長老の家
長老のお宅は入ったところが広い土間になっていた。大きなテーブルがいくつも置かれ、二十人ほどの人たちが談笑している。碁を打っている人もいれば、絵を描いている人もいた。全員が長老の家族だとは思えないし、村の社交場になっているのだろう。
奥の丸いテーブルでは、袴田さんとノッコが長老と向かい合ってお茶を飲んでいる。袴田さんの隣には白髪頭の人物が私に背を向けて座っていた。お年寄りたちに外界の話をせがまれているのかな。ノッコを袴田さんに紹介していなかったのを思い出したが、二人が楽しそうに笑い合っている様子を見れば、もう必要はなさそうだ。
「ハルカさんもご一緒にいかがですか?」
私に気づいた長老が差し招いた。突然の空の旅に心も身体もへとへとだったのだけど、断るのも失礼だと思い、私も席についた。
「こんなに歓迎していただいてありがとうございます。ここは素敵なところですね」
礼を言うと長老が微笑んだ。
「ええ、小さいながら住み心地の良い村ですよ。ドレイク殿のお話を聞く限り、私たちに残された土地はエレスメイアの半分もないようですが、皆で助け合って、不自由なく暮らしております」
「この地も『壁』が現れる以前は物見遊山で賑わったそうで……」
袴田さんの隣の白髪頭が口を挟んだ。
「見どころを案内して差し上げたかったのですが、ドレイク殿は道を急がれるとのこと。まことに残念です」
老人だとばかり思っていたのに、その声は若くてハリがある。慌てて顔を確認すると、それは本日二人目の国宝級イケメンだった。トルナタジュと見間違うほどに似ているが、顔つきは彼よりも若く精悍だ。そして長い髪もまつ毛も雪のように白い。
「ああ、これはシンラバスライユです。私の後継者でしてな。よくできた孫ですよ」
長老が笑顔で紹介してくれた。なるほど、これが麒麟夫婦の長男なのか。なんという眼福。心の中で手を合わせながら私は彼に挨拶をした。、やたら長いから辞書登録は『シンラ』にしておこう。
「ハルカ殿、先ほどは父が失礼いたしました。気の良い麒麟なのですが、誰でも嗅いでしまうのが欠点でして……」
シンラは白い頬を桃色に染め、恥ずかしそうに頭を下げた。
「い、いえ、気になさらないでください」
ソレイベさんの実子であるのなら、せいぜい二十歳といったところか。トルナタジュも三十ほどにしか見えなかったが、長老の友人だと言っていたから、そこまでは若くないはずだ。麒麟は長寿そうだし、若作りしてるのかな。
長老は手元の急須から取っ手のついたカップにお茶を注ぐと、私の前に置いてくれた。ふんわりと甘い香りがするけど、これ、飲んでも大丈夫なお茶だよね? 袴田さんとノッコの様子を見る限り、問題はなさそうだけど。
私がお茶に興味を持ったと思ったのか、長老が笑顔で語り出した。
「このお茶は南の村から送られてくるのですよ。夢見をよくしてくれるので、村では晩に飲むのが習慣になっています。『壁』のできる以前は交易が盛んでね、エレスメイアからの隊商が茶葉を求めて訪れたと聞いていますよ。もう亡くなってずいぶんになりますが、私の祖母は若い頃に留学生としてエレスメイアに滞在しておったそうです」
「そうなんですか。『壁』さえなければ今も交流が続いていたのでしょうに残念ですね」
「ええ、誠に残念です。遠く離れてはおりますが、我が国はエレスメイアと同盟関係にあったのですよ」
「ああ、私もこの目でエレスメイアを見てみたいものです」
シンラが夢見るように視線を宙に彷徨わせた。
「とても素敵なところなんですよ。僕もエレスメイアに戻るのが待ちきれません」
よく似た表情を浮かべて袴田さんが答える。
「曽祖母が留学中に書いた手記を何度も読み返しましたが、袴田殿のお話からすると、彼の地はあまり変わっていないようですな」
「僕の話なんて参考にはならないでしょう。ほんの数ヶ月滞在しただけですからね」
「ドレイク殿と旅ができるあなたが羨ましくて仕方がありませんよ。『壁』に邪魔されずにどこまでも駆けることができればどれほど素晴らしいでしょうか。私もいつかは『壁』を超えてみたいものです」
シンラの瞳はニッキによく似た琥珀色だ。と思えば若草を映したような黄緑色や、空の青へと目まぐるしく変化する。話しかけるのにも気後れするほど美しい人なのだけど、袴田さんとは旧知の友であったかのように会話が続いている。
しばらくすると扉が開いて、若者の集団がぞろぞろと入って来た。私たちのテーブルに近づいてくると、口々に長老や私たちに向かって挨拶をする。中の一人がシンラに話しかけた。
「シンラ、日が沈んだよ。今出たらちょうど良いんじゃないかな」
「そうですね。袴田殿、ノッコ殿、そろそろ参りましょうか」
シンラが腰を浮かせて二人に声をかける。
「どこに行くの?」
「お二人を遠乗りにお誘いしたのです。今日は月が細いですから、星が綺麗に見えるのですよ」
彼は腕を広げて若者達を指し示した。
「彼らも飛行そりで南の峰まで同行します。私は一人しか乗せられませんが、そりでよろしければハルカさんも運べますよ。ご一緒にいかがですか?」
「いえ、私は疲れたので遠慮しておきます」
飛行そりと聞いて、へその辺りがむずむずした。何日かかっても構わないからエレスメイアにも陸路で戻りたいよ。
「遅くなる前に戻ってくださいね。ノッコは未成年なので、必ずここに連れて戻ってくださいよ」
私は若者たちに向かって念を押した。しっかりしているとはいえ彼女は高校生なのだ。連れてきた私には保護者としての義務がある。
袴田さんたちが席を立つと、早速女の子二人が彼に身体を押し付けるようにして話しかけている。この調子だと今夜は誘われまくりだな。『ICCEE』の職員なんだから、旅の途中で迂闊な真似はしないよね?
「これ、袴田殿は外界よりの客人ですぞ。失礼ではないですか」
シンラが進み出ると、自分の身体で袴田さんをかばうようにして表に連れ出した。
「袴田殿は気持ちの良い青年ですな。村の若い者達が色めき立っておりますよ」
はしゃぎながら出ていく若者達の後ろ姿を見送りながら長老が言った。
「ええ、凄くいい人なんですよ」
私も心から同意した。悩みを打ち明けられて以来、彼の良いところが見えてきた。つい先日まで苦手意識を持っていたなんて自分でも信じられない。
「シンラは袴田殿から目が離せぬようです。どうやら一目惚れしたようですな。あれのあんな様子は初めて見ましたよ」
「は、はあ?」
「ドレイク殿の客人でなければ、この村にお引き止めしたいぐらいなのですけどね」
うわ、嫌な予感がしてきたな。いつもの「恋に落ちちゃったけど、永遠のお別れ」ってパターンにはならないよね? 袴田さんは気づいてなさそうだし、シンラの一時の気の迷いで終わってくれればいいのだけど。
「ご安心ください。あれは賢明な子です。もう会えないと分かっていて未練を残すような真似はしないでしょう」
私の心を読んだかのように、長老が微笑んだ。
「麒麟はとても成長が遅いのです。あれもやっと恋のできる年頃になったということでしょうな」
「シンラさんはあなたの後を継いで長になるのでしょう?」
「ええ、ソレイベに継がせたかったのですが、どうしても嫌だと暴れましたのでな、出来の良い孫に託すことになったのです。けれどもそれはあの子の望むところではないのでしょう。昔から『壁』の外への憧れが強く、異国や外界の文献を読み漁っておりました。ここは麒麟たちには狭過ぎるのですよ。私にはどうしてやることもできないのですけどね」
表では飛行そりが離陸したらしく、賑やかだった若者達の声が急に聞こえなくなった。
「ところでですな……」
長老は私の顔にじっと目を据えると、両手を体の前で組んだ。院長も大切な話をするときにこういう仕草をしたっけな。もしかしたら何かのまじないなのかもしれない。
「先ほどドレイク殿とお話したのですが、かなり消耗しておられるように見受けられました」
「ええ、外界に行ったので、『魔素』が溶けだしてしまったんだと思います」
「いや、それはこちらに戻ればすぐに回復することです。彼の疲労は『壁』を抜けたことからくるものでしょう。竜は『壁』を越えることができるとはいえ、厚い壁をいくつも越えるとなると並みならぬ精神力を要するはずだ。無理をさせてはいけませんよ」
「ドレイク、そんなに無茶をしてたんですか?」
「あなたはそれだけ大切な存在なのでしょう。彼を許してやってはいかがです。おや、このような老人が口を出すことではありませんでしたな」
なんで私が腹を立ててるってわかったんだろう? ドレイクが話したのかな? それとも、やっぱりこの人は仙人なんだろうか?
*****************************************
お茶を飲み終えると私はまた外に出た。ドレイクは同じ場所でうずくまっている。長老の言葉通り、疲労が溜まっているように見えた。
「寒くない?」
私が声をかけると竜は頭を僅かに持ち上げた。
「ああ、竜は気温差には強いのだ。どうした? 俺を気遣いにきたのか?」
「まあね」
「お前は寒いのだろう? キスしろなどと言わんから、こちらに来い」
ドレイクに近づくと彼から放射される熱がじんわりと身体に染みた。背伸びをして彼の額に触れる。
「ねえ、ここにまだサリウスさんはいるのかな?」
「いるさ。狂おしいほどにハルカの事ばかり考えている。名前や身分こそ偽ったが、俺は自分の気持ちを偽ったことはない」
ドレイクは頭を傾けて、大きな黒い瞳で私の目を覗き込んだ。
「騙したことは何度でも謝ろう。だが、正体を知っていれば、いくら相手がお前好みの知的なイケメンでも、最初から付き合おうともせんだろう?」
「でも、いつかはバレるって思わなかったの?」
「思ったとも。だが、目玉小僧がくれたせっかくの機会を逃したくなかったのだ。なんとかなるかもしれぬと、甘い気持ちでおったのだな。けれども日が経つにつれ、いつかはお前を失ってしまうのだという不安に苛まれるようになった」
ああ、そうか。サリウスさんとの仲が深まるにつれて、ドレイクの様子がおかしくなっていったのはそういうことだったんだ。
「やがて、俺はいつまでもサリウスとしてお前に寄り添おうと考えるようになったのだ」
「え? 正体を明かさないで?」
「そうだ。それなのに、お前は身ごもってしまった。卵を産めば嫌でも気づいてしまうからな。お前との時間が終わってしまうのだと思うと、恐ろしくてたまらなかった」
「それなら先に打ち明けてくれたらよかったのに」
「だが、俺の正体を話したらその場でフラれていただろう。殺されていたかもしれん」
「そうだね。たぶん凄くショックを受けてたな。まさかドレイクを好きになるなんて思ってなかったから」
「ああ?」
「もう寝るね。おやすみ」
「お、おい、今の、もう一度言ってくれ……」
竜の懇願に背を向けて、私は家に入ってドアを閉めた。
*****************************************
「仲直りはできたのかい?」
私の姿を見て、長老が微笑んだ。
「はい。彼にも私自身にも、もう一度チャンスを与えようと思います」
「おお、それは良かった。寝床を温めてあるからね。ゆっくりとお休みなさい」
「ありがとうございます」
怒りはまだ消えないけれど、結局のところ彼の事が好きらしい。イケメン貴族の姿をしていなくても、彼の気持ちを知って嬉しいと感じている自分がいる。
ドレイクが『サリウスさん』だという事実は不思議なほど簡単に受け入れられた。思い返せば話し方にもたいした違いはなかったのかも。私の翻訳魔法のせいで違って聞こえただけの話だ。
彼は私に精一杯の愛情をぶつけてくれていた。同居の話をしたときに照れていたサリウスさん。あれは芝居なんかじゃなかったのに。
卵を産んでからの孤独な毎日を思い出したら涙が出てきた。
私はもう一人じゃない。そう信じてもいいんだよね?
パジャマに着替えて寝台に上がった。敷布団は硬めだけど、呪文がかけてあるらしくポカポカと温かい。ふと玄関先で見つけた杖のことを思い出し、包みをほどいて握ってみた。他人の杖を握ると違和感があるものだとケロが言っていたけど、使い慣れた自分の杖のように手に馴染む。誰が使っていたんだろう? 確証はないけれど、何人もの人の手を渡ってきた物のように思える。質感と重さから判断すると恐らく素材はパピャイラだ。持ち主は攻撃魔法の使い手だったのかな?
エレスメイアを出てからそれほど経っていないのに、次々と事件が起きるせいか時間の感覚がおかしい。明日またドレイクに握られて空を飛ぶのかと思うと、気持ちがずっしりと重くなった。




