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イランカラプテ  作者: せんのあすむ
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五 前夜

 さて、こちらはウタフが向かった福山城の一室である。


(さても忙しいことだ)


 藩主の矩広はわずか七歳。その代わりに政務を執っていた松前泰広は、


「甚十郎さま、お早くおでましを。シュムクルアイヌが待ちかねておりまするが」


「蔵人、そうつけつけ申すな。分かっている、分かっている。何のアイヌごとき、今しばらく待たせておけというに」


 遠慮なく襖を開け、大声で催促する蠣崎広林に背中を向けたまま、煩そうに答えた。甚十郎、というのは松前泰広の、松前家中での通り名である。


 広林の案内で、シュムクルからウタフがやってきたと聞いても、


(近頃は、金山からも川からも、採れる砂金が少なくなっておるらしい。少々困ったの)


 しかめ面をしながら帳面へ走らせていたが、


「ほれほれ、早う早う。あまり待たせると彼奴ら、何をするか分かりませぬぞ」


「分かった分かった。今参る」


 再びの催促に渋々筆を置き、すっかり凍えてしまった両手を火鉢の上で忙しく擦って、


(毎年の事ながら、蝦夷に春が来るのは遅いのう)


 少し苦笑いをした。


 若い頃のほとんどを江戸で過ごした身である。その「常識」から言えば、福山城内に植わっている桜も、はや散り終えていても良い頃であるのに、


(未だに蕾とはのう。さすがは北の地よ)


 「よっこいしょ」などと己に声をかけながら、泰広は座布団から大儀そうに尻を挙げ、部屋を出る。


 父である松前二代藩主、公広が四十四歳で死に、後を兄の氏広が松前三代藩主として継いだばかりである、というので、弟の自分が兄の名代として江戸城に参勤交代に赴いたのが、今から二十年ほど前の寛永十九(一六四一)年三月下旬のこと。


(あの頃にはもう、江戸城内でも桜は咲き初めておったのだがな)


 江戸城でのことをふと思い出し、泰広は遠い目をした。


 本来ならば、そのまま江戸城詰め小姓組、千俵取りの旗本として、江戸で一生を終えるはずが、


(まさか、こうも跡継ぎが次々亡うなるとは思いも寄らなんだ)


 参勤交代で江戸藩邸に滞在中、たった二十七歳の若さで国許の兄は急死したのである。彼が松前藩の後を継いで、わずか七年後の慶安元(一六四八)年八月二十五日のことだ。


 後に残された兄の子、高広がいたので急遽、これを跡継ぎとして立て、泰広が後見になったが、これも十七年後、二十三歳の若さで亡くなってしまった。


 幸い、高広にも幼少ではあるが実子の矩広を残しているので、これを跡継ぎつまり松前藩四代目として立てることができたが、


「これ、蔵人。おぬしら、もう良い加減に俺を解放してくれぬか」


 矩広からしてみれば、自分は「大叔父」であるし、もはや父公広が亡くなった年に自分も達している。だもので、


「俺の隠居小屋ははて、蝦夷の何処に建設すれば良いものかな」


 前を歩く蠣崎広林に冗談交じりに言うと、


「いやさ、蝦夷はまだまだアイヌどもが大きな顔をしてのさばっておる。兄君が鎮圧に苦労なさったあの、ヘナウケの反乱をよもやお忘れではありますまい。何処に隠居召されたところで、物騒なことには変わりございませぬよ」


 広林は薄い頭をテラテラと光らせながら振り向いて、


「もしも甚十郎様が隠居なさりたいならば、貴方様ご自身で、蝦夷全土のアイヌを大人しくさせられませ」


 と、これまた親しみの混じった揶揄を込めて、笑い返してくるのだ。


「やれやれ、それではいつになったらお役御免になるものか、皆目分からぬな」


 広林と豪快に笑い合いながら、


(そうだ。俺はあの時十八歳だった。アイヌどもの牙を全て抜いてしまわねば、松前藩の安泰はない、ゆえに俺は隠居なぞせんと心に誓った)


 泰広は、かつて江戸松前藩邸で、兄氏広とともに「蝦夷のヘナウケが蜂起した」という報せを受け取った時のことを思い出していたのである。


 時に寛永十三年(一六四三)年。オニビシがカモクタインを殺害する、実に五年前のことである。その折、氏広は一族の蛎崎利広をセタナイヘ派遣して、一応鎮圧させてはいる。しかし、その後わずか五年で氏広が死んだことを思うと、


(大人しく我らに従っていれば良いものを、アイヌどもが余計な反抗心を起こしたからだ)


 十八歳という若い折に感じた憤りが、二十年以上の時を経てもその都度、泰広の胸に蘇ってくるのである。


 もちろん、兄氏広が死んだのはヘナウケの「反乱」が鎮圧された後、国元の様子を見に行って、再び江戸へ戻ってきてからのことなのだが、


(アイヌの反乱で心を煩わされることが無ければ、兄は死ななかった)


 彼は頑なにそう思い込んだ。兄が若くして死なねばならぬ羽目になった、その遠因が本当は何処にあるのか考えもしない支配者独特の意識と言っていい。また、感受性の強い若い折に己が感じたことを覆せぬのが、人というものである。しかも兄とは至極仲が良かったということもあって、泰広はその思い込みを未だに引きずっているというわけなのだ。


 その蘇った憤りを胸に抱いたまま、


「お前がシュムクルのウタフとやらか」


 オニビシの姉婿、ウタフに会った泰広の心中は果たして平静であったかどうか。


 実際、そのヘナウケの反乱を皮切りに、対松前藩の小競り合いばかりではなく、蝦夷のあちらこちらでアイヌ同士の争いが起きて、その都度松前藩が引き合いに出される、という事態になっているのだから、


(甚だ迷惑である)


 繰り返すが、もともと蝦夷全土の支配を目論見ていたのは、松前藩の方だったはずなのだ。


 しかし、


(こうも次から次へと厄介ごとが起きては、俺の心も保たぬ)


 藩政を一手に担っている泰広が、そう思ってしまうのも、これも人の常として無理もないところであろう。それやこれやの感情が、


「して、我等が松前藩に、お前たちアイヌが何の用か。我等が今、お前たちごときに構っておられぬほど忙しいのを知ってのことか」


 血と泥に汚れた鉢巻を締め、同じような有様の着物アットゥシアミブを着たウタフと、それに従っている数人のアイヌを見て、つい爆発してしまった。


 側にいて、通訳をしている広林が、驚いたように泰広を見ている。


 泰広にしてみれば、丁寧に掃き清められた畳に、


(薄汚れたアイヌ…)


 日頃から軽蔑している異民族が座っている、ということだけでも我慢がならぬのだ。しかも、不遜に胡坐を掻いた彼らアイヌ達の前には、あろうことか来客があった時のための高価な漆器が据えられ、その中には喰い散らかされた茶菓子が載っているのさえ見える。


(これは蔵人が指図か。余計なことを)


 泰広自身にとって、アイヌたちは招かれざる客であることは間違いないし、そのことは蛎崎広林も知っているはずであろうのに、


(アイヌごときに媚びる必要は無い。広林めが)


「用があるなら申せ。そして疾く失せろ」


 思って続けた泰広の言葉は、彼自身もぞっとするほどに冷たい響きを含んでいた。


 城主の謁見部屋にしつらえられた上段からの、何とも尊大な物言いである。ウタフがあからさまにムッとした表情をしたのも、最もであろう。


 しかし、それでも、


(オニビシが殺されてしまった今、俺だけではシュムクルの奴らに太刀打ちできぬ。非情に癪だが、松前藩のシサムに頭を下げるしかない)


 己に言い聞かせ、怒りを押し殺した声で、


「我らシュムクルと、メナシクルの争いはお聞き及びのことと思う」


 ウタフはそう切り出したのである。


 静内川上流、自分たちのハエのチャシ(砦)が、シャクシャイン率いるメナシクルアイヌたちの「卑怯な奇襲」を受けて、


「我等が首領、オニビシは死にました」


 と、胡坐を掻いている両膝を、それぞれの手で血が出んばかりに握り締めながら、


「我らシュムクルアイヌは、これまであなた方松前藩に逆らったことはないし、あなた方の言うままの物を納めている。よって、シュムクルの奴らに正義の槌を振り下ろすために、ぜひともあなた方の力をお借りしたい。なにとぞ我らに、奴らを懲らしめられるだけの武器を貸して頂きたい」


 言い終えて、彼は頭を下げた。


 その拍子に、薄汚れ、乱れたウタフの髪から泥がバラバラと畳に散らばって、


「…お前らごときに貸す力など無い!」


 泰広はそれを見ながら怒鳴った。


「なんと、甚十郎様」


「先だっても我らは、お前達が手前勝手に起こした諍いで、仲裁の労を取らされている。それを忘れたか」


 驚いて彼を見つめ、その名を呼ぶ蛎崎広林を一瞥もせず、泰広は続けて、


「その時、貴様らは互いに恨みを忘れて仲良うすることを誓ったのであろう。それがまたしても攻められた、攻められて長を殺された、となれば、それは貴様ら自身の不徳の致すところであろうが。従って、我らには知らぬこと。争うなら勝手にせよ!」


 この言い分を、もしも両者に何の関わりも無い第三者が聞いていたなら、その者でさえも何ともいえぬ思いを味わったに違いない。


 ともかく、この松前泰広が言い放った言葉は、ウタフを激怒させるには十分で、


「そうか、ならば頼まぬ! 恩知らずや不徳の者は、一体どちらだというのだ」


 ウタフはその捨て台詞を吐き、彼についてきたアイヌ達を促しながら、足音も荒く広間を出て行った。


「よろしいのでござりましょうや」


 やがて沈黙を破って、蛎崎広林はため息と共に泰広を振り返る。


「奴ら、怒り狂うと何をしでかすか」


「…構わん。もしも我ら松前藩に報復してきたとしても、その時には俺が何とかしてやる」


 内心では己自身に苦笑しながら、泰広は言って立ち上がった。


 後ろ手で乱暴に襖を閉め、己の部屋近くへ戻ってきて、


(…咲いた。だが)


 ようやくそこで、彼は先ほどは蕾だった桜が二、三、ほころんでいるのを見つけたのだが、


(どうでもよいわ。これよりはアイヌへの対策をも同時に練らねばならん。まことに忙しいことよ)


 どうやら彼の脳裏からは、桜のことなぞ、どこかへ吹き飛んでしまったらしい。いかにも腹ただしげに、自室の襖をぴしゃりと閉め、松前泰広は再び筆をとって帳面と睨みあったのである。




 さて、こちらは松前藩から協力を拒否され、そうそうにハエへ帰ることにしたウタフ一行である。


 これから日高の商場へ行く、という両浜組の商船に乗せてもらいながら、


「やはり、最初からシサムなどを当てにするのではなかったのだ」


「奴の態度を見たか。明らかに我らを見下していた」


 静内川へ戻る道中、船底の一室で、松前藩への恨み言は尽きなかった。


 ウタフを含む彼らシュムクルアイヌの見送りを、蛎崎広林がしり込みして拒否したのは、ある意味正解だったかもしれない。


「あのまま松前泰広とやら蛎崎広林とやらに、毒槍でも打ち込んでやれば良かった」


「武器を持っていかなかったのは、何とも不手際だった。八つ裂きにしても飽きたらぬ」


 同船している「下っ端」の松前藩士やシサム商人に、どうせアイヌ語は分からぬのだからと、大きな声で松前藩の不実を罵り合っていたのだから、もしも同行していたら、当初、日高の商場まで彼らを送るつもりだった広林がどうなっていたか、想像に難くない。


 いかさま、蛎崎広林にしてもウタフにしても、


「松前藩は必ずシュムクルアイヌに味方するもの…」


 そう思いこんでいたのだから、松前泰広の言葉に広林が驚いたのはまだしも、普段から、


「松前藩は我らアイヌを低く見ている」


 との自覚はあっても、やはり心の中では幾分かの期待をしていたシュムクルアイヌの落胆と怒りは、期待していた分、広林よりさらに大きかったろう。


 しかし、松前藩士が圧倒的に多い福山城下や船の中では多勢に無勢。こうして松前藩の不実と自分たちに対する蔑視へ、互いに思うさま憤懣をぶちまけながらも、


「ともかく、かくなる上は一刻も早くハエのチャシへ戻ることだ。俺さえ生きていれば、何とでも巻き返しは効く。森の中へ誘い込んで、奴らの勢力を分散させるのだ」


 このような計画を立てて、同行のアイヌ達を奮い立たせたのは、さすが副部族長であると言えよう。


 ウタフの言っているところは、要するにゲリラ戦である。静内川上流に広がる原生林を利用しての戦いを思いついたのは、その付近に拠点を持つ者ならではである。


「松前藩の奴らに一泡吹かせてくれるのは、それからだ。どんなに急いでも、ハエまで七日はかかるのが口惜しいが、その間に……」


 というわけで、春の嵐に翻弄されて荒い海の波に揉まれる船の中、ウタフは配下のアイヌ達と額を集め、向後のことを相談していたのだが、


「暖かくなった気候のせいか、何やら体が熱い」


 ウタフがそう言い出したのが、福山城を出てわずか数日後のこと。そしてそのまま高熱を出し、ウタフは船の中で寝込む羽目になった。


 それを皮切りに、同行していたアイヌ達が似たようなことを言い出して、その翌日には、


「お前の顔に、赤くて小さな腫れ物ができているぞ」


 互いに互いの顔を指しながら、そういったことを言い合う次第となったのである。


 おかしなことに、同船していた松前藩士および両浜組の者達に、その症状が現れたという記録は残っていない。とするとやはりこの「病気」は、当時その船に乗っていたアイヌの人々だけが罹患した、というべきであろう。


 松前藩関係の人間が罹患しなかったのは、現代医学の観点からすると免疫を持っていた、ということになるのかもしれないが、


「ひょっとすると、俺達は松前藩の奴らに毒を盛られたのではないか」


 当然ながら、現代よりおよそ四百年前、医学の発達していない所謂「僻地」でのことである。それにそもそも双方には、利害関係はあるものの、信用というものは元から存在していないから、シュムクルアイヌの人々がそう考えたとしても、あながち短絡な思考とは言い切れぬ。


 かくして、


「俺達が飲み食いした茶菓子に毒が入っていたのだ」


「俺達は松前藩の奴らに毒を盛られたのだ」


 わだかまりと偏見からくる思い込みが、とうとう「事実」となってしまった。


「俺達を人間とも思っていない松前藩の奴らなら、それくらいやりかねない。悔しい」


 繰り返し「悔しい」と口にしながら、ウタフがついに亡くなったのが、船がちょうど新冠川の河口に到着する頃あたりではなかったか。まさに「あっという間」の出来事である。


 同行していた他のシュムクルアイヌで、辛うじて命をとりとめた人々も、


「俺とお前は茶菓子に口をつけなかった。だから生き延びたのだ。あの茶菓子に毒が入っていたに違いない」


「復讐してやりたかったが、俺達だけでは無理だった。悔しい」


 と、大声で言い言い静内川を上って行ったのだから、彼らがハエのチャシに戻ってきたのだから、もうその頃には「助けを求めに行ったアイヌ達に、松前藩のシサムが毒を盛った」という話は日高中に広まってしまっていたと言っていいだろう。


「毒を盛られたのだ。その証拠に、同船していた松前藩の奴らは、死んだウタフ達に手も触れなかった」


「あの赤い吹き出物に触れたら、自分もそうなると分かっていたからだ」


 直接触れぬよう、アットゥシに包んだ仲間達の遺体を担ぐアイヌ達の息も、相当に苦しそうである。


 ともかくも、「生きて戻ってきた」彼らから、彼らが見聞きした「事実」を聞かされて、シュムクルアイヌたちは、松前藩の態度に怒り狂うと同時に、


「これから俺達はどうすればいいのだ」


 オニビシが殺され、ウタフも味方してくれると思っていた松前藩に「謀殺」されてしまって、途方に暮れた。


 シュムクル側には、これら二人以外、特に見るべき人物がいない。なるほど、オニビシの姉も勇猛ではある。しかしやはりそこは女であるから、弟に続いて夫も亡くしたことをただ嘆き、怒り狂うのみで平静さを失ってしまっているし、というわけで、こんな時には物の役にも立たない。


 メナシクル側も、奇襲に成功したとはいえ、やはりかなりの犠牲を出してしまっていた。よって部族長であるシャクシャインは、今はやむなくメナシクルに引き上げて、事態を静観しているらしい。そのことのみはシュムクル側にとって、不幸中の幸いとも言える。しかしウタフまでもが死んだとなれば、それこそ「好機至れり」とばかりに勢いに乗って攻めて来るに違いない。


 そんなこんなで、


「ここは悔しいが、敵であるシャクシャインを頼るより他ない。アイヌ同士で争っている場合ではないのだ。長年の恨みはもう忘れるべきだ。元はといえば、同じアイヌなのだし、何よりシャクシャインは松前藩を憎んでいると聞いている」


 奇妙なことに、好戦的であったはずのシュムクルアイヌ側からそんな意見が出た。アイヌの人々の根底にある「松前藩憎し」という共通意識がそうさせたのだろう。


 このことは彼らに、


「押し付けてくる無理を、多少の不満はあっても受け入れていた我らを裏切った」


 松前藩にとって、シュムクルもメナシクルも、所詮は「同じアイヌ」なのである、という厳然たる事実を突きつけた。くどいようだが所詮は、


(やはり松前藩は、アイヌの人々を己と対等な立場であると思っていない)


 そういうことだったのだ、と、松前藩の、というよりも異民族に対する和人の考え方を、再認識させたということに他ならない。


「やはり松前藩はだめだ。シサムはシサムだ。そもそも俺達の敵だったのだ。頼るほうが間違っていた」


「同じアイヌ同士だ。オニビシよりも好戦的ではなかったシャクシャインになら、話せばきっと分かる」


 もともとシュムクル側コタンの全てが、好戦的なオニビシを好いていたわけではない。そんな者たちも集まって今後のことを話し合っているうち、


「シャクシャインなら、きっと分かってくれる。彼には武力も勇猛もある。東の者達からも密かに支持を受けているから、我々が味方すれば松前藩に一泡吹かせることも可能ではないか」


 メナシクルへの積年の恨みよりも松前藩への怒りのほうが上回り、さらにはそれがシャクシャインへの期待に摩り替わってしまった。


「奇妙なことになりましたな」


 さても、さすがに松前藩もシュムクル側に味方して、藩士の一小隊くらいは彼らにつけるか、あるいは最新式の種子島を貸すか、といった最悪の場合のことまで考えていた市座衛門や庄太夫は、


(まあ、これもある程度予測されたことではあったが)


 と思いながら、


「どうなさいます?」


 シュムクルアイヌ達を前に、苦笑を浮かべてシャクシャインを仰ぐことになった。


 シュムクルコタンからやってきたその使いは、川上から「我々はもうお前達の敵ではない、よって攻撃しないで欲しい」と言い言い、静内川を下ってきた。シベチャリのチャシへ近づくや否や、警戒していたメナシクルアイヌ達にたちまち捉えられたわけだが、


「見ろ、我々は武器を持ってきていない。お前たちに報復するために来たのではない。協力を求めに来たのだ。場合によっては、お前たちに服従を誓ってもいい」


 その口から漏れた意外な言葉に、敵意をむき出しにして彼らを迎えたメナシクルアイヌたちは、さぞかし困惑したことだろう。


 ともかくもシャクシャインへ報告を、しかし油断はならぬからということで、一応はがんじがらめにその使い達を縄で縛り、砦で次の攻撃の準備をしていたシャクシャインの元へ引っ張っていくと、


「我らの副部族長は、松前藩に毒を盛られた。ここは一つ、積年の恨みを忘れて松前藩への報復に力を貸して欲しい」


「松前藩が毒を盛ったというのは嘘ではない。嘘だと思うなら、松前藩から戻ってきたウタフと我らの仲間の遺体がまだそのままにしてあるから、貴方の目で見て欲しい」


 彼らはシャクシャインの姿をそこに見るや否や、口々に言い募り、彼に向かって神妙に頭を下げたのである。


(さて、真実か否か。見たところ、嘘ではなさそうだが)


 たちまち静まり返った砦の一室で、同じように父の側にいたカンリリカと並びながら、庄太夫は唾を飲み込んで両者の様子を交互に伺い、


(もしもこれが偽りであるなら、ウタフも相当な詐術師だ)


 そう思った。


 シュムクルアイヌにこういったことを入れ知恵しそうなのは、言わずと知れた彼らの相談役、砂金掘の文四郎である。しかし、当の彼は、シャクシャインがその屋敷を急襲したあの晩から行方知れずであるというから、


(まことに失礼なことだが、シュムクルアイヌ達だけで、このような「手の込んだ」謀略を考え付くとは到底思えない)


 頭を下げたまま、神妙にシャクシャインの言葉を待っているシュムクルアイヌ達の様子を見ても、嘘であるとは考えがたいのである。


 熊の敷物の上で胡坐を掻いているシャクシャインもまた、不機嫌そうにむっつりと唇を結び、腕組みをして目を閉じたきり、何も言わない。今回の出来事は、言うなれば両者それぞれにとって、まさに予想外のことであったから、


(迷っているのだ)


 庄太夫が時折そっと隣のカンリリカの顔を伺うと、彼もまた、まるで見計らったかのように同時に自分の顔を見返してくる。気まずい思いで義兄と微苦笑を交し合った庄太夫の鼻に、明かり取りに使っているラッコの油の焦げる匂いが強く漂ってきた。


 それはつまり、


(そろそろ油が切れる)


 ということで、


(明かりが消えてしまうのではないか…)


 庄太夫がふと、この場とはまるで関係の無いことを思った時、


「そやつらの縄を切ってやれ」


 シャクシャインの声が、響いた。それを聞いて、シュムクルアイヌ達の顔は輝き、逆にメナシクルアイヌ達の顔は訝しげに歪む。


「聞こえないか。そやつらの縄を切れ」


 シャクシャインが胡坐を解き、おもむろに立ち上がりながら繰り返すと、メナシクルの者達は不承不承マキリを手に取り、シュムクルアイヌ達の縄を切った。


 それにやや遅れて、カンリリカがはっとしたように腰を浮かせかける。それをシャクシャインは鋭い眼差しで持って抑え、


「俺をハエへ案内しろ」


 短くそれだけを告げつつ、壁にかけてあった弓を無造作に取って外へ出て行ったのである。


 その後を、弾かれたように立ち上がった皆が追う。


「危険ではありませんか。彼らが言ったことがもしも嘘であったら」


 同様に、急いで部族長の後を追いかけた庄太夫が、年老いて尚、広くがっしりとしたその背中に問うと、


「危険ではない」


 短い答えを返しながら、シャクシャインはかすかに笑って娘婿を振り向いた。


「奴らは俺達に服従を誓ってもいい、と言ってきた。余程のことだと思う」


「……はい」


 ある程度予測していた答えに納得して、庄太夫は頷いた。


 蝦夷に住むアイヌの人々は、大自然の神々と共に生きる、誇り高い民族である。くどいようだが、言葉を伝えるために文字を作る、ということをしなかった、それだけのために、和人などから、


「知恵の無い民族」


 などと見下された。しかしそれはただ単にアイヌの人々が「言葉を文字で表す必要を認めない」という習慣を持っているからに過ぎない。


「我らには自然と共に培ってきた、深い生活の知恵がある。れっきとした文化をなす一民族である」


 それはただの見栄やハッタリなどではなく、事実なのだ。遠くは原始から続く素朴な生活を、時代が数百年下ってもほぼ変えることなくずっと守り続けてきたのも、北の地に住む、「神と共に暮らす民族」としての誇りからであり、


(その誇りを捨ててまで、長年敵対してきた種族に助けを求めるからには、余程のことだと、シャクシャインは言いたかったのだろう)


 そんな風に考えながら、大股で歩くシャクシャインの後を、庄太夫は息を切らせながらついていった。シャクシャインの両隣をそれぞれ占めて歩きながら、


「親父。また戦いになるのではないか」


 納得した庄太夫とは対照的に、カンリリカは心配そうに話しかけている。普段は「俺の親父は戦いばかりをしている」と批判的な目で見ていても、やはりそこは親子で、


「親父を殺すための罠かもしれない」


 と、カンリリカはシャクシャインのアミブの袖を引くのである。


「大丈夫だ。もとはといえば同じアイヌだ。奴らもやっと、俺達の本来の敵が誰であるのか悟った。そういうことだ」


 息子の肩を二つ叩きながら言う、シャクシャインの額が、いつの間にか登ってきていた春の朝日に照り映えている。そこに浮いている染みを見つめながら、


(今日も一日が始まった。長い長い一日が)


 庄太夫は顔を引き締めた。


(果たして蝦夷アイヌ王国を創り上げられるかどうかが、これで決まる)


 思いながら、コタンの外れまでシャクシャイン親子を見送って、


「では、手前はこれで」


 商人である自分がついていっても何にもならぬから、というので、シャクシャイン父子と別れ、彼はメナシクルコタンへと引き返した。


 庄太夫の姿を認めるや否や、残っていたアイヌの若者達が彼に意見を求めに群がってくるのを、


「今の時点では、俺からは何も言えぬから」


 と追い払いつつ、


「市座小父」


 シャクシャインの小屋の戸口にかかっている筵を跳ね除けて声をかけると、白髪頭がゆっくりと振り返る。


「いよいよ動き出します、アイヌ達が。ひょっとすると以前にお話した蝦夷アイヌ王国が成るかもしれません。よってそのために、これからも市座小父のご協力を」


「お前は」


 胸に抱いていた「計画」を話そうと、興奮しつつ膝を寄せた庄太夫を遮って、


「シャクシャイン殿が、お前と同じことを考えていると思っているのか」


「そうではないと? まさか」


 市座衛門の言葉に、


(市座小父は、ここにきて怖気づいたのか)


 むしろ驚いて庄太夫はその目を見つめた。


「今のアイヌの人々は、交易に名を借りた松前藩、つまり和人の『支配』を甘んじて受けている。アイヌと和人、両者が対等な立場として認め合うには、アイヌの人々による王国を作るしかないではありませんか。違いますか」


 熱を持って語る庄太夫の口元を、市座衛門はじっと見つめたきり、何も言わない。よって庄太夫は、


「きっとシャクシャイン殿も、同じとは言わぬまでも、似たことを考えているはずなのです。松前藩に勝てぬまでも、彼らと同等の力があることを示せば、対等な立場に立てる。事実上の被支配者という立場から脱却できる。シャクシャイン殿にはその力がある。他のコタンに住んでいるアイヌの人々にとっても、それは願ったり叶ったりのはずです」


 唾を飛ばして言いながら、焦れてますます膝を寄せたと思うと、


「どこへ行く?」


「シャクシャイン殿らの後を追います」


 庄太夫は突然立ち上がった。


 背後で市座衛門が大きく吐息をつく音を聞きながら外に出ると、待ち構えていたらしいアイヌたちが再び彼を取り囲んだが、


「心配ならば、俺も後を追うから。今から長の後を追うつもりだから。大丈夫、今回は戦いにはならぬはずだ」


 と微苦笑でもって言い言い、庄太夫は彼らを掻き分け掻き分け、コタンから外へ出た。彼自身も、シュムクル側の言ってきたことは今はもう、


「嘘ではない」


 と思っているし、なによりも、


(小父は、どうやら違う考えを持っているらしい)


 市座衛門の連れてきた護衛と共に、静内川上流を指して歩きながら、


(シャクシャイン殿もまた、俺とは違う考えを持っているとは、どういうことだ。市座小父は俺の夢に協力してくれぬつもりか)


 彼はそのことを不満にも思い、不思議にも思って首を傾げているのだ。


 松前藩が蝦夷に住む先住民族アイヌを事実上、「支配」していることは誰の目にも明らかであるし、アイヌの人々もそのことに深い憤りを感じているはずなのである。幼い頃からそれを見ている庄太夫は、だからこそ、


(俺が誰よりも一番、アイヌの理解者である)


 そんな風に、傲慢であると言われれば傲慢ではある考えを抱き、そしてメナシクルの長であり、全蝦夷では一番の実力者であるところのシャクシャインもまた、


(いつかはきっと、蝦夷にアイヌだけの世界を築きたいと思っているはずなのだ)


 というように「確信」していたのである。


 そうなれば、


(やはり傍観者になっているわけにはいかない)


 のである。


 思い直してシャクシャインたちの後を追う庄太夫の耳元に吹く夜風は、皐月とはいえ未だに冷たい。しかし不惑の年にはまだ間がある彼の心は、火に油を注いだように熱かった。




(これは違うだろう)


 静内川上流、シュムクル系統のとあるコタンにある小屋である。シャクシャインによって、散り散りになってしまったオニビシの血縁の者達は、複雑な表情で彼を迎えた。


 下流にあるメナシクルのチャシよりも、気温はさらに数段低い。その遺体を見せられたシャクシャインは、肌寒さに思わずアミブの前を書き合わせながら、


(ウタフは毒を盛られたのではない)


 即座にそう思った。


「これに触れたか」


 尋ねると、シュムクルアイヌたちは「とんでもない」と即座に首を振る。触れたら自分も同じ目に遭うと硬く信じているようで、


(それは間違いないが)


 シャクシャインもその態度に苦笑しながら、幾重にもアットゥシが巻きつけてあるウタフの遺体を見下ろし、その布の端を右手の人差し指と親指で少し摘んだ。


 同時に、息を詰めて彼の様子を見守っていたシュムクルアイヌ達が一斉に仰け反る。カンリリカも同様な態度を示すのへ、


「大丈夫だ。伝染する『毒』ではない」


 再び苦笑しながら、シャクシャインは言った。


(そうだ、これは毒ではない)


 そして心の中で一人頷きながら、


(こいつは、果たしてこんな顔をしていたか)


 赤い斑点の浮き出たウタフの顔を、そこから生前の面影を探すようにとっくりと見やる。


 そして今、横たえられたウタフの頭の右横にいるウタフの妻もまた、


「貴方もやはり、ウタフは毒を盛られたと思うのか。だとしたら、これほど悔しいことはない」


 その猛々しさをすっかり気弱さに変えてしまったように、シャクシャインへ訴え、涙ぐむ。夫が殺されたということで、目の前にいる人間が、ついこの間まで敵だったということを忘れてしまったようだ。


「……文四郎は」


 その側に、いつもの相談役の姿が無いことに気付いて、シャクシャインは彼女へ尋ねた。オニビシを討ち果たしたあの夜、


(確か文四郎は行方知れずになったはずだが)


 どうやらどさくさに紛れて逃げたらしい。


 メナシクルアイヌの若者達に命じて、どんなに探させてもその姿が見えなかったので、てっきりシュムクルの本拠地であるハエのほうへ向かったもの、と思いこんでいたのだが、


「知らぬ。あんな者のことなど、もうどうでも良い。捨て置いていい」


 オニビシの姉は、吐き捨てるように言って、激しく首を振る。


(これも嘘ではない)


 その様子を見て、シャクシャインは思わず苦笑した。属している部族の命運が危うくなったと見るや、己だけさっさと逃げてしまう相談役など、確かに必要ではない。


(まこと、奇妙な縁よ)


 思えばオニビシともウタフとも、そしてこのオニビシの姉とも、会う時は必ず戦いの時でしかなかったのである。互いに互いの顔をじっくり見たことなど、八年前の松前藩が催した名ばかりの和睦の場でしかない。


(こんな形で話し合う時がくるとは思わなかった)


 シャクシャインの胸にあったのは、敵がいなくなったという悲しみとも安堵ともつかぬ、何とも形容のしがたい感慨である。


 彼が思わず大きくため息を着くと、部屋の松明も同時に揺らいだ。


 シュムクルとメナシクル、両アイヌ民族が、敵対していたことを互いにすっかり忘れて、どうなることかと顔を見合わせていた時、


「メナシクル相談役、庄太夫です。通してください」


 庄太夫の声が響いて、静まり返っていた砦はざわめいた。


「来たのか」


 苦笑するシャクシャインの側へ、彼の娘婿はどっかりと腰を下ろして、


「……これは、『毒』を盛られたのですか」


 アイヌ語で尋ねてくる。もちろん、そこには微妙な声のかげりがあって、


「そうだ」


 シャクシャインもまた、独特な意味を込めて庄太夫に頷いた。その一言で、息を潜めてシャクシャインの様子を見守っていたアイヌ達は、一斉にざわめきだす。


(これは、俺の母親もやられたバイカイ・カムイ(疱瘡)だ。だが)


 そのざわめきを、いささか煩わしく感じながら、


「お前の夫は毒殺された。同行した者もウタフ同様、毒を盛られたのだ」


 彼はオニビシの姉と庄太夫、二人に向かって頷いた。


 シュムクルアイヌたちの言葉が、これによって嘘ではなかったと分かった。よって、


(この状況を利用させてもらう)


 聡いシャクシャインは即座に思った。だから、


「これは、まちがいなく毒だ。ウタフは、松前藩のシサムらに毒を盛られたのだ」


 シャクシャインは、その場にいたアイヌ達全員の方へ向き直り、彼らの視線を己の口元に感じながら、三度そう断言したのである。


 すでにシュムクルアイヌの中では「松前藩がウタフに毒を盛った」ということが、半ば事実として認識されていたらしい。しかしさらにシャクシャインが、いわば駄目押しをすることで、ウタフの死因が毒殺であることがついに確定されてしまった。


 なるほど、確かに一応は助けを求めに行ったとはいっても、もともとアイヌ達が、シサムを心から信頼しているわけではないのだ。そこへもってきて、これらの出来事…松前藩にとってはある意味、不幸なタイミングといえるかもしれないが…が起きたのである。日頃から低く見られていることへの不満が、メナシクル部族への憎しみを上回って爆発したのだろう。


(ご苦労だった。安らかに眠れ)


 長年の敵の顔を、労わりを持って見つめるシャクシャインの袖を、


「親父どの、いえ、族長」


 庄太夫が引いた。見ると松明の炎を映した彼の眼が、きらりと光っている。


(この機会を逃してはなりません)


 庄太夫の無言の訴えは、シャクシャインにも確かに届いた。


(アイヌを一つにまとめる良い機会だ)


 娘婿へ苦笑しながら頷いて、


 シャクシャインは立ち上がり、


「松前藩は、誠意を尽くしてきた我々に、毒を盛って帰すことで答えた。なんの、奴らに真心なぞあるものか。これでお前たちもようく分かったろう。奴らは、我々を利用しているだけなのだ。奴らは我々のことを、良くて扱い易い人夫くらいにしか考えていない」


 熱を込めて言い切って、彼を見上げているアイヌ達をぐるりと見回した。シャクシャインの顔が赤いのは、傍らで燃えている松明に照らされているためばかりではあるまい。


「蝦夷全土のアイヌ達に伝えろ。今こそ武器を取って立ち上がる時だと」


 彼が宣言すると、小屋の中に瞬時に熱気がこもって、たちまち凄まじい喚声が小屋全体を揺るがした。



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