未来への不安
事務所に戻るとすぐに寝室で横になった。今日はもう仕事はしないでくださいとレイデンに言い渡されたのだ。
お腹の上にそっと右手を乗せてみる。ここにサリウスさんとの子供がいるっていうの? 嬉しくないわけじゃないけれど、どうしても本当の事だとは思えない。ラゴアルさんの勘違いじゃないのかな。触っただけで他の検査はしてないし。
「ねえ、ケロ。これなんて書いてある?」
もう一粒、薬を飲んでおこうと袋を出したら、表側に書かれた薄い手書きの文字に気がついた。
「つわりの薬……。ええ! ハルカ、妊娠したの? サリウスが相手だよね? それともニッキ?」
「変な事言わないでよ。サリウスさんに決まってるでしょ」
レイデン、これを見て驚いたんだ。別れてから初めて彼が動揺するのを見た気がする。『婚姻の契約』も結ばずにいきなり妊娠したら誰でも驚くとは思うけど。
あれ? それじゃ、私の身に起こる『とんでもない事』って、妊娠の事じゃなかったのかな? 前もって知ってたら、あんなにびっくりしないよね。
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気になって仕方なかったので、翌朝レイデンに尋ねてみる事にした。
「ねえ、レイデン、薬の袋で気づいたと思うけど……」
「ええ、ハルカ、おめでとうございます」
彼は私に朗らかな笑顔を向けた。
「気分が悪かったら、遠慮なく休んでくださいね」
「うん、ありがとう。あの……私の身に起こる『とんでもない事』ってこのことだったの?」
「はい、そうです」
「ずいぶん驚いてたように見えたけど……」
「ええ、頭でわかっていても、現実に目の当たりにするとまた違うものですからね」
そういう事だったの? そりゃ、子供ができるなんて確かに大きな出来事だもんね。
「でもさ、大事な事なんだから、教えてくれてもよかったんじゃないの? 私の妊娠と『目玉』の指令はなんの関係もないでしょ?」
「いえ、関係はあるんです」
「え? 何がどう関係するの?」
「すみません。これ以上は話せません」
彼の顔にはいつもの申し訳なさそうな表情が浮かんでいる。もう何を聞いても無駄だって事だ。
「……レイデンの……馬鹿……」
「ハルカ?」
「そんな中途半端な事言われたら気になっちゃうでしょ?」
今の今まで半信半疑だったけど、レイデンが『目』で見たと言うのなら、私は確実に妊娠しているわけだ。他人事のようにしか感じられなかった状況が、にわかに逃げられない現実となってのしかかってきた。
これから外界とは全く違う環境で出産して子育てすることになるのだ。父親はいまだに正体不明で、伴侶にしたいと言ってはくれたものの、この先どうするのか具体的な話は一切出ていない。当然、子供の話なんてしたこともなかった。
子供なんて予定してなかったと言われたらどうしよう?
そのうえ『天』からの指令と私の妊娠には関係があるらしい。これから何に巻き込まれるっていうの? もしかしたら巻き込まれるのは私じゃなくて生まれてくる子供の方?
一気に膨らんだ不安に胸を締め付けられて、涙が溢れてきた。
「ああ、ハルカ、ごめんなさい」
レイデンが慌てて立ち上がった。
「心配しなくても大丈夫です。あなたの身に悪いことが起きるわけではないんです。この先には素晴らしい未来が待ってるんですよ。私がこの目で見ましたから間違いありません」
彼は私の前に腰をかがめて、まっすぐに私の顔を覗き込んだ。
「本当なんだね?」
「ええ、それを現実にするのが私の役目なんですから、私に全てを任せてください。あなたは未来の事なんて気にしなくていいんですよ」
信じてもいいのかな? 彼の緑の瞳は暖かく、嘘をついているようには見えない。
私が妊娠したのは彼のせいじゃないし、自分の未来を教えてくれないからって彼を責めるのはお門違いというものだろう。
「ごめんね、レイデン。急に怖くなっちゃっただけなの」
「私こそ不安にさせるような事を言ってすみませんでした」
「あの……男の子か女の子か教えてもらうのもダメかな?」
「え?」
彼の顔がこわばった。
「無理ならいいんだよ。そのぐらいなら知っても支障はないかと思っただけだから……」
「いえ、些細な事でも未来にどんな影響を及ぼすかわかりません。やめておいたほうがいいでしょう」
「そうだね。ごめん。知らない方が楽しみが増えるよね」
今、意表を突かれたように見えたのはどうしてだろう? 何かがおかしい気がしたのだけど、それがなんなのか私にはわからなかった。
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その日の午後はサリウスさんとの図書館デートだった。レイデンは心配したけれど、妊娠したことを早く報告したかったので、私は昼過ぎに事務所を出た。幸いつわりの薬がよく効いているようで、ゆっくり歩くだけなら支障はなさそうだ。
かなり早めについたのにサリウスさんはすでに図書館の前で私を待ち構えていた。駆け寄って来るなり私を抱き上げ、ぐるぐると回る。こんな人目の多い場所で恥ずかしいなあ。会うたびに愛情表現が過激になっていく。
「やめてください。気持ちが悪くなっちゃう」
「そんなに回ってはおらぬが……」
「つわりが酷いんです」
「な、今なんと……!?」
サリウスさんは私の顔を穴が空くんじゃないかって言うほどに見つめている。結婚もしてないのに妊娠するなんて滅多にないことだ。そりゃ驚くよね。
「……そうか。よくやったな、ハルカ。いや、私もよくやったと言うべきか」
「はい?」
「よい知らせだ。何をして祝おうか?」
彼は満面の笑みで私を強く抱きしめた。
よかった。喜んでくれた。妊娠を告げたら去ってしまうんじゃないかって、心のどこかで彼を疑っていたらしい。ほっとしたらまた涙が出て来た。体調が変わったせいか、涙もろくなってるみたい。
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その日のデートは短めに切り上げ、私はいつもより早い馬車に乗り込んだ。サリウスさんがつわりが収まるまでは家で安静にしていてほしいと言い張ったのだ。
馬車が角を曲がる直前に、私は彼を振り返った。
彼はもう笑ってはいなかった。少し怒ったような顔つきで、足元の石畳をじっと見つめていた。




