6.真っ黒な歴史の象徴
いつもの道を、僕『森近優真』は歩く。
前にも言ったと思うが、時間が過ぎるのは本当に早い。
少し前まで満開だった桜は青い芽を出し、夏のために衣替えを始めていた。
とは言ってもまだ五月。僕は相変わらず草臥れたパーカーを着て今日も出勤する。
「おはようございます」
中に入ると誰もいなかった。まあいつものことだ。
僕は紙の匂いがフワリと漂う店内を行き、階段を上がって二階に顔を出す。
「おはようございます」
「あ、おはよう優真君」
「おはよう金森君」
「森近です。おはようございます陀宮さん」
台所には『塚井恵美』さんが、陀宮さんこと『陀宮奈々子』さんの朝ごはんを作っていた。
陀宮さんは珍しく起きていて、ダイニングの席についている。
塚井さんは僕を見ると少し申し訳なさそうに、
「ごめんな。今日は優真君の作っとれんだんよ」
「あ、大丈夫です。いいですよ僕の分まで」
僕はいつもそう言っているのだが、彼女はそれに対して「そんなこと言わんの」と笑って返してくるのだ。このやり取りを何度繰り返したか。本当にありがたいのだが、
「……私の冷蔵庫なんだけど?」
そう睨んでくる陀宮さんに気を遣うのが少し辛いのだ。この微妙な綱渡りが案外負担なんですよ。
「なら上に来なければいいんじゃない?」
また心を読まれた。
「そうはいきませんよ。挨拶はしないといけませんし」
「それは殊勝な心掛けね。素直に感心するよ」
そう言って陀宮さんは朝食のサバの塩焼きを口に運ぶ。今日はご飯らしい。焼いた魚の香ばしい匂いが鼻腔を擽る。うっ、お腹が減りそうだ。
……だめだ。ここにいると空腹になってくる。
「じゃあ僕は下で店番してきますね」
そう言って僕はきびすを返し、足早に出ていこうとする。だがそこで背中に「ストップ金森君」と声を投げられ、振り向く。
「森近でふ!?」
その振り向いた瞬間、背後に居た彼女は僕の口の中に箸で何かを突っ込んだ。
この少し生臭くて程よく塩気を帯びたものは……さっきのサバの塩焼き?
「今日も依頼が来てるから、夕方からよろしく!」
そう言って彼女は僕の口から箸を抜いて自分の食卓に戻り、ニシシと笑ってくる。それを見ていた塚井さんも口を隠してクスクスと笑ってくる。
「あ……はい」
あの笑みの意図はなんだろうか。しかし……うん、おいしい。ご飯が欲しくなるな。
サバの余韻を楽しみながら僕は部屋を出て階段を降りていく。が、楽しんでいると結局お腹が減ってくる。
はぁ、とため息を吐き、僕は掃除道具を出していつもの仕事に取り掛かる。今日は空腹との戦いになりそうだ。
しかし……
どうだろう。さっきは驚いて何も反応できなかったが。今思えばあのシチュエーションは割と恥ずかしいものだったのではないのだろうか。あれは陀宮さん自身の箸だったし、これは間接的に……
そう考えると少し顔が熱くなってしまう。前々から彼女の悪戯は多々あったが、今回のは新しい。いや、別に喜んでいるわけではないのだが。
まあ今までで一番酷かったのはトッポの中に辛子を詰められていたときだったな。まさかあそこまで手の込んだことをしてくるとは。
それを思い出してもう一度ため息を吐く。
「あ、幸せが逃げてった」
「っ!?」
何の前触れもなく飛んできた声に僕は驚き振り返る。そこには支度をして階段から降りてきた陀宮さんの姿があった。口にはキャンディーを咥えている。
「デザート」
彼女は口のキャンディーを出して示し、また口に戻す。色的に味はイチゴだろうか。食品添加物が多く使われてそうだ。
「そんなの気にしてたら何も食べられなくなるじゃん」
そう呆れつつ彼女は髪を撫で、カウンターの前を通って玄関に向かう。だが、僕が「いってらっしゃい」と言おうとしたところで陀宮さんは足を止めて、
「ああそうそう」
振り返り、何かを僕に向って投げた。
それを僕は手に取り、その重さに顔をしかめる。それは僕の黒歴史の象徴といってもいい代物。
僕のしかめた顔を見て、陀宮さんはクスリと笑い、
「夕方までにそれに慣れておくことね、金森君。ちなみに今日は『人形』らしいよ」
「……森近です。『人形』ですか?」
そうよん、と言って彼女はぴしゃりと戸を閉める。詳しい説明は後程ということらしい。
それからしばらく、僕はそれを眺めた。
そして指で摘まみ、折り畳まれた銀の刃を出してみる。
折り畳み式のナイフ。刃渡りは八か七センチ。
僕の黒歴史。文字通り真っ黒な歴史の象徴だ。
またため息が出る。幸福が逃げる、か。ならば僕の幸福タンクはすでに空だろう。
錆一つ無い、鏡のような刃に僕の顔が反射する。パーカーとともに僕の顔もかなり草臥れているのが分かる。十中八九こいつのせいだ。
……いや、それは八つ当たりか。
これは道具で、使ったのは自分。いうなれば悪いのは過去の自分ということだ。
「………っと、こんなとこ見られたら流石にマズいよな」
僕は慌ててナイフを戻して、ポケットに入れ、用意していたハタキをとる。今の僕にはこっちがお似合いだ。
よし、と意気込み直し、僕は掃除を始めた。