している。そのせいか『魔法院』には恐ろし気な場所だという印象しかない。
「シングルファーザーのお宅だが大丈夫だよな。息子さんがいらっしゃるのだが、奥さんを何年も前に亡くされたそうだ」
「はい、たぶん」
うちの事務所では女性はシングルファーザーの家庭には入れないようにしているのだが、この場合は仕方ないんだろう。確かにタニファに与えられた使命を理解してもらっておいたほうが、何か起きた時には対処しやすい。
「ミョットリュージェイケルムィンさんとおっしゃるそうだ。覚えられるな?」
「無理です。ミョットル……さん、でいいですよね?」
「それじゃ略しすぎじゃないのか」
「いえ、絶対に言えませんから」
仕事柄、日本人以外の方とご一緒する機会も多かったのだけど、失礼にならぬよう、相手の名前を正確に発音することを心がけてきた。
けれどもエレスメイア人の名前には、完全にお手上げだ。やたらに長いうえに発音が難しすぎるのだ。アルファベットに書き起こすと子音ばかりが十個以上並んだりもする。日本語にない音も多くて、日本人にはまず発音できない。
「いいか。何か起こったらすぐに俺に連絡をよこせ。詳細は手紙には書くなよ。そうだな……学校の近況報告の後に『追伸 納豆が恋しいです』と書け。それなら怪しまれんだろう」
「追伸……?」
「そうだ。『納豆』と書けばすぐに会いに行ってやるから、代理店で待つんだぞ」
「すぐに……ですか?」
「当然だろう。手遅れになっては困る」
手遅れになるような事態ってなんだろう? 矢島さんが出ていくと、不安な気持ちに苛まれながら、またベッドにもぐりこんだ。
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さて、入国してメルベリ村の留学事務所につくと、生え際の後退した小柄な中年のおじさんに紹介された。昔働いてた会社にこんな感じの係長がいたな。ピンクの地に花柄のシャツを着てにこにこ笑っている。『魔法院』にお勤めと聞いて心配してたけど、怖い人ではなさそうだ。
ミョットルさんの家は事務所のあるメルベリ村ではなく、王都のはずれにあった。彼の家は通りの他の家に比べると小さくて質素に見えるけど、こざっぱりとして住み心地はよさそう。学校からは近いし、王都には見どころがたくさんあるので、私は喜んだ。
「遠いところからお疲れさまでしたね。部屋に案内しましょう」
通されたのは日の当たる二階の部屋で、机とベッドが置かれている。ついてきたケロは嬉しそうにベッドの上によじ登り、陽だまりの中で転がった。
「もう友達ができたんですね」
「はい。外界からくっついてきたんです。連れてきちゃってよかったですか? 最初に聞くのを忘れてました」
「ケットシーは歓迎ですよ。幸運を招くっていいますからね」
その時、パタパタと羽音が聞こえたかと思うと、開いた窓から黒っぽい鳥が飛び込んできた。
「うわ、なんで猫がいるのさ?」
しゃがれた声で鳥がわめく。
「彼はダングルです。家族の一員ですよ」
ミョットルさんに紹介されて、鳥は私の腕に舞い降ると首をきゅっと傾げた。
「よろしくね。ハルカ」
「こ、こちらこそ」
ここじゃ鳥までしゃべるのか。知らなかった。渡航前の研修会には最終日しか参加してない。まとめて渡された資料をしっかり読んでおかないと。『今明かされるエレスメイアの真実』は参考にならないと思ったほうがよさそうだ。
作り付けのクローゼットを開けると、鮮やかな色合いの服がたくさん掛かっていた。
「姪のお古なんですが、ハルカさんの話をしたら妹が持ってきてくれたんです。よかったら着てください。ファッションはよくわかりませんが、姪はおしゃれに気を遣う子なので、悪いものではないと思いますよ」
私もこちらのファッションは全くわからないが、道中すれ違う人はてんでばらばらな服装をしていて、流行の傾向を読み取るのは不可能だった。矢島さんが言うには、エレスメイア人は他人の目はあまり気にしないらしい。マイペースなニュージーランド生活に慣れてしまった私にはちょうどいい。
かかっている服はチュニックやワンピースっぽいゆったりとしたデザインの物が多い。どれもきれいな色の手触りのよい布でできていて、見てるだけでわくわくする。
「この部屋はハルカの部屋です。好きに使ってくださいね。お茶をいれますので、もう少ししたら降りてきてください」
ミョットルさんは私を残して階下に降りて行った。
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「魔法院で働かれてるんですよね?」
鮮やかな紫色のお茶を恐る恐るすすりながら、私は尋ねた。
「ええ。あそこで事務をやってます」
「息子さんはお出かけですか?」
「はい、今は留学中なんです」
「エレスメイアから? どこに行ってるんですか?」
「イギリスという国です。英語を学びたいというので行かせたんですよ」
「ええ? 外界に?」
エレスメイア側からも留学生を出していたなんて、まったく知らなかった。
「『魔素』がないので苦労しているようですよ。彼もホームステイ先にお世話になっているので、私も恩返しのつもりで留学生を受け入れることにしたのです。全力でホストファーザーを務めさせていただきますので、ハルカさんも異国の父だと思って頼ってくださいね」
「ありがとうございます」
「あ、これ、サインしてもらえますか? 明日提出しておきますので」
彼はテーブルの上の一枚の紙を指さした。ホームステイの契約書のようだけど、エレスメイア語で書かれているのでわからない。急遽決まったので手続きが終わっていないようだ。
「日本語でいいですか?」
「ええ、あなたの名前でさえあればどの言葉でもかまいません」
渡されたペンで名前を書くと、名前が青白く光った。
「これで私とあなたは晴れて親子になりましたね」
ミョットルさんはにこにこ笑ってる。娘を引き取ったつもりでいるようだ。ホームステイなんてこちらにはない制度だし、少々誤解があるのかも。
「ええと、なんとお呼びしたらいいですか? ミョットルさんかな?」
「他人行儀はやめましょう。どうかお父さんと呼んでください」
やはり誤解があるらしい。しかし、ミョットルさんと呼ぶと彼が悲しそうな顔をするので、関西の芸人のノリで『お父さん』と呼んであげることにした。