国軍と竜
暖かくて柔らかな物が私の頬をぐにぐにと押してくる。
やめてよ。まだ眠いんだから寝かせてよ。けれどもブフーと生暖かい空気を顔に吹き付けられて、私はたまらず目を開いた。
「おう、嬢ちゃん、やっと起きたか」
ジャンマーの大きな馬面が私の顔を覗き込んでいた。柔らかな鼻の先で私を揺り起こそうとしていたのだ。
「うわ、どうしたの?」
馬車の床から身を起こして辺りを見回す。まだ日が昇ったばかりで空はほんのりとピンク色だ。隣のニッキはまだ寝こけていた。
「あっちの空を見てみな」
馬の首が向けられた方向に目をやると、飛行そりが三台、湖の上空を舞っていた。そりの横には先日の軍事演習で見たばかりの国軍の紋章が光っている。一台につき四、五人の兵士が乗っていた。
どうして国軍がこんなところに?
ニッキを起こさないように毛布から抜け出ると、私は上着を羽織って立ち上がった。何があったんだろう? 生徒さんたちも湖岸に集まって空を見上げている。私だけ寝過ごしてしまったようだ。
飛行そりから一羽の鳥が飛び立つのが見えた。一直線に私たちの元に飛んでくると、グレーの小さなハトは岸辺の岩の上に舞い降りた。
「おはようございます。あなた方は昨夜、この湖畔におられましたか?」
首をきゅっと伸ばして姿勢を正すと、ハトは近くにいたカールに向かって話しかけた。
「はい。ここでキャンプしてましたから」
「では、湖の異常に気付きませんでしたか? 昨夜、ここで何かが暴れていたとの通報があったのです」
「あら、中尉じゃないの」
眠そうな顔のジャニスがハトに歩み寄った。今起きて来たところらしく、髪がぼさぼさだ。
「おお、ジャニス殿、このようなところでお目にかかるとは……」
ハトは目をくるりと回して、彼女に向かって会釈をした。
「騒いでたのはあたしなの。呪文の練習をしてたのよ」
実際は鬼ごっこだったのだけど、呪文は使っていたから嘘とは言い切れないかな? 小さな川の氾濫でも呼び出されるジャニスは、国軍に顔見知りが多いのだ。
「湖の対岸に繭の採集に来ていた者がおりましてな。驚いて逃げかえったというのです。この湖には大きな生き物は住んでおりませんし、原因を調べて来いと命じられたわけです」
「そうだったのね。この辺りには誰も住んでないって聞いてたから、構わないと思ったの」
「ジャニス殿は普段から人里離れたこのような場所で訓練をしておられたのですね。さすがであります。このピョルテ、いたく感服したしました」
「でも、驚かせちゃって悪いことしたわね」
「いえ、人助けに繋がることでありますからな。やむを得ないことです。おや……」
ハトは馬車の上の私に気づいたらしく、小さな頭をこちらに向けた。
「……そこにおられるのはハルカ殿ではありませんか?」
「一緒に来たのよ。あたしたち、本職は留学代理店の職員だからね」
ジャニスが笑う。
「なるほど、つまりこの方々は留学生なのですな。お勤めご苦労様であります」
このハトは『リヒャなんとかピョルテ』という国軍の中尉で、辞書登録は『ピョルテ中尉』だ。ハトだけど一部隊を任されている。そりに乗っている兵士たちは彼の部下なのだ。
彼は王宮と『ヘッドクォーター』間の連絡係も務めており、国家の機密に通じている。私が『スレイヤー』だと知っている数少ないうちの一人……というか一羽でもある。
「わざわざ来させてしまってごめんなさいね」
「いえ、我々は常時暇なので気になさらないでください」
中尉は得意そうに胸を張って見せた。軍が暇なのは平和だからであって、喜ぶべきことだという認識なのだ。
突然にぱたたと羽音が聞こえ、いきなり頭上からスズメが降ってきた。地面でぴょんと跳ね返って、ハトに向かってさえずり出す。
「ちゅ、ちゅん、中尉、中尉殿……」
「どうした、軍曹? 見苦しいぞ。落ち着きたまえ」
ピョルテ中尉が注意したけれど、スズメはぴょんぴょんと跳ねまわっている。
「ちゅ、りゅ、竜が、竜が……ドレイクが……」
「ドレイクだと?」
慌てて空を見上げると、ふっと辺りが暗くなった。朝の低い太陽の前を巨大な竜の身体が横切っていく。
「ドレイクだ!」
生徒さんたちが口々に叫ぶ。金の竜は湖の上をゆっくりと旋回した。慌てて退避していく陸軍のそりは彼の巨体と並ぶとおもちゃのように小さく見える。
今度はドレイク? なんで彼まで出てくるの?
キャスとアニーが悲鳴を上げて森の中に駆け込んだ。うちの生徒さんたちは入国した日にドレイクの低空飛行を見ているので、動揺せずに竜を見上げている。
竜は翼を大きく広げ身体をひねると、森と湖の間の狭い岸辺に器用に着地した。
「うわあ、ハルカ、頼んだわよ」
ジャニスは馬車に飛び乗って、私の背後に身を隠した。ピョルテ中尉も私の肩にとまって、暖かな身体を私の頬に押し付ける。スズメの軍曹はどうしていいのか分からなかったのだろう。中尉の後にくっついて私のところに飛んでくると、襟の中に潜り込んでしまった。どちらもふるふると震えているのがかわいらしい。
「ねえ、中尉、私が『スレイヤー』だってことは生徒さんには秘密なの。あなたがドレイクと話してきてくれないかな?」
怖がってるハトに頼むのは気の毒だけど、なぜドレイクがここにいるのか、聞き出さないと。
「え、自分が……でありますか?」
中尉は怯えた声を上げた。
「鳥は食べないから大丈夫。何かあったら援護射撃してあげるから」
「分かりました。ハルカ殿がついていれば百人力であります」
そうは言ったものの、杖は毛布の下に隠れていてどこにあるのかわからない。まあ、中尉は気づいてないし構わないか。
「ドレイク殿、我々にご用でしょうか?」
小さなハトはドレイクの目の前に舞い降りて、精一杯に胸を張って話しかけた。
「国軍のそりが見えたのでな。なにか事件でもあったのかと見に来たのだ。だが、この様子では何事もなかったようだな」
竜は穏やかに返事を返す。彼の目がちらりと私を見た気がした。生徒さんたちの前で私に話しかけてはいけないことは分かっているのだ。
彼にはこの湖でキャンプをすると話してあった。国軍の飛行そりが三台も集まっているのを見て、私のことが心配になったのだろう。最近の彼の素っ気ない態度が気になっていただけに嬉しくなって、周りに悟られないように胸の前で小さく手を振った。
「では、行くとしよう。騒がせたな」
「いいえ、滅相もございません!」
ハトは恐縮して置物のように固まった。
ドレイクが飛び立とうと湖の方に体の向きを変えた時、「待ってもらえますか?」と背後から声がした。
振り返るとそれはクリスだった。
「おはようございます」
恐れる様子もなくドレイクに近づいて、彼は礼儀正しく挨拶をした。
「ああ、おはよう。お前は何者だ?」
金の竜は興味深げに頭をクリスの方へ向ける。
「留学生のクリス・マックレアです。あなたに触れたいのですが、許可をいただけますか?」
誰かに聞いたのか、竜の許しがなくては触ってはいけないことは知っているらしい。
「ふむ、俺は構わぬが……」
ドレイクが彼に向かって前足を差し出す。それを見てクリスがレイデンにキスした時の事を思い出した。レイデンはあの時、彼に何かの魔法をかけられたのだ。
クリスに触られたらまずい!
「触っちゃダメ!」
急いで声を上げたけど、クリスの指先はドレイクの金のウロコに触れてしまっていた。あの時と同じ、ざわりとした奇妙な感覚が身体を走った。
「そこの娘。大声を上げてどうしたのだ?」
ドレイクが私に声をかけた。彼は何も感じなかったのかな? 他人のフリをしてくれるのはありがたいけど、娘って呼び方はどうなんだろう。
「あの……生徒さんが失礼なことをお願いしたかと思って……」
「俺がよいと言ったのだ。気にせずともよい」
竜は寛大な笑みを浮かべてみせた。もっともそれが笑顔だとわかるのは私だけかもしれないけれど。
「あの……私達も触っていいですか?」
いつの間にか戻って来ていたアニーとキャスがおずおずとドレイクに話しかけた。
「ああ、よいとも。触るがいい」
「やった!」
竜が怖くないと分かると、ほかの生徒さんたちも集まってきて、ドレイクの前足にぺたぺたと触りだした。怯えていたジャニスまで触りに行ってしまった。
「凄いなあ。かっこいいなあ」
アニーが感極まった声でドレイクのかぎ爪に手を這わせる。
「そうだろう」
褒められて竜はご満悦だ。
「くそ、なんの騒ぎだよ。うるせえな」
足元の毛布の山がもぞもぞ動き、ニッキが顔を出した。
「おはよう。よく眠れたみたいだね」
「うう……頭が痛てぇ。あれ、どうした、ハルカ? 朝から不機嫌そうだな」
「え?」
彼は毛布から這い出して上体を起こし、騒ぎの原因を探ろうと馬車の手すりから周囲を見渡した。
「うわ、ドレイクじゃねえか! あいつら、なんで触ってんだ?」
「ドレイクがいいって言ったの」
「ああ、そうか。それでお前、ヤキモチ焼いてんだな」
「はあ?」
「そういう顔してるぜ」
言われてみれば、確かに面白くないかもしれない。
「私だけにしか懐かなかった犬が、誰にでも尻尾を振るようになっちゃったって感じだな」
「ああ? 竜相手にひでえ言い方だな」
ニッキは呆れ顔だ。
「もうよいかな? そこを通してはくれないか」
ドレイクが彼の周りに群がっていた生徒さんたちに声をかけた。彼らが道を開けると、ゆっくりとこちらに向かって歩き出す。ちょっと、どうしてこっちに来るの?
「おい、先ほどの娘」
彼が大声で呼ばわった。え、私のこと?
「お前は俺に触れたくはないのか?」
「いえ、別にいいです。畏れ多いですから」
「遠慮はいらぬのだぞ」」
「だからいいって……うわ!」
ドレイクは勢いよく鼻面を突き出して、正面から私の顔に押し付けた。
「もう、何するの!?」
指輪で殴ってやりたいところだけど、生徒さんの前で攻撃魔法は使えない。
「竜に触れる機会を逃しては後悔するだろうからな。気を使ってやったのだ。ではまたな」
ドレイクはすました顔で湖の方に身体を向け、大きな翼を打ち下ろす。両翼の端が水面に触れ、キラキラと水しぶきをまき散らした。宙に浮かんだ金色の巨体は生徒さんたちの歓声にこたえるように湖の上を一周すると王都の方角へと遠ざかっていった。
「へ、キスされてやんの」
ニッキが笑う。
「ああ、やられた!」
唇というよりも顔全体だったけど、ドレイクは絶対にキスのつもりでいるはずだ。私が反撃できないと思って調子に乗ったな。
「お前はモテていいよな」
「竜にモテても仕方ないでしょ?」
「本当にそう思ってんのか?」
「どういう意味?」
「だって顔がニヤケてるぜ」
「そんなはずないでしょ。あなたこそ、気分はどうなの?」
彼は急に真顔になった。
「……なあ、昨日の晩だけどな。俺、お前に何か話したか?」
「矢島さんが好きだって話なら聞いたけど?」
「くそ、話しちまったのか。最悪だ」
「誰にも言わないよ。ねえ、寂しくなったら金曜以外にも遊びに来てもいいんだよ」
「馬鹿言うんじゃねえ。もう平気だ」
ほんと、素直じゃないな。そんな顔して嘘ついても丸わかりだっていうのに。