対決
一気に箒を降下させて地面に降り立ち、レイデンの部屋へと続く階段を駆け上がった。
「どうしたんだよ?」
ニッキが慌てて追ってくる。
「クリスがナイフを持ってるの」
「なんだって!?」
ドアには鍵がかかっていない。中に飛び込むと、そこは居間とキッチンが一緒になった小さな部屋だった。その奥のベッドルームのドアは開いており、レイデンがベッドから身を起こすのが見えた。
「ハルカ? どうしたんですか?」
眉を寄せて当惑した顔をしているが、怪我はしてないようだ。
よかった。刺されてなかった。
クリスはさっきと同じ姿勢でベッドの前に立っていた。けれども彼の手にナイフは握られていない。階段を上ってくる音を聞いたのなら、隠す時間はあっただろう。
「レイデンに何をするつもりなの?」
「何をするつもりもありませんが……」
落ち着き払った声でクリスが答える。いきなり飛び込んできた私たちを警戒する様子もない。
早くこの人から、レイデンを引き離さないと。
「レイデンは連れて帰ります。そこをどいてください」
「……彼を……連れて帰る……と言いましたか?」
クリスがゆらりと私に身体の正面を向けた。
この人、やる気だ。
「気をつけろ、ハルカ。あいつにはあの熱の球があるぞ」
ニッキが耳元でささやいた。
「でも、本人は攻撃魔法だって知らないんじゃない?」
「あいつは頭がいいんだ。きっと攻撃に転用してくる」
「私の方が強いって言ったのはあなただよ。大丈夫、任せといて」
自信たっぷりに杖を構えようとしたら、とんでもない事に気が付いた。私の手に握られていたのはさっき使った箒だったのだ。
「おい、何やってんだよ?」
「だ、大丈夫。気絶させるくらいなら、これでも十分」
「外すなよ。その箒、よく燃えそうだからな」
ああもう、プレッシャーかけないでよね。
けれどもクリスは私から目をそらしてレイデンの方を向いてしまった。驚くほどに隙だらけ。私が『スレイヤー』だと知ってるはずなのに。
「レイデン、あなたの家はここではないのですか?」
え? どうして今、そんな質問を?
「ここは借りていると言ってましたね? それとも他にも生活の拠点があるんですか?」
この人、そこが気になってたの? 私が『連れて帰る』って言ったから? 確かに彼からは殺気が感じられないな。もう、話が噛み合わないのにも程があるでしょ?
戦わずに済むなら越したことはない。でも、どうやって彼をレイデンから引き離そう?
「いいえ、クリス」
その時、レイデンが口を開いた。
「私の家はここです。他に帰る場所はありません」
穏やかな口調でそう言うと、彼は裸のまま立ち上がり、私の方を向いた。
「ハルカ、私はクリスとは納得してお付き合いしていると言いましたよね?」
「でも、レイデン……」
「今すぐに出て行ってください」
大きな声ではないけれど、その響きには逆らいがたい威圧感があった。
彼の緑の瞳が私の顔を凝視している。ギリシャの裸像のような長身は、この世の生き物とは思えぬほどに美しく、触れてはならない神聖な存在を怒らせてしまったのかと錯覚するほどだ。
……私、この人を助けに来たんだよね? それなのに、このラスボス感はなんなの?
彼の気迫に押されて、入口の方へと後ずさった。私の一挙一動を彼の視線が追っている。
「俺たち、余計な事をしちまったみたいだな」
ニッキが後ろでぼそりと呟く。
余計な事? ううん、違うよ、ニッキ。私は余計な事なんてしていない。レイデンが怯えているのを確かにこの目で見たんだから。
どんな弱みを握られているのか知らないけれど、レイデンはクリスには逆らえない。私が立ち去れば、クリスはまたナイフを取り出すかもしれないのだ。ここで引き下がるわけにはいかない。
レイデンからの無言の圧力に逆らって、私はクリスに歩み寄った。
「クリス、レイデンに危害を加えないと誓ってくれませんか?」
「ハルカ、やめてください」
レイデンがクリスの前に出ようとしたので、私は彼に箒の柄を向けた。
「いいから、あなたは黙ってて!」
「ですが、ハルカ……」
「いえ、レイデン。構いませんよ」
無感情な声でクリスが遮った。
「どの誓いの呪文を使えばいいですか?」
「『マチャイキュルスの呪文』だ。あれなら簡単には破れねえ」
すかさずニッキが答えた。私には呪文の知識がないことを知っているのだ。
「分かりました。決してレイデンに危害を加えないと誓います」
クリスは目を閉じて、一瞬のためらいも見せずに誓いの呪文を諳んじた。
この人、滅多に使わない呪文まで暗記してるの? 呪文が効力を発するのが感じられたから、でたらめではなかったのは明らかだ。
「ハルカさん、これでいいでしょうか?」
クリスが尋ねた。危険人物扱いされれば誰だって気分を害すると思うのだけど、気にしている様子はない。
「行こう、ハルカ。レイデンは心配ねえ」
「う、うん」
ニッキが私の腕をつかんで、ベッドルームから引っぱりだした。扉が閉まったとたん、緊張が解けて、足がガクガクする。
私、本当にレイデンを守れたのかな?
「ねえ、ニッキ。あの人、全然動揺してなかった。サイコパスなのかもしれないよ。誓いを出し抜く方法を知ってたらどうしよう」
「そりゃ無理だよ。破ろうとした途端に昏倒しちまうからな。ナイフの先で触れることさえできねえさ」
そうだよね。それに今夜彼がここにいたことは、私たちが知っている。レイデンの身に何か起こったら、真っ先にクリスが疑われるのだ。頭のいい彼が滞在許可が取り消されるような真似をするはずがない。
「なあ、あいつ、単にそういう趣味なだけじゃねえのか? 相手を痛めつけたら興奮する奴っているだろ?」
「さすがにナイフは過激すぎるでしょ?」
「それはそうだけどな」
「絶対に何か企んでたって。レイデンを生贄にしようとしてたのかもしれないよ」
「ああ? 生贄って外界の風習じゃねえか。なんでこっちに来てそんな真似をするんだよ?」
それはそうだよな。まだSM趣味の方が現実味がある。彼は本当にあのナイフでレイデンを傷つけようとしていたんだろうか? もしそうなら、その目的はなんだったの?
****************************************
表の階段に出てドアを閉めようとしたら、ニッキがついてきていなかった。居間の真ん中に突っ立って何かを見つめている。
「ニッキ? どうしたの? 行こうよ」
彼の視線の先にあるのは、壁のフックにかけられた長い紺色の上着。なんとなく和風なデザインだな。どこかで見たことがあるような……。
「あ、それ矢島さんの……」
しまった! クリスにかまけていて、矢島さんがここに出入りしているのをすっかり忘れていた。そりゃ、しょっちゅう泊まりに来てるんだから、上着ぐらい忘れていっても不思議はない。
暗い部屋の中、ニッキの顔が青白く見えた。彼らの関係の動かぬ証拠を見せつけられて、頭では分かっていてもショックは大きかったのだろう。
部屋を出て垣根に箒を戻し、自分の杖を拾って歩き出した。
「ねえ、ニッキ、大丈夫なの?」
「平気だよ」
ああ、もう、目頭が濡れちゃってるし。
「ごめんね」
「何でお前が謝るんだ?」
「関係ないことに巻き込んじゃったからさ」
片想いの相手が恋人と過ごす部屋なんて見たくなかっただろうに、かわいそうなことしちゃったな。
「俺さ、今、あいつがひでえ目に遭えばいいのにって思っちまった。助けに行ったくせに最低だろ?」
「それ分かるよ。私も矢島さんとレイデンが付き合い出した時には、矢島さんなんてこの世にいなければいいのに、って思ったから」
「そうなのか?」
「一瞬だけね。二人はお似合いだと思ったし、矢島さんってどうしても憎めないんだよね」
「けど、あんなにムカつく奴はいねえだろ?」
「それでも好きなんでしょ?」
「だから余計にムカつくんだよ」
ニッキが唇を尖らせる。それなのに何年もの間片想いしていられるなんて、一体矢島さんのどこに惚れたんだろう?
「今はね、サリウスさんにも出会えたし、別れてよかったと思ってる。ニッキも見た目だけは格好いいんだしさ、必ず出会いがあるよ」
「お前、人を慰めるのが下手だな」
どんよりと暗いニッキを引っ張って、私はパブへと向かった。こうなったら思い切り飲ませてしまうしかない。モジョリさんには申し訳ないけど、ネズミ退治は明日にさせてもらおう。




