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BITTER CANDY ~黒い歴史の1ページ~  作者: 梅雨ゼンセン
第一章 ―横断歩道の老婆―
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5.後日談


 二日後。

 僕はスーツではなく、いつもの草臥(くたび)れた格好で古書店に出勤していた。

「おはようございます」

「おはよう近森君」

 中に入ると陀宮さんがカウンターのところで本を読んでいた。珍しく早起きして制服も着ている。

「森近です。珍しいですね早起きなんて」

「たまにはねー」

 陀宮さんは読んでいた本をカウンターの上に置くと、僕の方を向いて頬杖を突く。

「この前の一条生花という女性。亡くなったってさ」

「……」

「死因は心臓発作。きっと『H・P・ラヴクラフト』の『闇をさまようもの』の『ロバート・ブレイク』、もしくは『オーガスト・ダーレス』と『M・R・スコラー』の『邪神の足音』で登場する『ウィリアム・ラーキンズ』のような顔をしていたんだろうね」

 彼女は笑っている。

 それは何の笑みか。

 愚かな悪人の末路への嘲笑だろうか……いや。

 きっとこれは満足の笑みだ。面白い物語への讃美の笑みなのだ。

 観客の居ない劇場で客席に一人。彼女はそこで深く腰掛け、語られる悲劇を観て拍手を送るのだ。

 面白かった、と笑って。

「……そうですか」

 僕は、彼女の言葉にどう答えればいいのか分からない。それは僕の中で迷いが生じているからだと思う。確かに、結末がどういう形であれ、彼女の罪が暴かれて少しスッとしたことは、僕の中で誤魔化しようがない。だが、やはり胸の中には(わだかま)りが残っている。


 彼女は誰にも頼らなかった。頼ることができなかったのだ。


 そうして自分の中に延々と気持ちを溜め込んでいってしまい、最後に些細なきっかけで破裂した。そして一番の失敗は……いや、失敗というか不条理というか、不幸だったところは、静華さんを突き飛ばして、それでうまく事が運んでしまったことだ。彼女は悔い改める機会すらも貰えないまま、事件は事故として解決してしまったのだ。そうして彼女は幸せを夢見て、もう一歩のところまで行ってしまった。

「天に向かうほど山は高くなる、ってね」

 僕の思考をまた読み取ったのか、陀宮さんはそう欠伸をする。慣れない早起きしたせいでまだ眠いのだろう。

 陀宮さんの言う通りだ。低いうちに落ちたのならまだ助かったかもしれない。しかし彼女の落ちた山はあまりにも高かった。

 仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、その前に誰か手を差し伸べてあげることはできなかったのだろうか。

「……すいません。ちょっと出てきます」

 僕はきびすを返して店を出る。背後で陀宮さんが「いってらっしゃい」と送ってくれる。僕はそのままトボトボと亡霊のような虚ろな足取りで、ある場所に向かう。

 ……やめよう。誰か手を差し伸べてあげられなかったのか、なんて、自分ができないことを他人に求めるのは良くないと思うし、見苦しく感じる。それに手を差し伸べることができたのならもっと前に……そう、彼女が祖母を殺す前に誰かが差し伸べていたはずなのだ。


 だがそれを誰もしなかった。できなかった。そのときからすでに歯車は回り始めていて、祖母の背中を押す直前にはもう後戻りできないところまで来てしまっていた。


 そうして僕は一時間ほど歩き、あの横断歩道にやってきた。

ぼんやりと考え事をしながら歩いていたので、そこまで時間を感じなかった。

 僕はもう一度そこを見る。するとこの前来たときあったあの花がまだあった。

 手折ったヤマザクラ。花言葉は『夢路』だそうだ。

 依頼結果を説明して、一条さんの家を出た帰り道。陀宮さんは帰りの車の中でこの花の花言葉を教えてくれて、

「私の他の霊能力者が絡んでいる可能性が高いね。そうでなければあそこまできれいに人の形を保てるはずがない」

 そう言った。僕は詳しく知らないが、陀宮さんは曰く、霊が自力で完全な人型になるのはほぼ不可能らしい。が、あの一条静華さんはほぼ人の形をしていた。おそらく誰かが手を加えたのだろうと彼女は言った。この嘲笑うような花はきっとその人が置いたのだろう。


 手折られた夢路。初めから届かない夢。


 僕はそのヤマザクラをとると、来るときに買ってきた小さな花束を新しくそこに挿し、手を合わせる。

 いたたまれない。なんて一言で言ってしまうと何とも簡素に聞こえてしまう。追い詰められた一人の女性が、誰にもその広がった傷を気づいてもらえず、自身を殺し、それでもまだ広がる傷に耐え兼ねて、一番近くにいた者を道路という灰色の沼に突き落としたのだ。

 何が悪いわけでもない。ただ……そう、運が悪かったのだ。不条理が重なった結果なのだ。

 人間に限らず、死はいつだって突発的だ。今日生きている人間が明日になると居ないかもしれない。

数分数秒前まで笑っていた人間が次の瞬間、一生笑わなくなることだってあり得るのだ。



 僕はあの一年一カ月一週間と二日に前に、それを理解した。



 両手を合わせて祈り終えたところで、僕はチラリと横断歩道を振り返る。

 灰色の上に敷かれた白い板。その二色のコントラストがたまに、ハチの黄縞模様と同じものに見えてしまうことがある。

『横断歩道はそこが安全な場所だということを示している。しかしその安全を保障しているわけじゃない。幻と同じ、まさに落とし穴』

 そう陀宮さんは笑っていた。横断歩道は安全だと示す看板に過ぎない。『ここは安全です』 

という看板があってもその先に『安全』が無ければ、それは看板が無い状態よりも尚悪い。

 僕はその横断歩道から顔を逸らすと、家路に着いた。かなり時間をくってしまった。その分働かなくては申し訳ない。今日はマツイボウで窓の枠もきれいに掃除しようかな。

 ……しかし、そのもう一人の霊能力者というのは、一体何をしたかったのだろうか。

 小さな不安を胸に抱いたが、僕はとりあえず今日の仕事をこなすために店へ急いだ。


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