17.門崎三葉
そこにはソファに腰かけ、門崎三葉を膝枕して微笑む、二田都雄の姿があった。
彼は、膝の上で眠るように横たわっているソレの髪を撫でる。その仕草はとても怯えている人のものとは思えないほど愛おしそうで、優しい。
「っ……!」
その豹変に僕は言葉が出てこなかった。
なんで二田さんが門崎さんを見ても怯えないのか。ならこの依頼の意味は何だったのか。
そんな疑問で頭がいっぱいになっていた僕を押し退け、六原さんが前に出る。
「都雄君、目を覚まして!」
その声は泣きそうで、震えている。
それに二田さんは撫でる手を止め、六原さんの方を見る。
「……目を覚ます? 何から?」
そう彼は呆れ顔をする。一体何を言っているのだか、と。嘲るように。
そんな言葉を返されながらも、彼の顔を見て涙腺が緩んだのだろう。六原さんは涙をこらえるように下を向き、言葉を絞り出す。
「もぅ………ミーちゃんはいないんだよ……」
『ミーちゃん』というのは門崎さんの呼び名だろう。
「私だって信じたくなかったし、信じられなかった……」
ファミレスでの彼女の顔を思い出す。目の前で唐突に今までの幸せな日常が轢き潰された。大きなショックを受けたのは、恋人の二田さんだけでは決してなかった。六原さんだって辛かったに決まっている。すぐには立ち直れなかっただろう。
でも、と。
「ずっと後ろを向いてても、何も変わらない!」
そう、彼女は二田さんの方を、そして前を、まっすぐに見る。
僕には『アレ』が何なのか、二田さんの身に何が起こっているのか、まったく見当が付いていない。
陀宮さんの近くにいる僕でさえそれなのに、六原さんは一切理解できていないだろう。
それでも彼女は、彼のためにここまで来たのだ。
その身にある全てを使って。
時間と体力と勇気を振り絞って。
彼のために。
「都雄君、前を向いて!」
彼女は懇願する。
「もし……一人がダメだっていうなら、私が一緒に歩いてあげるから……」
その時、僕は思った。
ああきっと、彼女はこの一言を言うためにここまでやってきたのだろう、と。
「都雄がミーちゃんしか愛せないっていうなら代わりでもいい。ミーちゃんの代わりでも、私頑張るから……頑張って都雄を幸せにするから……絶対するから…………だから……」
止めてほしい。それも彼女の本心だったのだろう。だが本当に、心の底から伝えたかった言葉はきっと、こっちなのだ。
「だから……」
自分の思いを全て伝えきった彼女の涙腺は遂に決壊し、紅潮した頬を雫が伝う。
「……」
それに二田さんはしばらく黙った後、門崎さんを下ろしてゆっくりと立ち上がる。
そして涙を流す彼女の方に歩み寄り、
「―――――――――――――――――――――――――――――――黙れよ。ストーカー」
「……え?」
その唸るような、恨みの籠った一言に、六原さんの表情が凍り付いた。いや、その場の全てが凍ったように感じた。
彼は侮蔑と軽蔑の籠った視線を向けてきびすを返すと再びソファに戻って、
「三葉……愛してるよ……」
『ソレ』と熱い口づけを交わす。
熱く、ねっとりと舌をも入れて。
数十秒間、たっぷりと口内を愛撫する。
それは情熱的というにはほど遠く、ただただ狂気じみていて、僕の生理的な嫌悪感を覚える。
アレは生の死体に近いモノ。
それに触るだけでも気色が悪いのに、口を合わせるなんて……
「うっ―――――――」
全身鳥肌が立ち、胃からはモノが上がってきて、思わず口を押える。見ると六原さんも蒼い顔している。平気なのは陀宮さんぐらいだろう。
「――――やめて……」
弱々しい六原さんの声。
しかしそんな彼女に見せつけるように彼はソレの口を貪る。
ワザとだろう。湿った音が部屋に響く。
「……やめて…………やめてぇ……」
次の瞬間、六原さんはカタカタと歯を鳴らし始める。そして頭を抱え、髪の毛を毟るように掴み、掻き毟り、引張り、
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!」
刹那、その甲高い悲痛の叫びをあげて彼女は駆けだし、二人の……いや、一人と一体の間に入って引き剥がす。
「うわっ!?」
その勢いで二田さんはソファから落ち、『ソレ』はソファの上にぐったりと倒れる。
「っ!」
そしてそのまま六原さんは『ソレ』の首を掴み、思い切り締め上げる。その顔はさっきまでの彼女のものとは思えないほど、怒りと絶望に歪んでいる。
いったい何が起こったのか。そう狼狽している僕を無視して場の状況は進展する。
起き上がった二田さんは打った頭を撫でながら、落ち着いた様子でため息を吐き、
「人形の首を絞めても意味ないのに……」
呆れ顔で立ち上がり、錯乱した六原さんを放置してキッチンの方に向かう。その途中で彼は脚を止め、今度は僕らの方に一度向くと、
「ああ、紅茶が良いですか? それともコーヒーに?」
そう、まるで何事もなかったかの様に訊いてくる。
僕は頭が追い付かず、狼狽えて返答できなかった。
「二人とも紅茶で。最近外ではコーヒーばかりだったからね」
しかし陀宮さんはそう平然と返すと、六原さんのいる方と対面するソファに腰掛ける。そして僕の方を見て、
「ほら、君も腰掛けなよ。それとも立って話すの?」
「え……いや、でも……」
なぜそんなに落ち着いていられるのか。僕たちの目の前では六原さんが未だに悪鬼の如くソレを締め上げている。
「死ね! 死ね! 何で今、今になって! やっと私の、私の番が来たのにいいいいいいッッ!」
「アハハ。かなり狂っちゃったねぇ」
そう陀宮さんはその様子を観賞するように肘掛けに肘を突く。が、目は笑っていない。
紅茶を運んできている二田さんは苦笑いをすると、
「ごめんなさいね。うるさいでしょう? 私も昔から苦労してるの」
「……?」
口調が……変わった?
見ると彼の表情はさっきまでとは違い、どこか……女性っぽく感じられる。
と、紅茶を一端近くの棚の上に置くと、「えーっと」と彼は台所にある棚を見て回り、
「あ、こんなところにあった」
と、棚の中にあったそれを取り出す。それは良くゴマなどをすり潰すときに使われるあの木の棒だ。『すりこぎ』というらしい。
こんなところにあったんだぁ、なんて言いながら、そのすりこぎを持って彼は六原さんのところに行く。その後に何が行われるかは容易に想像できた。が、察知して止めようとする僕を、
「いいから黙って座りなさい」
陀宮さんが手を掴んで止めた。その行動に驚きを隠せなかった。
「何でですか!?」
そう問う僕に、陀宮さんは「いいんだよ」と言い、
「君まで被害に遭うと、余計に話が拗れる」
沸騰しそうなほど熱くなっている僕とは対照的に、彼女は冷たく、人形の様に無機質で硬質な瞳でその状況を見ていた。
そうしている間に二田さんは六原さんの元まで行き、
「よいしょっと!」
躊躇うこと無くすりこぎを振るった。
ゴン、という金属とは違った、鈍く、籠った音。
それと同時に六原さんはまるでスイッチを切られたようにピタリと動きを止め、次の瞬間倒れてソファから落ちた。
そこで陀宮さんは僕の手を離し、
「気絶しただけだから、簡単な止血だけすれば問題ない」
僕はその言葉を聞き終わる前に走り、六原さんのもとに向っていた。
「六原さん! しっかりしてください!」
そう呼びかけるも返事はない。頭を触ると赤い血がべっとりと僕の手に付いた。
「ッ!」
これは本当に気絶しているだけなのだろうか。もしかしたらもう……
そんな不安を振り払い、僕は辺りを見回して止血できそうなものを探す。と、そこに二田さんがタオルを持ってきて、
「これで足りるかな?」
顔は、微笑んでいた。
僕は一瞬沸点が振り切りそうなほど頭に来た。六原さんが手当ての必要がないくらいの軽傷だったなら、きっと僕はこの男に殴りかかっていただろう。
そのタオルを引っ手繰るように受け取ると、彼女を部屋の脇に連れていき、それで頭を縛って止血する。止血方法がこれで本当にあっているかどうかは分からない。だが何もしないよりはずいぶんとマシだろう。
「…………よし」
呼吸はしている。
後はなるべく出血を抑えるために、壁に凭れるようにして彼女を座らせる。ここでこれ以上僕にできることはないだろう。
「ありがとうモリモリ君。終わったならこっちに来て」
僕の様子を見て陀宮さんはそう言う。
「……森近です」
僕は最後にもう一度六原さんの様子を確認した後、陀宮さんの方を向く。今僕の顔はひどく不機嫌だろう。しかし陀宮さんは特に何も言わず、二田さんの持ってきた紅茶を飲む。
「へえ。毒とか疑わないんですね」
二田さんが驚いたように言う。その言葉を聞いて僕は目を見開いたが、陀宮さんはクスリと笑い、
「丁度喉が渇いてたから。美味しいお茶をどうも」
いえいえ、と彼は自分の分の紅茶を飲む。その二人の様子を見ながら僕は恐る恐るソファに座る。
そこで陀宮さんはカップを置き、話を始める。
「さて、ネタバラシをしてくれるかな、門崎三葉? あなた、『人形の体』と『二田都雄の体』を行き来してたでしょ?」
「え……」
驚く僕を放って、話は進む。
「……やっぱり気づいてましたか」
諦めた様に、しかしどこか嬉しそうにため息を吐いた。