初冬のキャンプ
眠れない。
天蓋のない馬車の床から見上げれば、森の木々の間に光害とは無縁のまぶしいほどの星空が見える。外界と同じ星座が見えるのも『魔法世界』がパラレルワールドだと考えられている理由の一つなのだけど、星を鑑賞する気持ちの余裕などなかった。
今期の留学期間は残り二週間だというのに、どうして今になってこんな目に遭わなきゃならないんだろう? 一度にたくさんの事が起こり過ぎて頭の中がおかしくなりそうだ。寝返りをうつと、ニッキの顔が目の前にあった。金色の睫毛に光る涙は星明りを映す宝石のようだ。
目が合うと身体をぎゅっと寄せて来た。腕を持ち上げて頭をよしよしと撫でてやる。
ああ、もう、こんなややこしいことになるのなら、ジャニスの誘いなんて断ってしまえばよかったのだ。後悔したって後の祭りでしかないのだけど。
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事の起こりはジャニスからの手紙。鬼の木下さんのために飲み会を開こうというお誘いだった。なかなか都合がつかないので、留学期間が終わって落ち着いてから身内だけでやるつもりだったのに、ジャニスのところの生徒さん達が乗り気なのだという。
結局、北アメリカ地区と合同で一泊キャンプをすることになった。場所はメルベリ村から三十分ほどの山中の小さな湖。地元でもキャンプ場として使われているところだ。うちからの参加は木下さんとカール、マイアの三人。アンジーはホストファミリーとの旅行で来れないという。私たちはジャンマーの馬車で目的地へと向かった。
北アメリカ組とは湖で合流することになっていたが、彼らはまだ着いていなかった。ジャニスは遅刻常習犯なのだ。寒い時期にわざわざキャンプに来る物好きもいないようで、今夜は貸し切りになりそうだ。管理人もこの時期には時々見回りに来るだけらしい。
この湖は広葉樹の森にぐるりと囲まれている。岸のすぐ近くまで森が迫っているので、森にぽっかりと開いた穴のように見える。森の中には巨木も多く、上の方から鳥たちのおしゃべりが聞こえてきた。
「あの丸いのはなんですか? たくさんあるんですけど」
森を覗き込んでいたカールが木の枝に引っかかっている黄色っぽい楕円形の物体を指さした。どれも二、三メートルの長さがある。
「あれは繭なの」
「なんの繭ですか?」
木下さんが怯えた声で尋ねる。図体は大きくなっても気は弱いままだな。
「蛾の幼虫」
「うええ」
三人とも気持ち悪そうに木々のこずえを見渡した。
「今の時期は羽化して飛んでっちゃってるから大丈夫。今日はあの中に泊まるから、好きなのを選んでくれる?」
「え、あの中で寝るんですか?」
「中は広くて居心地がいいよ。丈夫で軽いし長持ちするから持ち帰って寝床に使う人もいるぐらい」
「そんな怪獣みたいな蛾がいるんですね」
「『魔法世界』でも繁殖地はここだけって聞いたけどね」
「うわ、見たくないな」
私もそんな化物みたいな蛾は見たくない。聞くところによればとてもキレイな生き物らしいけれど。
繭からは丈夫な糸が取れるので毎年収穫されるが、キャンパーのために低いところにあるものは残してある。梯子までかけてくれているので、出入りは簡単だ。
「凄いなあ。まさか虫の繭の中に寝ることになるとは思わなかったよ」
カールが感極まった様子で近くにあった繭の中を覗きこんだ。どこで調達したのか剣士っぽい衣装を着こんだ彼は腰から長い剣をぶら下げている。あの怪しげなクラブから貸りているものなので、文化財級の価値はあるだろう。
「やっぱりこの世界は楽しいですね。まだ見ていないものがたくさんあるのに、もっと長くいたかったな」
少し寂しそうに彼はつぶやいた。もうすぐ彼らとお別れだと思うと、私だって心が沈む。何度経験してもこの寂しさには慣れそうにない。
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遠くから馬車の走る音が聞こえて来た。やがて森を抜ける一本道にジャニスたちの乗った馬車が姿を現す。体格のいい馬車馬よりもさらに大きな青緑色の馬が並走していた。
「まあ、あなたたち、早かったのね」
悪びれもせずにジャニスが馬車から降りて来た。
「そっちが遅れたんでしょ?」
「こいつの支度が遅かったんだよ。いつもの事だけどな」
ぶつくさ言いながらニッキが後に続く。
「ケルピーまで連れて来たの?」
「だっていつも噴水の池にいるのよ。たまには広い場所に連れ出してあげないとかわいそうでしょ?」
ケルピーは挨拶のつもりなのか濡れた鼻先をこすりつけて来た。澄んだ泉の中に住んでるせいか、生臭い臭いはもうしない。
「帰る時に呼んであげるから遊んでらっしゃいな」
ジャニスに言われて、馬は素直に湖に入っていった。いつの間にか彼女のペットの座に甘んじてしまったようだ。
北アメリカ地区の参加者は女性三名と男性一名の四人だけ。帰国前の週末となると、こっちでできた友達やホストファミリーと一緒に過ごす人が多い。うちの生徒さんと合流してさっさと繭を探しに行ってしまったので、私たちは雑談を始めた。
「あなたのとこ、もう通知は来たの?」
ジャニスが尋ねた。
「うん。今回は誰もいないって。木下さんは残るけどね」
誰に滞在許可が下りるのか、各代理店に『魔法院』からの通知が届いている頃合いだった。うちも先週届いたところだ。
「あら、残念ね。うちは一人出たわよ」
「誰?」
「クリスよ」
「クリスって?」
名前を聞いても顔が浮かんでこない。
「やっぱりわかんないか。全く目立たないアッシュブロンドの眼鏡男って言えばわかる?」
「あ、わかった」
今日も来ている三十代の白人男性だ。実を言えば、『ドラゴン鑑賞ツアー』で引率したときに初めて彼の存在に気がついた。研修会でも見ているはずなのだけど、覚えがないのだ。眼鏡をかけている以外特に目立った特徴はないが、近くで見れば知的で端正な顔立ちをしている。それなのにわざと気配を消しているのかと思うほど存在感が薄い。
「どんな魔法を使うの?」
「すごく頭がいいのよ」
ジャニスがちぐはぐな答えを返した。
「それ、魔法じゃないよね」
「うちの村に『カラクリ』の工房があるでしょ。そこに入り浸ってるのよ。外界じゃ技師だったんだって」
『カラクリ』とは機械仕掛けの人形の事だ。『壁』が出来る前にドイツから取り入れた技術に魔法を組み込んで、独自の進化を遂げたらしい。エレスメイアではタプタイ村が有名だが『壁』以前は同じように外界の技術を取り入れた工房が方々の国にあったのだという。
「勝手に弟子入りしちゃってさ。そのまま続けてもいいって『魔法院』の許可が下りたの」
「え? それで許可が下りるの?」
「今の親方が弟子を取ろうとしなかったから、工房ももう終わりだって噂だったのよ。村でも一番大きいとこだったからね。やっと見つけた弟子を逃がしちゃ大変って思ったんじゃないかしら」
『カラクリ』は便利ではあるけれど、外界の自動車のように生活になくてはならない物と言うわけではない。どちらかというと伝統工芸的な扱いだと思っていたのに、外界人に滞在許可まで出してまうとは、エレスメイアは『カラクリ』の技術の継承に重きを置いているということか。
「今日も来てるし、付き合いはいいんだね」
「でもほとんどしゃべらないのよ。工房もお休みだからね。やることなかったんじゃないの?」
「あいつまで来やがったしな」
ニッキが鬱陶しそうに森の方角を睨みつけた。
「ああ、あのエルフが大好きな子ね」
「やめろって言ってんだろ。馬車の中でも俺の写真ばっかり撮ってやがるんだ。おい、レイデン、お前も気をつけろよ」
「え、私ですか?」
突然に話を振られて、レイデンは驚いた顔をした。
「うちの女たち、今日はお前が目当てだからな」
「なるほど、飲み会をしたがったのはレイデンが目的ってわけか」
「そういうことね」
ジャニスが笑う。確かにあの子たち、『ドラゴン鑑賞ツアー』では竜のスーラよりもレイデンを眺めてる時間の方が長かったよな。
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生徒さんたちは今夜の寝床にする繭を見つけたらしく、馬たちと一緒に湖畔の散策を始めていた。もう十二月の初旬だけれど、魔法のかかった防寒着を来ているので寒くない。でも、さすがに水に入って遊ぶのは無理そうだ。
「魚が見えますね。エレスメイアで釣りをしてみたかったな」
水の中を覗き込んでいたカールが残念そうに言った。
「釣り竿を持って来ればよかったね」
私も魚を探そうと屈み込んだら、足元からいきなり水が引いた。みるみるうちに湖面が二つに割れていく。振り返ると、ジャニスが紫の石のついた杖を湖に向けていた。
「釣りは無理でも、こうすれば魚は捕れるでしょ?」
岸から数十メートルの距離まで湖はぱっくりと裂け、湖底が露出していた。転がる岩の間には逃げ遅れた魚がぴちぴちと跳ねている。彼女の凄さは知っていたど、こんなに大きな湖まで割ってしまうなんて。
「ほら、五分あげるから、さっさと捕まえてらっしゃいよ」
初めて彼女の魔法を見た生徒さんたちは呆然と立ち尽くしていたが、やがてこわごわと水の壁の間に足を踏み入れて魚を拾い始めた。