クリスの帰還
それからの数週間は特筆するような事件も起きず、留学期間は順調に過ぎて行った。
今期から週に二回ほどシホちゃんが事務所に通ってくる。まだ半年ほど先の話になるけれど、私が産休を取る間、彼女に手伝いに来てもらうことにしたのだ。
彼女は『魔法院』の病院で必要に応じて患者の看護にあたることになっているのだが、お得意の解毒の魔法はたいして出番がない。たまに毒キノコを食べた患者が出ると、迎えの飛行そりに乗って出かけていくぐらいだ。普段は暇だと言うので、ぼちぼちと仕事を覚えてもらっている。
まだ本社にも 『ICCEE』にも妊娠を報告していないけど、非常時に備えて臨時の職員を見つけておけとは言われていたので、シホちゃんを雇うことになんの問題もなかった。
サリウスさんは週に一度、泊りにきてくれるようになった。それでも今まで通りに昼間の図書館デートも続けている。父親になる人なのだから、もっと一緒に過ごした方がいいとレイデンが気を利かせてくれたのだ。生徒さんの数も少ないし、彼は私よりも有能なので、事務所を任せておいてもなんの心配もない。私がいない間に矢島さんが顔を出すようだけど、恋人がいるからと仕事をサボるレイデンではないのだ。
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この日も私は図書館でサリウスさんの講義を聞いていた。
「ハルカ、どうかしたのか?」
急に声をかけられて、私は顔を上げた。集中していなかったのがバレてしまったようだ。
「心配事があるのだろう? 初めて会った時のような顔をしている。失恋でもしたのかな?」
「おかしなこと、言わないでくださいよ」
「だが、原因を話してくれないことには疑いは晴れぬぞ」
冗談めかした口調でも、彼の眼差しは真剣だ。どうしようか迷ったけど、正直に話さなければ彼にはわかるだろうし、納得もしないだろう。それに……大切な人への隠し事はもうしたくない。
「しばらくドレイクが会いに来ないので気になってるんです。今まで欠かさず来てくれてたのに……」
「そうか。理由に心当たりは?」
「……サリウスさんと会ってたこと、彼には黙っていたんです。子供ができたことも。でも、彼は気づいてたみたい」
「どうして話さなかったのだ?」
「言い出せなかったんです。ええと……」
「……どうした?」
「彼にはずっと求愛されてたんです。だから、知ったらがっかりするだろうと思って……」
「ふむ、つまり君は彼を守りたかったのだな?」
サリウスさんは考え込むように、首を傾けて右手で自分の顎に触れた。
「はい、そうなんです。でも、かえって傷つけてしまったのかも……」
「竜は聡明な生き物だ。ハルカの心遣いには気づいているさ」
「そうでしょうか?」
「心配はいらぬ。竜は一度執着するとなかなか諦めぬというからな。必ず戻ってくるだろう」
「戻って来ては欲しいですけど、執着され続けても私にはあなたがいますから……」
「そうだな」
サリウスさんは少し困ったような顔をして、私をぎゅっと抱き寄せてくれた。
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午後遅くになって事務所に戻ると、玄関のわきに『カラクリ』の馬が立っていた。前に来た時よりもさらにデザインが洗練されている。ついにクリスが外界から戻って来たのだ。
窓から中を覗くと、仕事中のレイデンの隣にクリスが椅子を寄せて座っていた。彼の右手は机の上に置かれたレイデンの左手の上に重ねられている。
彼には触れた物の組成や仕組みがわかるって言ってたっけ。私がレイデンの見た目を美しいと思うように、彼は触れる事でそれを感じ取っているのかもしれない。視覚に頼らないから『ミョニルンの目』も怖くないのかな?
玄関のドアに近づくと、馬の頭が私の動きを追って動いた。目玉はないのに私の存在を感じているのだ。生きているかのような自然な動きが薄気味悪い。私は急いでドアを開けて中に入った。
「ああ、ハルカさん、こんにちは。遅くなってしまってすみません」
私に気づいたクリスがすうっと振り返って挨拶した。彼の動きも『カラクリ』の馬みたいだ。
「いえ、クリス、お帰りなさい」
私は作り笑顔で返事をした。正直、彼には戻って来て欲しくなかったから、謝ってもらう必要はないんだけどな。
上着を脱いで自分の席につこうとしたら、またドアが開いた。
「おい、外の馬はどうしたんだ? ありゃ、『カラクリ』だろ? 凄いじゃないか」
興奮した口ぶりで入ってきたのは矢島さんだ。この時間に来るということは、レイデンと食事に行くつもりなのだろうけど、クリスと鉢合わせはまずいんじゃ? なんとかして彼にクリスの事を知らせたいとは思っていたけど、このままだと修羅場は避けられない。
「あれ? ……クリスか? なんでここにいる?」
「レイデンとハルカさんに会いに来たのです」
虚をつかれて目をぱちくりさせている矢島さんに、クリスが単調な声で答えた。
「そうか、あれはお前の『カラクリ』……あ、あれ? こいつの顔見てなんともないのか?」
矢島さんは彼がレイデンの手を握っているのに気がついて、また驚いた声を上げた。
「ええ。なんともありませんよ」
「そうなのか。俺だけかと思ってた。……で、どうして手を握ってるんだ? 『目玉』の観察か?」
「そ、それは私が説明します」
クリスが返答する前にレイデンが立ち上がって矢島さんに向き直った。
「矢島さん、私はクリスと付き合ってるんです」
「ああ? 付き合ってる? なんだって? どういうことだ? どういうことなんだ?」
矢島さんは観念した様子のレイデンと顔色一つ変えないクリスの顔を交互に見比べた。そりゃ、どういうことだかわかるはずがないよね。
「僕からお願いしたんです」
落ち着き払った口調でクリスが補足説明をする。
「で、でもレイデンには俺がいるだろ?」
「矢島さんがですか?」
「そうだ。俺はこいつの婚約者だ」
「ええ!?」
声を上げたのはクリスではなく私の方だ。
「矢島さん、いつの間に婚約したんですか?」
「生徒が入国した日だよ。お前、覗いてただろ?」
え、ここでレイデンにキスしてた時?
「あの時、プロポーズしてたんですか?」
「そうだよ」
「それはおめでとうございます」
クリスが祝いの言葉を述べた。
「だから、お前と付き合うわけにはいかんだろ?」
「どうしてですか? あなたがたの邪魔するつもりはありませんが……」
「俺の配偶者に恋人がいてはまずいだろう? 俺は極度の焼きもち焼きなんだ。誰にも触って欲しくない」
何人ものセフレと遊びまくっていた人が何を言ってるんだろうか?
「手に触れるだけでもダメなのですか?」
「手だけなのか?」
「彼とは手を握るだけで十分ですから」
「……お前ら、手しか握ってないってことはないよな……?」
「手しか握っていませんが……」
「ほかの……ああ、行為……はしていないのか?」
「はい、最初に言った通り、僕はレイデンの手を握るだけで十分なのです」
物わかりの悪い子供を相手にしているように、彼は同じことを繰り返した。
「レイデン、本当なのか?」
「はい、本当です」
え、そうなの? キャンプ場で繭の中にいた時も、レイデンの家に泊まった時も手を握ってただけ? 二人とも嘘をついているようには見えないけど……。
「ああ、でもキスはしましたね」
後から思い出したのか、クリスがいきなり付け加えた。
「キスしてるんじゃねえか」
矢島さんがムッとした顔になる。
「それって、キャンプのゲームでチュッとしただけだと思いますよ」
なんとなく誤解を解かないといけない気がして、私は口を挟んだ。まあ、そのキスがこの厄介事の発端になってしまったわけだけど。
「でもなあ、なんで付き合えって言われて付き合うんだ? お前、弱みでも握られてるのか?」
「はい、そうなんです」
矢島さんが私と同じ質問をして、レイデンも同じ答えを正直に返した。
「なんだって。おい、クリス、卑怯だぞ」
「なんと言ってもらっても構いません。僕は彼のそばにいるためなら手段は選びませんから」
怖いことを表情も変えずに言う。
「なんでレイデンに興味があるんだ。好きならもうちょっと顔に出るもんだろ? ほんとに惚れてるのか?」
「それはよくわかりません。僕は今までに誰も好きになったことがないのですが、彼には強く引き付けられましたので、これが恋なのではないかと思ったのです」
「それは恋じゃないと思うぞ。いや、恋じゃないな」
矢島さんが力強く言い切った。
「そうですか?」
「だからレイデンは諦めろ」
「いやです」
「……手を握ってるだけで満足できるのか?」
「はい。ですが、彼とならほかの行為をしてもいいと思えてきました」
「だめだ。それはだめだ。こいつは俺のだからな」
「では、手を握るだけで結構です」
「そうだ、それだけにしておけ」
「わかりました」
結局クリスは手を握ることは認められたようだ。
あれれ? もしかして、矢島さん、クリスにうまく誘導されたんじゃないの? IQの高さじゃ間違いなく負けてるもんな。そう疑ってはみたものの、クリスの表情からはまったく判断がつかなかった。
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「お前、知ってたな」
クリスが帰ると、矢島さんは私をキッチンに引きずり込んだ。
「だから研修会であいつの事を聞いたんだな?」
「まあ、そんなところです」
「なぜ話さなかった?」
彼は恐ろしい顔で私を睨んだ。相当ショックを受けてるみたいだな。
「レイデンに黙っててほしいと言われたんですよ」
「くそ」
「妬けますか」
「当たり前だ」
「ご婚約おめでとうございます」
「お、おう、ありがとう」
今まで怒ってたくせに、彼は照れて顔を赤らめた。
レイデンが婚約か。元カレが結婚するときには微妙な気持ちになったと友達が言ってたけど、感情の揺れらしきものは何一つ感じない。歯車が欠落しているかのように、私の心まで伝わってこないのだ。これも『失恋の薬』の効用なのだろう。
でも、彼には幸せになってほしいと思う。矢島さんが彼を情報源にしてるんじゃないかと疑ったこともあったけど、心底惚れ込んでるみたいだし、そんな心配は無用だったな。
「ねえ、やっぱりクリスって変ですよね?」
「ああ、ものすごく変だな」
「あの人、感情はあるんですか? まさか、アメリカが開発したロボットってことはありませんよね?」
「お前は馬鹿か? そんなものが作れるわけがなかろう。ファンタジー映画の見過ぎだな」
「魔法の世界でゲームのキャラみたいな恰好した人に、そんなこと言われるとは思いませんでした」
「え、俺、ゲームのキャラみたいか?」
彼は目を丸くして自分の服に視線を落とした。矢島さんの名誉のために付け加えておくと、彼の衣装のクオリティは相当のものだ。ファッションにこだわる矢島さんは、実家で不要になったという着物の生地を王都の店に持ち込んでは、自分のデザインで仕立ててもらっている。
「ハルカ、もうそろそろ終業時間ですが……」
キッチンのドアが遠慮がちに開いて、レイデンが顔を出した。
「ほかにやっておくことはありますか?」
「ううん、今日は矢島さんとデートでしょ? もう出てくれていいよ」
「じゃ、レイデン、行くか」
「は、はい。あの……」
矢島さんが椅子から立ち上がったのに、レイデンはドアの前から動こうとしない。
「どうしたんだ?」
「……クリスの事、黙っててすみませんでした」
「わかってる。仕方ない事情があったんだろ?」
「ええ、あとで全部お話しします」
そうか、私には秘密でも矢島さんには話しちゃうのか。少し寂しい気もしたけど、彼はレイデンの婚約者なのだから当然と言えば当然だ。元カノの私の出る幕なんてなくなってしまったんだな。




