終
それは三年前、寛文九(一六六九)年十月二十三日のことである。
松前泰広は、和睦のために集まってきた、主にシャクシャインを中心とするメナシクルアイヌを酒の席に招いた。
このため、松前藩が己らを招いたのは、本当に和睦のためだったと信じてしまったシャクシャインその他十四人の巨魁達を、その宴席を取り仕切っていた蛎崎広林の号令一下、鉄砲を浴びせかけて殺した。松前泰広はさらに、まだシベチャリのチャシで抵抗を続けようとしていたシャクシャインの妻を「征伐」するように命じて、例のごとく蛎崎広林がヨイチ(現余市町)ヘ出かけている。
結果、シャクシャインに組して蜂起したアイヌ軍はほぼ鎮圧。蜂起軍から賠償金を受け取った松前藩は、シャクシャインに組せずに中立していた……言葉は悪いが、日和見を決め込んでいた……石狩や宗谷のアイヌ達にも絶対的服従を誓わせた、いわゆる七か条の起請文出させた、と、『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』に記録されている。
メナシクルアイヌの味方だった和人商人たちの中で、特にシャクシャインの娘婿だった庄太夫は火炙りに、尾張の市座衛門らにもそれぞれ厳しい「処罰」が下されたと聞いて、
(やはり騙し討ちという手を使ったか。確か策を献上したのは、松前家中の佐藤権左衛門とかいう輩だったと聞いたが)
松前から引き上げるべく準備を整えながら、
「アイヌどもの反乱は、当藩のみにて見事収めまいた。各々方も遠路はるばるお疲れにござった。どうぞ気をつけられてお引取りを……」
「乱」の収束の後、東北三藩を松前城広間に集め、厳かにそう言った当主大叔父の顔をも思い浮かべ、
(かの方の顔には、「お前たちの手を借りずに乱を収束させた。貸し借りは無しであるぞ」と、はっきり書いてござった)
かの杉山吉成はこっそりと苦笑したものだ。弘前城内の彼の部屋内には、その時もその机の上にある箱に、庄太夫から届いた最後の手紙が秘められていたのだが。
中には「蝦夷アイヌ王国が実現したなら、杉山様ともぜひもう一度お会いして、弘前藩ともこれまでと変わらぬ取引を……」などと気負った文が書いてある。何度も読み返したので、そらんじてしまった内容を思うにつけ彼は、
(親父のことを尊敬していると、俺に向かってはっきり告げたあの小僧なら、「その時」は意外にサバサバとした心持ちであったかもしれん)
と、火炙りになった庄太夫の最期をも思う。
彼の記憶に中にある庄太夫は、今も少年のままであり、
(騙し討ちのことを、庄太夫に知らせておいたほうが良かったか……)
彼が処刑された後、何度もそのことで悩んでは、
(何、知らせたところで、あの小僧は逃げなかったろうよ)
そう思い返して、苦笑したものだ。
ともかくこれにより、蝦夷のほぼ全土のアイヌが蜂起したこの戦いは一応、収束に向かい始めたように見えた。まだ、どことなく柔軟性、曖昧さを保っていた商場知行制度や場所請負制度は強化されたばかりではなく、アイヌの人々から、彼らが独自に所有していた武器や刃物の類がすっかり奪われたのである。
このことは、和人との交易なしにはアイヌの人々が暮らしていけなくなった、ということを意味する。武器も刃物も、和人との交易において「支給」を許されたものだけ、となれば、これまでのような自給自足など出来ようはずがない。この戦いに参加せず、中立を保っていた石狩の総大将ハウカセの、
「松前殿は松前殿、我等は石狩の大将」
という言葉に象徴されるようなアイヌ民族の自立性は、瞬く間に失われていったのだ。
(庄太夫がこのことを知ったら、「それ見たことか」と言ったかもしれん)
この蜂起の平定で、幕府からはそれぞれ恩賞が下った。戦いの翌年に、報告のため江戸へ戻った松前泰広には、
「日頃からおさおさ怠りなく勤めている」
ということで、黄金二枚と、常陸国真壁郡に五百石の加増が、そして戦いに参加した東北三藩の主だった者にも褒章が与えられている。杉山もむろん、その中の一人であり、
(まあ、喜ぶべきことなのだろうよ)
少々複雑な気持ちで、彼はそう思ったものだ。
だが、良いことばかりではない。あれから三年も経つというのに、蝦夷では未だに蜂起の余波が続いているのだ。そのせいで、最盛期には四百人もいた商人が、七十人に減ってしまった。松前家中でも、藩士やその家族自らが、慣れぬ野良仕事に出ざるを得ぬ羽目に陥った。なんとなれば、「食えぬ」からである。
従って松前藩では、わざわざ江戸藩邸から戦いに慣れているもの百名余りを召還させて、「残党」の鎮圧に力を注ぐ一方で、不公平だったコメと鮭の交換比率をアイヌに幾分か有利なように改正したりもしている。相変わらず、アイヌ達を抑えるのに四苦八苦しているらしいが、東北三藩に再び協力を求めるまでもない、と考えているらしい。
しかしそれも、
(まあ、俺達には関係のないことだ)
どちらにしても、杉山にとっては「別の国の政治」のことだ。
それに、
(もしか、もう一度協力を求められたところで、俺には無理だ)
吉成も、近頃はとみに己の気力が衰えたことを自覚している。もしも出征を要請されても、還暦を越えたせいで、もう蝦夷へ出て行く体力は無い。
老眼が進んだせいで時折かすむ目を、右手で無造作に擦りながら、自室で帳面に走らせていた筆をふと止め、彼は障子を開けた。
(所詮、戦いなどというものは、どうしても勝者が正義になるのか……いや、俺にはやはり良く分からない)
ぼんやりと見上げたかなたの空には、大きな鳥が今日も翼を広げて悠々と舞っている。しばらくそれを見上げていて、ふと彼は我に返った。懐からかの庄太夫の手紙を出して、傍らの蝋燭にかざす。
めらめらと炎を上げて燃えるその手紙は、少しずつ灰になっていった。それは、まるで庄太夫が火炙りになって悶えているような有様を連想させる。だもので吉成は、慌てて頭を振って、その想像を追い出した。
そして、
(蝦夷では、もう雪が見られる頃であろう)
努めて他のことを考えるように努力しながら、長いため息を着いたのである。
同い年のアイヌの英雄、シャクシャインの死に遅れること三年で、この石田三成の孫も亡くなった。イランカラプテ……アイヌの人々の挨拶に込められた意味を彼が知ったのは、その死の直前である。
終