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タニファとの出会い

 ニュージーランドの国立公園でトレッキング中、ぬかるんだ細い山道で私は足を滑らせた。転がり落ちた先がその沼のほとりだったのが思えばすべての始まりだったのだが、もちろんその時には知る由もない。


 湿った地面に思い切りお尻を打ち付けて私は呻いた。ズボンに水がしみ込んできたので、痛みをこらえて慌てて立ち上がる。お尻にあざができているのは間違いないけれど、骨も関節も痛めてはいないようだ。深く積もった枯れ葉がクッションになったのが幸いしたらしい。


 今回は難易度が低いコースなので一人で来ちゃったんだけど、事故にならなくてよかった。トレッキングには必ず複数で行くようにとお客さんに指導している立場の人間が、遭難しては情けない。


 それにしても目の前に広がる沼は奥行き百メートル以上はありそうだ。出発前に何度も地図を確認したのだけど、こんなに大きな沼、あったっけ? 雨の多い時期だけ水が溜まるのかもしれない。


 どうやって上の道まで戻ろうかと振り返った瞬間、背後からぴちゃんと水が跳ねる音がした。魚がいるのかな?

 

 私は沼に近づいて茶色く濁った水の中を覗きこんだ。かなり深そうだ。これは水溜まりなんかじゃない。見渡すとほんの五メートルほど先に緑色の物が沈んでいるのが見えた。そしてそれはゆらゆらと揺れながらこちらに向かって浮上していた。


ーー逃げなきゃ。


 それが何なのかわからない。でも説明のつかない物からは逃げるに限る。走ろうとしてぬかるみに足を取られ、重いバックパックに振り回されるようにひっくり返った。同じところをぶつけて痛いなんてものではなかったけど、私は四つん這いで進み続けた。


「待ちなさい」


 背後から声が響いた。穏やかな、歌うような男性の声。恐る恐る振り返ると、深い緑色をした巨大な生き物が沼から長い首を突き出していた。形は大きなトカゲかサンショウウオのようだが、顔は人の顔のように平面で巨大な二つの目玉が明るく光っている。


「慌てなくてもいい。お前に危害を加えるつもりはないよ」


 生き物の口が動いた。


「は、はあ」


 私は気の抜けた声で返事をした。危害を加えないと言っているのだから、食べられる心配はなさそうだ。目の前の生き物が何なのかは知っていた。これは『タニファ』だ。先住民のマオリの間では守り神とされている。もう百年以上目撃情報はないと聞いていたのに。


「すみません。足を滑らせてしまったんです。邪魔をするつもりはありませんでした」


 巣に近づいたので怒らせてしまったのかもしれないと思い、私はとりあえず謝った。タニファは喉の奥でコロコロと不思議な音を立てた。笑っているのかな?


「そうだな。ここはお前のいるべき所ではないな」


「す、すみません」


「全くの反対側だ」


「反対側?」


「お前たち『パケハ』が元いた辺りだな」


そういうと彼は磨いた黒曜石のような目で私を見つめ、瞬きをした。


「おや? お前は違うところから来たのだね」


 『パケハ』とはマオリ語でヨーロッパ系白人を意味する。ということは反対側ってヨーロッパのこと?


「私は日本から来たんです。反対側って地球の反対側ですか?」


「そうすればまた繋がる」


「繋がる?」


「人は嫌いではないからね。もう少しにぎやかになっても悪くはない」


「あ、あの、意味が分からないんですが……」


 タニファは一人で話し続ける。説明するつもりなど毛頭ないようだ。


「もう行きなさい。私も行かなくては」


「あ、待ってください。写真を撮らせて」


 私はズボンのポケットからスマホを取り出した。トレッキングコースはほとんどが通信圏外だけど、カメラ代わりにと持ってきたのだ。


「動かないでくださいね」


 私はタニファの写真を数枚撮ると、せっかくの機会なので彼を背景に自分の写真も撮った。


「ありがとうございます」


「それはなんだね?」


「携帯電話です。遠くにいる人と連絡を取るのに使うんです、写真も撮れるんですよ」


 スマホを差し出して撮ったばかりの写真をタニファに見せた。彼は首を伸ばして携帯の画面を覗き込み首を傾げた。


「それは私かね? こんなに緑色だったとはね」


「あの、また会えますか? 写真をプリントして持ってきます」


「ああ、すべてが繋がったらね」


 そう言いながらタニファは濁った水の中に沈んでいった。


 静まり返った沼のほとりで、バックパックから遭難信号発信機を取り出した。迷子になった時に備えて、会社のツアーで使うものを借りて来ておいたのだ。


 通常の遭難信号発信ボタンの隣に、オレンジ色の『Report the Encounter(遭遇報告)』と書かれたボタンが並んでいる。誤操作防止用の封印を引きむしりカチリとボタンを押し込んだ。


 急な斜面をよじ登り、山道に戻って早めの昼食を取っていると東の方から爆音が響いてきた。三機の軍用ヘリが近くの尾根に着陸したのはボタンを押してから二十分後のことだった。

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