3.怪異は炭酸のように…
一条さんの家から出てきた僕と陀宮さんは、彼女の家から歩いて十分ほどのT字路に来ていた。
僕たちの目の前には少し白線が欠けた横断歩道がある。
一条生花さんの依頼の内容はこうだった。
この横断歩道で自分の祖母が事故で死んだ。
しかし事故の数日後、横断歩道の方から嫌な気配をずっと感じていて、見に行ったら祖母が立っていて、恐ろしい顔で睨んで来たのだという。
「祖母は優しかったのに、どうしてあんな……」
そう彼女は最後に、さめざめと泣きだした。事故があったのは一週間前。一条さんは祖母と同居していたらしい。
その事故は僕も知っている。当時地元のニュースで取り上げられていた。遺体は酷い有り様だったそうだ。車はかなりの速度を出していて、被害者は内臓破裂、全身の骨は粉々に砕け、遺体は引き摺られて頭部が三分の一ほど無くなっていたそうだ。
「……」
その横断歩道に来たとき、僕は空気が変わったのを感じた。今日は比較的暖かいはずなのだが、手足の先が冷えて思わず手揉みしてしまう。だがそれは、きっと、この場所のせいだけではないだろう。
きっと、思い出したからだ。
「……」
「……無理しなくてもいいよ」
事情を知っている陀宮さんは、横断歩道の方へ歩きながらそう言ってくれる。
白線が見えた途端に……いや、きっと『横断歩道』という単語が聞こえた瞬間にもう嫌な顔をしていただろう。
が、仕事はこなさなければいけない。
「……大丈夫です」
空元気を振り絞って僕は答える。そして少し離れた所から問題の横断歩道を見る。
周辺の地理には、僕たちの立っている歩道側を少し行くと閑静な住宅地が広がっており、この道路を挟んで反対側にはいくつかの田んぼ。そして田んぼ奥に何かの工場がある。道路と田んぼの間にはガードレールがあり、工場に行くためにはここからだと少し回り道をしなくてはいけない。
一条さん曰く、このT字路はあまり使われていないそうなのだが、一条さんの祖母はここをよく散歩のコースに入れていたようだ。
住宅地から曲がり角を出て右手、つまりT字路突き当りの右。陀宮さんは横断歩道を見た後、近くの電柱のところに置かれた花を見る。僕も同じように視線を移し、花を見る。瓶の水が新しいから最近置かれたのだろう。
それを見ただけで、特に言及することなく、陀宮さんは状況の整理に取り掛かる。
「さて、近森君」
「森近です」
陀宮さんは右にある横断歩道の方を見てから、左を見て、Tの字の頭をなぞるように右に向く。
「この道路は二車線で一直線。しかも住宅地の反対には田んぼに工場と誰も行きそうにない。人通りが少ないっていうのも頷ける。きっとその轢いたドライバーもそう思って運転していたじゃないかな」
「確か運転手は大学生の男だったはずです。時間帯は夕方ごろで、酒気帯びだったと報道されていました」
真昼間から酒を飲んで運転とは、世も末だなぁ。なんて、ちょっと前まで僕も大学生だったのだが。まあ確かに飲酒運転しているやつは学内でもチラホラいた。彼らは家に帰るまでが遠足だ、という名言を知らないのだろう。
陀宮さんは腕を組んで口に手を当てると、辺りを見回す。
「今、私たちが出てきたこの住宅地からの道は、家の塀があって見づらくなってる。きっと他に事故に遭ってる人が少なからずいるはず」
「町役場は何をしてるんですかね……」
思わずため息を吐いてしまう。確かにここは事故が起きそうな場所になっている。今陀宮さんが言った通り曲がり角には塀があり、ミラーはあるにしても申し訳程度で非常に見づらい。そして対岸には田んぼが広がっていて開放感があり、歩道は狭くて塀もなく車道から一段上がっているだけだ。
だが不思議な点がある。
「なんで……」
僕はそうぽつりと呟くと、それに陀宮さんはクスリと笑う。
「別に事故でもきっかけがあったら現れるよ。炭酸飲料がちょっとした振動で泡立つようにね。それに、生き物は少なからず未練を持ってる」
次いで歌うように言いながら僕の方に振り返る。
「そう、未練。それが今回の問題!」
振り乱され、サラリと舞う黒髪とスカートが花を連想させる。ここに桜の花びらが舞っていたならさぞ良い画になったことだろう。
しかし彼女の顔にあるのは悪魔染みた笑み。それは依頼が終盤に差し掛かっていることを示す笑み。順調である証拠だ。
だが同時に、僕はその笑みがあまり好きではない。なにせ彼女がそんな風に笑うときは、ろくなことがないのだから。
陀宮さんは僕の方に歩いてきて、ポンと肩を叩いた。
その瞬間。世界が切り替わった。
空気が変わった。
パチリ、と変わった。
頭の中で何かのスイッチが入ったような感覚。
次いで視界に、今まで見えなかったものが映り込む。
手前の白線の上。
そこに一人の『老婆らしきモノ』が現れる。
『らしき』と付け加えたのは、それが完全な人の形をしていないからだ。具体的に言うなら、右頭部がごっそりと削れ、そこから空洞になった中が見えてしまっている。
青白い肌に空洞の頭蓋。
ゆらりと陽炎のように立つその姿は、人形と勘違いしてしまいそうになるほど空虚で、生気の欠片も感じられない。それもそうだろう。きっとこの女性が死んだ一条さんの祖母なのだ。
「事故現場はここで間違いないようね」
肩から手を離した陀宮さんは横断歩道へ振り返り、僕と同じ景色を見る。
いや、正しく言うとこれは僕が彼女と同じ景色を見ているのだ。彼女はいつもこんな死者の世界を見て生きているのだ。
陀宮さんは僕の横に並ぶと今まで浮かべていた笑いを消し、その霊に問う。
「一条静華。あなたはなぜそこにいる?」
その名は一条生花さんから聞いた彼女の祖母の名。その言霊に僕はツンと眉間に不思議な刺激を感じる。それは彼女の気だろうか。一聞ただの言葉のように思えるのだが、何か特別な力のようなものを毎回感じる。
問いに静華さんは口をパクパクと動かす。それはまるで金魚のようで、まったく声がない。
しかし、不思議なことに何を言っているのかは理解できる。
老婆は答える。
ココデ死ンダカラ。
「一条静華。なぜ死んだ?」
車ニ轢カレタカラ。
「一条静華。なぜ轢かれた?」
……………………………………………………………………………………………
その問いには、長い沈黙が費やされた。だが静華さんは刹那、折らんばかりに歯を食いしばり、ぐにゃりと、それこそ鬼のように顔の中心に皺を寄せ集めると、
「―――――――――あの女に……」
……ぞっとした。
それははっきりと言霊として彼女の口から発せられ、同時にその呪いのような怒りが僕の脳から酸素を奪っていた。それくらいの眩暈がしたのだ。
全身の血が凍って、脳みそが半液状に融解するような、そんなどうしようもない不快感と嫌悪感が全身を這い回る。
そして最後に、僕の意識はブレーカーが落ちるように暗転していき、
「おっと、大丈夫?」
「ッ!」
陀宮さんがその両肩を抑えてくれたことで再び明転した。そこで世界のフィルタは取り除かれ、僕はいつもの世界に帰ってくる。
「す、すいません……」
情けなさを感じつつ、僕は彼女から離れる。まだ頭痛がする。
僕の肩を離した後、陀宮さんはもう一度横断歩道を見る。僕には見えていないが、陀宮さんにはまだあの景色が見ているのだ。そしてすぐに彼女は「さて、」と顔を僕の方に戻し、人差し指を立てる。
「さて近森君。聞き込みと行こうじゃないか!」
「森近です、って聞き込みですか?」
その笑みに僕は嫌な予感を抱いた。
そう、と彼女はまたくるりときびすを返すと、歩き出す。
「聞き込み内容は『一条一家の家庭について』だ」