1.森近優真の日常
桜咲く街道を、僕『森近優真』は歩く。
目的は出勤。
格好はジーンズに適当な白いシャツ、その上から灰色のパーカーを羽織っている。
髪型は特にセットせず、とりあえず寝癖だけ直したストレート。ちなみに歳は十九歳でギリギリ未成年。
一言で言うなら『地味な男』だ。
もとからあまりファッションに興味がなく、服は親が送ってくれるものを適当に掴んできている。が、このジーンズは僕が選んだものではない。
これは今から行く出勤先の上司に「ここで働くならジーンズにしなさい」と言われたからである。いつもはなるべく動きやすいモノばかり着ているので、箪笥の奥で眠っていたジーンズは硬かった。
勤務は今日で三百六十五と七日目。一年と一週間である。
勤務内容は古本屋の店番である。低賃金だ。しかしご飯が出てくる。それが唯一で最大の助けだ。一人暮らしの僕は正直大家さんにお金を納めるだけで精いっぱいなのだ。本当に助かっている。
歩いて約二十分。
僕はその店にたどり着く。
都会というには田舎臭いが、活気のあるアーケード。
通りの上を幕が覆い、雨の日でもそこそこ賑わうアーケード。
その中を少し進んでから左折する。すると一気に空気が変わり、別世界……いや、戦前にタイムスリップしたかのように、人気がなく寂れた狭い路地に入る。
そのさらに奥に。
『古書店』
通り沿いにあり、長方形の木の看板に筆で堂々と書かれた、昭和の八百屋か駄菓子屋のような店。
看板が無ければとても本を売っている店に……というより店とすら思わないだろう。
そこに僕は入っていく。
「おはようございます」
古紙臭さと、かび臭さと、埃臭さが混じったところへ入っていくと、奥にある階段から「はーい」と穏やかな返事とともに、一人の女性が現れる。
長い髪を後ろで結ってポニーテール風にし、エプロンで手を拭きながら現れた彼女は『塚井恵美』さん。僕の上司……ではなく先輩みたいなポジションの人で、簡単にいうならこの家の家政婦さんだ。
この店は一階が書店で二階が住まいになっている。この店のオーナーでもある僕の上司は二階に住んでおり、塚井さんがそのお世話をしている。僕は一階の店番担当だ。
塚井さんは僕の顔を見ると「優真君ちょっと!」と急々と歩いてきて、腕を掴んで、引っ張って、また急々と階段を上がっていく。
「え、ど、どうしたんですか?」
「どうもこうも、あの人起きんのよ。だからお願い」
「またですか……」
「お願い。今日の晩御飯カレーにするから」
二階の玄関前まで連れてきて、塚井さんは手を合わせて拝んでくる。いつも彼女は皆の分のご飯を作ってくれる。しかもそれをカレーにしてくれるとまで言われたのだ。これは断れない。
「了解です」
僕が頷くと、塚井さんは「ありがとうね」と安堵して微笑みを浮かべる。ちなみに話し方から歳をくっているように思うかもしれないが、見た目は二十代後半だ。この喋り方は彼女の癖で、正式な歳はトップシークレットだそうだ。
玄関のドアを開けるとまずダイニングキッチンがあり、ベーコンの香ばしい匂いが漂ってきた。どうやら朝食はベーコンエッグらしい。机の上には二人分のトーストと一人分のベーコンエッグが用意されている。どうやらもう一人分はまだのようだ。
塚井さんは「あの子、半熟じゃないと怒るからね」と少し苦笑し、玄関で靴を脱いで台所に向かう。それに同じく苦笑し、僕はダイニングキッチンの奥にあるもう一つの部屋の方に向かう。
この家と店の主は扉の奥にいる。ここが『彼女』の自室なのだ。
部屋の前に着くと、ノックをする。
「陀宮さーん。陀宮奈々子さーん。陀宮の奈々子さーん」
部屋の主に声をかけるが、返ってくるのは沈黙だけ。きっとまだ寝ているのだろう。なら次は強引に入るしかない。
しかし、中にいるのは性別が女の人である。
よって男として生まれた僕、森近優真としては開けるのに少々抵抗を感じでしまう。
だがこのままでは部屋の主は出てこないだろうし、起こさなかった場合「なんで起こさなかったの!」と癇癪を起すのは目に見えている。それは非常に好ましくない。というか面倒だ。
天秤にかけた結果、僕の思考は扉を開ける方に傾き、僕はもう一度「開けますよー」と答えが返ってこないことを分かりながらも一応確認をとって、扉を―――曇りガラスのスライドドアを開ける。
開けた時、中から漂ってきたのは畳のイグサの匂い。そしてそれに混ざってほんのり甘い香りが鼻腔を擽る。それははっきり言ってしまうなら、女性特有のあの香りだ。香水とも芳香剤とも花とも違う、あの香り。
「……」
何度かこの起床の仕事をしたことはあるが、やはりこの匂いは慣れない。
箪笥と、ハンガーにかかった服と、エアコンくらいしかない簡素な七畳半の中心で、
雪のように白く、ツンと冷ややかな肌。
やや寝癖がついているが、それでも雪解けの清流のように澄んで、鈴の音が聞こえてきそうなほど艶やかな黒髪。
そして極めつけは日本人形のような整った顔立ち。
現実感が欠落した美貌。
美しい少女『陀宮奈々子』は布団に横たわって寝息を立てていた。
彼女が僕と塚井さんの上司であり、この城の主だ。
陀宮さんの歳は僕より下の十六歳。高校に通っているらしいのだが学校生活については聞いたことがない。ちなみに畳は彼女が「和室じゃないと寝られない」と言ってフローリングの上に敷いたのだ。おかげで彼女の部屋だけ一段高くなっていて転びやすい。
「陀宮さん。早く起きないと遅刻しますよ」
「ん~」
彼女は気だるげに唸って、さらに布団の中に潜り込む。枕元にはノートパソコンが。きっとこれで遅くまでアニメとか動画類を見ていたのだろう。
「……もうちょっと……二十五時間だけ」
「どれだけ寝るんですか……」
ちなみになぜ僕が敬語なのかというと、彼女が上司だからだ。
しかし彼女は「ん~……五月蝿い」と呻いて布団の中に完全に潜り込んでしまう。それに僕はさっきまでドキドキしていたのが嘘だったかのようにカチンときて、彼女の寝ている布団を掴み、思い切り引き剥がす。
「学校に遅れますよ!」
上司でも起きるときは起きてもらわないと困る。
剥ぎ取った布団を部屋の隅に投げ捨てられ、彼女は「ん~……」と身を丸める。パジャマは少しピンクがかった、袖口にフリルの付いたものを着ている。いくらファッションに疎い僕でもこれはあまりにもお子ちゃまチック過ぎると分かる。高校生、絶世の美貌ときてこのパジャマである。これもこれである意味現実感がない。
……が、後が怖いので口には出さない。
しばらくダンゴムシのように丸まっていた陀宮さんは、やはりダンゴムシのように時間が経つとそれを解き、うっすらと目を開ける。僕は目覚めたのを確認してからため息を吐いて部屋を出る。丁度それに合わせて塚井さんが半熟ベーコンエッグを仕上げたようで、皿にとっているのが見えた。
「朝食ですよ。陀宮さん」
「ん……短気は損気って言葉知ってる? 近森君」
「森近です。時間にルーズな人は出世しませんよ陀宮さん」
「私はいいの。オーナーだからこれ以上出世しなくても。ああ塚井さん。いつもありがとう」
「いえいえ。結構楽しいですし」
そう言って塚井さんはもう一人分のベーコンエッグを作ってくれていた。合計三つ。それはすぐに僕のものだと分かった。
「あ、すいません」
「いえいえ~」
彼女はにこりと微笑み、皿に盛り付けトーストと一緒に机に置く。それに陀宮さんは「私のお金なのに……」とぼそっと文句を言っていたが、それ以上何も言わず席に着いた。そして僕と塚井さんも席に着く。実は、僕は朝食をすでにとってきているのだが、塚井さんの料理を前にするといつもお腹が減ってしまう。
合掌。
「「「いただきます」」」
温かな食事。
一人でも美味いものは美味いが、やはりこうやって他の人と一緒にとる食事はより美味しく感じる。
三人とも食べ終わると、陀宮さんは部屋に戻って着替え始め、塚井さんは「ふぅ」と一息吐く。僕もなんとなくダイニングの席に座って寛ぐ。なんだかもう、自分の家のような感覚になってきているなぁ……。
「毎回思うんやけど。なんか、妹ができたみたいやね」
「陀宮さんがですか?」
そうそう、と塚井さんは彼女の部屋の方を見て、嬉しそうにクスリと笑う。
しかし陀宮さんが妹か…………なんて憎たらしい妹だろう。
「……今失礼なこと考えてたでしょ」
「うわっ!? びっくりした……」
ふと見ると音もなく戸を開け、まだ下着姿の陀宮さんが半眼で見てきていた。着崩れた下着と眠そうな眼、加えて寝癖でもじゃもじゃになった髪と、まるで妖怪のようだ。
「また考えた」
「読心術ですか!?」
「給料から直引きしておくねー」
「それは待ってくださいよ」
僕は素早く頭を下げた。
それは流石に困る。ただでさえきつい生活を強いられているというのに、貧民層からこれ以上何も奪わないでほしい。切に。
それで許してくれたのか分からないが、陀宮さんは再び着替えに戻り、しばらくして部屋から出てくる。着ているのはセーラー服だ。
高校時代が懐かしいな、とこの姿を見て毎回思う。もちろん僕は学ランだったが。あの頃は勉強と部活と毎日忙しかったが、今思えば一番充実していた日々だったような気がする。時間は経つのが早い。
「ん? 何見てるの?」
「いえ。他意はないです」
「まだ何の意も聞いてないんだけど……」
陀宮さんは寝癖がかった髪を手で解かしながら、急々と出口の方に向っていく。
と、ドアを開けたところで止まり、
「ああそう言えば、帰ってきたら依頼だから」
それだけ言って、彼女はヒラヒラと手を振って出ていってしまった。
僕は問いを発する間も与えられなかった。「え……」と零したぐらいだ。
まあいつもと変わらないが。
「依頼、か……」
塚井さんは僕の様子を見て気の毒そうに笑い「頑張りや」と言ってくれた。