『魔法院』の午後
卵を産んでからもう二ヶ月になる。ドレイクはいまだに姿を隠したままだ。卵は少しずつ成長はしているとはいえ、直径が一センチほど大きくなっただけ。記録に残る卵の殻は小さい物でも直径三十センチはあったらしい。もし、そのサイズにならないと孵らないのだとすると、何年かかるかわからない。
留学生が帰国してしまったので、仕事は暇になった。けれども静かな事務所で私を騙した張本人と二人きりで過ごすのはなんとも居心地が悪い。
「ねえ、産ませたら捨てることも、あなたたちの計画に入ってたの?」
レイデンに質問してみたら、露骨に困った顔をした。どうせ何も話せないんだろうけど、嫌味ぐらい言わなきゃ気が済まない。
「やることもないから『魔法院』に行ってくるよ。卵も持っていくから」
「は、はい、いってらっしゃい」
私が席を立つと、レイデンは安堵の表情を浮かべた。
事務所にいたくないので、近頃は週に二回は『魔法院』に行く。ついたらさっそくエルビィの研究室に卵を預けにいった。成長の記録を取ってもらうのだ。彼は笑顔で卵を受け取って、丁寧にクッションの上に置いた。いつもむすっとしているのに、笑うととたんに愛嬌のある顔になる。
「先輩なら竜が人になるって言い伝えを知ってますよね?」
「昔からそう言われているな。人を見守るには人間の姿を取った方が便利だからな」
院長に聞いた話と同じだ。
「『天』の命令で人間を見張ってるんでしょ?」
「ああ、人がこの世界に来た時に『天』が竜に与えた役割なんだそうだ」
「人が来た? 人はこの世界にいなかったんですか?」
「『魔法世界』が創られた時には、人はいなかったと言われている」
「人はどこから来たの?」
「外界からだという説もあるし、当時はほかにも『世界』があったのだという者もいるな」
知らなかった。でも、確かに『魔法世界』に暮らす多くの生き物の中で、『魔素』のない環境でも生きていられるのは人間だけだと言われている。それを考えれば、おそらく真実なのだろう。
「リアアジルという竜は人の姿でアナンブンの王宮に出入りしていたという。美しい立ち振る舞いで婦女が夢中になったそうだ」
「リアアジルって青い竜ですよね?」
サリウスさん……じゃない、ドレイクがくれた竜の本に載っていた。ラピスラズリの顔料で塗られた美しくて大きな竜の絵が印象に残っている。
「よく知っているな。『壁』ができてからは、エレスメイアで姿を見たものはいないが、まだ生きていればその力はドレイクに匹敵するだろうと言われている」
ドレイクに匹敵するほどの女たらしだったのかな。宮廷のご婦人に卵を産ませたりしたの?と聞きたかったけど、エルビィが卵の母親の正体に勘付いてはまずいのでやめておいた。
卵は彼に預けて、私専用の小部屋に向かった。何もやる気が起きないので、部屋の寝椅子に腰かけて読みかけの本を開く。
もう午後も遅いけど、事務所に戻りたいとは思わなかった。窓の外に目をやると、貴族の衣装をまとった男性が歩いていてぎくりとする。
うわ、びっくりした。サリウスさんかと思った。
ああ、もう嫌になる。『サリウスさん』なんて人はこの世に存在しないんだから。でも……私の理想そのものだったな。ドレイクがわざとそう演じてたんだから、当然と言えば当然なんだけど。
元々実在しない人がいなくなっただけなのに、彼を失った痛みは和らぐどころか強くなるばかりだ。私の記憶の中の『サリウスさん』を具現化する魔法でもあればいいのに。そういえば人間を作り出す魔法があるって言ってたっけ……。
何を考えても彼の事が頭に浮かぶ。楽しかった図書館通いももう終わりだ。すっごいインテリだと思ったら竜だったなんて、チートにもほどがある。歴史に詳しいに決まってるじゃない。全部自分の目で見て来たんだから。
あれほどまでに完璧な人間が存在すること自体あり得ない、と疑ってかかるべきだったのだ。結婚詐欺と同じ手口にまんまと引っかかるなんて。
イライラがつのって来たので、外に出て『魔法院』の敷地を散歩することにした。人気のない裏庭を歩いていると四角い石がごろごろ転がっている所に出た。むしゃくしゃした気分はまだ収まらない。杖をむけて一番手前の岩を吹っ飛ばす。砕け散った岩の破片がばらばらと辺りに散らばった。
ふん、ちょっとだけ気が晴れたかな。五つ目を吹っ飛ばしたところで後ろから人の気配を感じた。
「荒れてますね」
振り向くと笑顔の院長が立っていた。
「すみません。うるさかったでしょうか。じっとしてられなかったんです」
「呪文も唱えず、ですか?」
「え?」
「ここにある石はケイトリリュナナム城の城壁に使われていたものです」
「大事なものだったんですか?」
わざわざ『魔法院』の庭に置かれているぐらいだから、もしかしたら研究に使う物だったのかと私は慌てた。
「いえ、あそこにいけばいくらでも転がってますから構わないんですけどね。城が解体されてから何百年も経つのに、まだ呪文が残っています。強力な防御の魔法です。魔除けのお守りとして、よく庭石に使われるんですよ」
「……はあ、そうですか」
「何を言いたいかと言いますとね。この石は壊れないんです」
「でも壊れましたよ。偽物だったんじゃないですか?」
院長はそれには答えず、私に笑顔を向けた。
「ハルカ、しばらくエレスメイアを離れてみてはいかがですか? 気分転換も悪くはありませんよ。エルビィの見立てでは卵は当分は孵らないようですからね」
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「レイデン、一週間、外界に帰るね」
「卵はどうするんですか?」
「持ち出しなんてできないでしょ? 温めなきゃいけないわけじゃないし、放っておいても問題ないって」
「でも、孵っちゃったら?」
「あなたには見えるんでしょ?」
つい嫌味っぽい口調で私は言った。
「いえ、今のところは何も……」
「『魔法院』で預かってくれるから心配しなくてもいいよ。エルビィはすぐには孵らないっていってるし、孵ったら孵ったで戻れなくなるから、今のうちにお母さんに会いに行こうと思ったの」
愛着がないわけじゃないんだけど、卵の状態じゃかわいがってもあげられないし、母親の自覚も育ちそうにない。
エレスメイアを離れる間、卵はエルビィに預けることにした。
「一週間だけだから待っててね」
柔らかなクッションの上に鎮座する卵に私は話しかけた。
「俺がしっかり見張っているよ。もし孵ったら、アヒルの子みたいに最初に見たものを親だと思うかもしれないな」
すぐには孵らないといったくせに、エルビィは妙な期待をしている。でもこの人なら安心して任せられそうだな。
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久しぶりに外界への『門』をくぐった。入国管理棟のロッカー室で私物を取り出し、服を着替える。スマホは電池が切れている。出る前にちょこっと充電させてもらおう。
私物のスマホの他に、毎回ガラケーっぽい携帯を持たされる。盗聴されにくい回線なんだそうで、 『ICCEE』からの連絡はすべてこっちにかかってくる。
スーツケースを持ってロッカー室を出ると、外で矢島さんが待っていた。
「あれ? どうしたんですか?」
「出迎えに来てやったんだよ。お前こそ、急に休暇だなんてどうしたんだ?」
私の顔に目をやって、彼の表情が固まった。
「……お前……ニッキと別れちまったのか……」
「え? ……あ、わかっちゃいましたか?」
今までいくら別れたと言っても信じようともしなかったのに、よっぽどひどい顔してるんだな。ちょうどいいから、別れたことにしてしまおう。
「そうか、それで休暇なんだな。今日は急ぐのか? 俺でよければ慰めてやるが……」
「ちょっと、矢島さん。いい加減に不愉快なんですが」
「あ? ああ、そういう意味じゃない。飲みにでも連れてやろうかと思ったんだよ」
誤解されたのに気づいて、矢島さんは顔を赤くした。
「あまり時間がないんです。本部のカフェでコーヒーをおごってください。その間に携帯の充電をしちゃいますから」
ここから空港まではかなりの距離がある。最寄りの都市のフライブルクからさらに二時間電車に乗らなくてはならない。前回は専用機でひとっ飛びだったので、自分で移動するのはおっくうに感じられた。
「あれ、杖も持ってきたのか?」
彼は私の釣り竿袋に目を止めた。
「これがないと落ち着かなくなっちゃったんです。持っててもどうせ観光客にしか見えないでしょう?」
『ICCEE本部』の敷地内には部外者は立ち入り禁止だが、ビジターセンターが併設されており、常時多くの観光客でにぎわっている。魔法使いの杖の複製も土産屋に売られているので、出入国の際に杖を持っていても怪しまれることはない。
「いや、やめておけ。『魔法院』公認の杖だろ? 前回はうっかりしてたが本来は持ち出し禁止だ。その辺に予備の杖があるから違うのを持って行け」
「自分のじゃなかったらいらないですよ。矢島さんが預かっててください」
ニッキとの別れを確実なものにするため、もっともらしい失恋話をしておこうかと思ったのだけど、矢島さんが差し障りのない話を始めてしまったので、その機会はなかった。彼なりに気を遣ってくれているのだ。
「じゃ、気を付けて行ってこい。何かあったら俺に連絡するんだぞ。ほら、別れのハグだ」
「やっぱりセクハラじゃないですか。レイデンに言いつけますよ」
彼と別れてビジターセンター前の送迎バス乗り場に向かった。ビジターセンターは本部の建築物群とは離れたところにぽつんと建てられ、だだっ広い駐車場に囲まれている。エレスメイアに興味を持つ人たちが世界中から訪れ、入館料やお土産にお金を落としていくのでなかなかの収入源になっているらしい。
あまり正確とは言えない街並みの模型や、すでに世間に出回っている写真が飾られているだけなのだけど、それでも観光客はやってくる。留学の選考に通らない限り、外界人にとってここが魔法世界に一番近い場所なのだ。
ビジターセンターの入り口付近はたくさんの人で溢れかえっている。『魔素』がないので落ち着かない。長くいればいるほど、身体が『魔素』に依存するようになってくるらしい。
バス乗り場について観光客の列に並んだところで、『ICCEE』のロゴマークのついたドイツ車がバスの停留スペースに乗り入れて来た。何かと思って見ていると車の窓が開いて矢島さんが頭を突き出した。
「ほら、早く乗れ」
「え?」
「空港まで送ってやる」
「遠いのにわざわざいいですよ」
「今週中にフランクフルト支部まで行かなきゃならんのだ。ついでだよ。一人で長距離ドライブもつまらないからな」
私が荷物をトランクに放り込んで助手席に乗り込むと、彼は車を発進させた。 『ICCEE』本部の敷地から公道に出ると、再び当たり障りのない話を始める。
きっと、ついでじゃないんだろうな。
ジョナサンには信用するなと言われたけれど、矢島さんはいい人だ。そんな彼に惹かれるレイデンもニッキも、人を見る目があるってことかもしれないな。




