四 偽りの和睦
こうして、ともかくもシュムクルアイヌとメナシクルアイヌの間に、「和睦」が結ばれることになった。両者は松前藩の主催により、静内川のほぼ中間にある砂浜で酒宴を張ることになったのだが、
(こうなるともう、誰にも両部族の諍いの原因は分からないに違いない)
メナシクル側の和人としてその席に連なりながら、松前藩の家の者が注ぐ酒を杯で受けつつ、庄太夫は妙に冷静にその様子を見ていた。
垂れ幕を張り巡らせた酒宴の場の正面にあるのは、明らかに急ごしらえの幣棚である。その左右にそれぞれ、二つの部族は座を占めた。
庄太夫にとっては、ほほ全員が初対面となるわけで、
(これがオニビシか)
シャクシャインの前に座っている、髪や髭に白いものがちらほらと混じっている初老の男が、恐らくそうであろう。
シャクシャインの大きな瞳が放つ、まるで炎が激しく燃えるような光を、彼は轟然と胸を反らして受けた。酷薄そうな薄い唇の両端をわずかに上げながら、これも表面上は穏やかに、松前藩士の傾ける酒瓶を漆塗りの杯に受けて、シャクシャインから目をそらさずに一気に飲み干す。
「これにて両部族、お手うちと相成る」
松前藩当主の縁故家老であり、国縫に城を構えていた蠣崎広林がおごそかに言って、
(しかしこれはまた何とも)
そちらを見、庄太夫は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
まだ年齢的には若いのだろうが、頭には申し訳程度の髷、肉の薄い肩で猫背に矮躯という、何とも「ぱっとしない」風采の上がらぬ中年男である。
この席に案内されて、正面に彼が座っているのを見た時には、
(藩の下っ端役人が、傲慢なものだ)
などと思ったものだ。
しかし彼が、
「争いごとを控え、仲良うやるように」
正面の席から退こうとせず、さらには左右に並んだ席の中央へ、袴を捌きながらやってきて告げた時には、(これが国縫の家老か)と、思わず目を見張った。
本来ならばここで賑やかに酒宴、となったのであろうが、両者とも一言も発せぬまま、異様な雰囲気で和睦の儀式は進んでいる、といった有様である。
特にオニビシの、
「俺達が情けを施してやったのだ。俺達があそこで引いてやらなければ、お前達など今頃は存在しなかったのだ」
そう言わんばかりの目つきと態度は、和人である庄太夫の心にさえ怒りを覚えさせるに十分で、しかし一方では、
(一体、両部族は何故戦っていたのだ。何十年にも渡って戦わねばならなかったのは、単に生活がかかっている、本当にそれだけのためなのか)
心の中で首をかしげている庄太夫自身もいる。
(こうなると、もはや意地ではないか。憎しみだけが先行してしまった結果がこれなのだ)
敢えて原因を求めるとするなら、
「そっちが少しでも譲歩していたなら、こちらとて攻撃はしなかったものを」
などといった、もはや子供じみた意地でしかなかろう。
庄太夫の見る限り、一つだけはっきりしているのは、
(いずれにせよ、シャクシャイン殿は、このままでは納まるまい)
ということだった。
見たところ、シャクシャインは言うまでもなく、オニビシとその隣に…これがおそらくオニビシの姉なのであろうが…当たり前のような顔をして座っている女性、そして、その女性の次に座っている男も、
「とことんまで相手を凹ませなければ気に食わぬ…」
型の人間のように思える。
酒宴とは言いながら、両者ともむっつりと黙ったままで、
「いや、めでたいめでたい。これで幾十年にも渡る両部族のわだかまりも消え、我ら、骨を折った甲斐があったと申すもの」
やたらとめでたがっている蠣崎広林の声が、何ともそらぞらしく響くだけである。めでたいとは言い条、
(なんという恩着せがましさ)
思わず手にした杯へ目を落とし、庄太夫は苦笑いしてしまった。改めて記すまでも無いことながら、蠣崎広林の声には、「松前藩の恩を思え」という匂いがプンプンと漂ってくる。
そんな異様な空気の中で注がれる酒の味は、いつしか分からなくなっていた。それでも注がれるままに杯を干しているうち、
「これは親父殿そっくりでいらっしゃる。してみると、貴方が庄太夫殿ですかな」
目の前の小さな老人が話しかけてきた。意外に丁寧で腰の低い、かつ正確な和人の言語である。
「文四郎殿でいらっしゃいますか」
「左様、手前、憚りながら今回の和議の労を取らせていただきました」
「それはお骨折りをおかけして」
今回の仲立ちが、文四郎の、というよりも、弘前の杉山吉成の、脅しに近い手紙によって成立したものであることを、もちろん庄太夫は知っている。
(もちろん、俺が知っているということも、文四郎殿にはお見通しなのだろう)
庄太夫は賢明に、そうも察していた。それに何より、相手は己より年長である。ここで感情を荒立てるのは得策ではない。ゆえに、
「未熟者ゆえ、世のことは何も分かりませぬ。このたびのことでは、まことに貴方様に感謝しております」
庄太夫はひとまず丁寧に言葉を返したのである。
しかし、
(親父の仇)
彼にはそんなつもりは無かったのかもしれないが、結果的には文四郎の入れ知恵で父が死ぬ羽目になったのだと思うと、
(油断してはならぬ)
同じ和人であっても、警戒心が先に立つのはやむを得ぬ。
「いやはや、此度は手前としても意外な結末で」
すると文四郎は、徳利を片手に意外な親しみを見せながら、庄太夫のほうへ、つ、と膝を寄せ、
「我ら、松前藩のおかげで美味い汁を吸える。これからもせいぜい、アイヌを上手く使うことですな」
庄太夫の耳へ口をつけんばかりにして囁くのだ。
(これが蝦夷にいる和人商人の考え方か。いや、蝦夷にいる者だけの考えではあるまい)
人の目がある手前、曖昧に頷きながらも庄太夫はいささか驚いていた。亡父庄左衛門から薄々聞いてはいたし、蝦夷と父の地元であった越後高田との行き来で、蝦夷交易の何たるかを知ってはいたつもりだったが、自分と同じ和人商人が、アイヌを低く見ていることが事実だったと知って衝撃を覚えたのだ。
どうやら文四郎は、目の前の若い商人が彼と同じ考えを持っていると決め込んでいて、なおかつ教え導いてやらねばならぬと思っているらしい。
松前藩士やアイヌの人々の目を盗むように、
「親父殿の後を継いで鷹待になられるからには、松前藩のご意向を良く汲んで…」
「蝦夷におきましては、やり方次第でいかようにも儲けられるものじゃ」
「貴方の親父殿は、ちと不器用すぎた。アイヌどもの立場を考えて、真っ正直な商売をしていては、さぞや儲けも少なかったろう」
などと徳利を傾け傾け、折々に語るその様は、
(なるほど、これは確かに父の言っていたような対等な貿易にはほど遠い。明らかにアイヌの人々を、良い様にこき使える己の配下としてしか見ていない)
二十代半ばの庄太夫に義憤めいた感情を抱かせ、さらに、
(例えば、もしか俺が貿易の実権を握ることが出来たなら、アイヌの民にとっても良い方向へ向かうのではないか)
そう考えさせるに十分だった。
(違いに相手を認め、独立した一つの民族同士として、対等の立場で貿易を)
そのためには、シャクシャインとオニビシのように、アイヌ同士でさえ、そして和睦が目的で開かれている酒宴においてさえ、敵意を剥き出しにしているような者達を団結させなければならない。
それに、多少の身びいきも入っているかもしれないが、シャクシャインとオニビシとを比較してみた場合、
(どう見てもシャクシャイン殿のほうが、より人物が上だ)
と思わざるを得ぬ。
事実、蝦夷東部におけるアイヌの人々が希望を託しているのは…やはり松前藩を憚って、あからさまに口に出したことは無いが…シャクシャインであるし、
(ならば、俺が軍師として、シャクシャイン殿を中心とした蝦夷アイヌ王国を作ることも、あながち夢物語ではない。これこそ、商人らしい報復といえるのではないか。それに、カモクタインやカンリリカの「争いをなるだけ避ける」という方針にも叶う)
これまでのアイヌと和人の間の歴史を考えると、気が遠くなりそうな「事業」だが、
(俺はアイヌと共に育った。だから彼らのことを深く理解しているし、彼らも和人である俺を理解してくれている。だから俺なら)
と、庄太夫は己の年齢を考えずに思った。夢や大志を抱くのは、若者に許された特権ではある。しかし果たして彼よりもずっと年上の、海千山千の和人商人と自分が対等に渡り合えるか、という思慮に欠け、彼らの背後にある江戸幕府の存在の巨大さを思わなかったのは、やはり若いと言わざるを得ない。
「メナシクルには、庄左衛門殿のご友人もいずれいらっしゃるとか。商場ででも、もしかお会いできたら、と考えると非常に楽しみですな。二代様が先だってお亡くなりになったことはお聞き及びでしょう」
「はい」
「その折には、お世継ぎの高広様、まだ当年とって六つにもならぬ幼さ。若年というにはあまりにも過ぎるゆえ、どうなることやらと思うておりましたが」
空になった若者の杯へ次の酒を注ぎながら、文四郎の態度はあくまで如才ない。
「お江戸にあって旗本としてお勤めだった松前泰広様が、お戻りになられてご後見。やり手であるとご評判の二代公広様の弟御があれば、松前藩もご安泰。いやさ、我々商人としても万々歳と申すもの」
「…そうですね」
幕府や松前藩の動静は、今やアイヌにも密接に関わりがある。
「商売をやるからには、これくらいの情報を掴んでおくのは当然でございますよ。これとてもう、六、七年前の情報でありますのに。いやさ、学ばねばならぬことは多い」
言いながら笑う文四郎の情報網の広さに、
(俺はまだまだ若い)
そんな風に内心、舌を巻きながら、
(市座小父が来てくれたら、蝦夷に引っ込んでいても、俺とてこれくらいの情報は)
と、庄太夫は考えた。尾張からはるばる蝦夷の商場にやってきては、自分を何くれとなく可愛がってくれた市座衛門であるし、父庄左衛門よりも「やり手」で、尾張においても手広く手堅い商いをしていた市座衛門であるから、
(市座小父の情報網は、きっとアイヌの人々のためにも役に立つ)
温厚で実直なその風貌を思い描き、庄太夫は杯を干しながら頷いた。それを自分への返事と取ったらしく、
「では、向後、またお会いする日があれば」
満足そうに頷いて、砂金堀の文四郎はシュムクル側の席へ戻っていく。
杯を重ねても酔えぬ酒宴は、
「これにて両者、末永く和を結ぶことを誓い…」
蠣崎広林の言葉でようやくお開きとなった。シャクシャインとオニビシが、二人とも待ち構えていたように立ち上がるその後を、それぞれつき従ってきた者達が追う。
「シャクシャイン殿」
幔幕を跳ね上げ、肩を張って大股に出て行くシャクシャインの後を追いながら、庄太夫が声をかけると、
「今は勘弁してやる。お前も俺の心持ちを感じていただろう」
憑き物がとれたかのようにサバサバとした顔をしながら、シャクシャインは庄太夫を振り向いた。
自分たちが拠点としている川上のハエへ、シュムクルアイヌたちもまた帰って行く。しかしそれを一顧だにせず、
「春が十回来た後、俺は奴らに報復する」
シャクシャインは、それだけをぽつりと呟いたのである。
蝦夷の大地には、和人における戦国時代以前がまだ生きている。というよりも、原始における素朴な縄張り争いが、今の世になっても続いている、といったほうが正しいかもしれない。
和人の認識においては、その時代は百年ほど前にすでに終結しているはずで、庄太夫にとっても当然ながら、もはや遠い昔のようなことだ。
シャクシャインとオニビシが、初めて直接、いわば「剣を交えた」争いが終わって、ようやく八回目の春が来た。これを和人の意識に置き換えるなら、
「戦国はまだまだ終わっていない…」
ということになろう。
辛うじて全滅を免れたメナシクルコタンには、未だにそこかしこで再建の槌音が響いている。シャクシャインが「十回の春が来た後…」と言ったのは、恐らくメナシクルアイヌたちの心が落ち着き、争い以前のいつもの生活に戻る目安が十年後である、といった意味であろう。
日々の糧を稼ぎ、幼い子たちを養いながらのコタン再建は容易なことではなかった。最上の助之丞でさえ心労が祟って、故郷へ帰っての養生を勧められたほどである。
シャクシャインの娘と結婚し、その女婿となってからの貧しい生活を思い描きながら、
(やられたからやり返す、それを松前藩がなるだけ手を出さずに見、時には煽る…まことに不毛なことだ。文四郎が「上手い汁が吸える」と言うのも当たり前だ)
そう考えて、日高の商場とメナシクルコタンを往復しつつ、庄太夫は空を仰いで大きくため息を着いた。松前藩とアイヌの人々との間に挟まって、助之丞が心身ともにくたびれるのも無理はない。
今では助之丞も戻ってきた。二人して、アイヌたちに混じって再建を手伝ってはいるが、
(分かっていても、止められないのだろう)
庄太夫でさえ、相手側の首領、オニビシのあの態度を思い出すと、八年後の今でも腸が煮えそうになるのだから、当事者であるシャクシャインは尚更であったに違いない。むろん、あの仲直りの宴を取り持った松前藩だとて、そんなものは形式だけで、また両者が諍いを起こすだろうことを、とっくに予測済みだろう。
その松前藩といえば、「争いのその後を見守るため」と称し、静内川により近い白老に、ちゃっかりと新しい拠点を構えてしまっている。
シャクシャインが力を取り戻した後は、今度はシュムクルコタンの生活が破壊される。なるほど、カモクタインがいつか嘆いていたように、そのことによってシュムクルアイヌ達が報復を誓って、後は同じことの繰り返しだ。
(松前藩に対抗するなど、夢のまた夢ではないか)
恨みを忘れてアイヌ同士団結せよ、などと彼よりもはるかに若い自分が説いた所で、シャクシャインは耳も貸すまい。
皮肉なことに今年の春、静内川の河口ではニシンが大漁だった。そのおかげでメナシクル相談役である自分と助之丞もここ一週間、商場に詰め切りである。
(忙しいのはありがたいが)
と、庄太夫は寝不足の目を擦って苦笑した。春の眩しい光を反射するニシンの鱗は、充血した目には眩しすぎる。
先だっての戦いで、メナシクルコタンからは「稼ぎ手」の中心になるはずだった若手がぐっと減ってしまった。獲れたニシンを担いで庄太夫と共に商場へやってきたメナシクルアイヌ達の数はまだまだ少ない。
(これだと、今年の生活はより一層、苦しかろう…俺自身が、まだまだ商売下手だということもあるが)
コタンに残っている者はといえば、ほとんどが年寄りか幼い子らばかりである。稼ぎ手が少なくなれば、獲れるニシンの数も少なくなる道理で、
「ただでさえ安く買い叩かれて少ないコメやその他、交換される物の量が、より一層少なくなる」
のは目に見えている。
(結局、どう転んだところで和人…松前藩に有利なように流れが出来てしまっているのだ。その流れを変える役割にあるのは俺だ。しかしどこで変える)
アイヌ達が立ててくれた新しい小屋で待つ、己の妻の落胆した顔を思い描きながら、庄太夫は再び重苦しいため息を着いて、右手をかざした。青々とよく晴れているため、そちらの方角には渡島半島がくっきりと見え、
(そろそろやってくるころだが)
海のあちらこちらに浮かんでいる船を眺めながら、庄太夫は背伸びをした。
商場は、ニシンのせり落としの声で今日も騒がしい。今日のせりが終わるまでに、必ずやってくると約していた市座衛門の乗る船が、その中にはあるはずである。
春の日差しを照り返す海に、じっと目を凝らしていると、とある船がぐんぐん近づいてくる。やがてそれは船着場へ到着した。
「市座小父!」
船着場へかけられた板から、武士風、町人風、さまざまな格好をした人々が降りてきて、その中に懐かしい商人の一人を見つけ、庄太夫は叫んで手を振る。
すると、白髪交じりの町人髷がふいとこちらを振り向いて、
「おお」
穏やかな性格をそのまま映した両目をすっと細め、かの人物はいそいそと庄太夫の側へ近づいてきた。
「いやさ、大変なことに巻き込まれたな。庄左(衛門)には気の毒したが、ともかくお前だけでも無事で何よりだ」
開口一番、市座衛門は親友の息子の手を取りながら言う。
「小父こそ、親父のわがままに答えてくれてはるばる蝦夷まで、ありがとうございます」
「うん。よい男になった。貴方も」
挨拶を返す庄太夫と、傍らの助之丞へ向かって、二つばかり頷く市座衛門は、シャクシャインとさほど変わらぬ年ながら、やはり矮躯である。愛想の良い笑みをいつも浮かべている顔で、したたかなやり手であるというところは砂金堀の文四郎と変わらない。
だが、ただ一つ違っているのは、
(小父には誠実がある)
どんな相手であれ、なるだけ公正な取引を、と、それをモットーにしているところだと、
「小父、貴方は見るのが初めてでしょう。早速ですがこれが蝦夷のニシン漁です。とくとご覧あれ」
庄太夫は商場を案内しながら、(頼もしい味方を得た)と大いに安堵していた。
庄太夫の指し示すところのいちいちへ、
「話には聞いていたが、たいしたものだ。もっと早く訪れるべきだった」
と、市座衛門は目を見張って頷いている。
今回、市座衛門が新たに呼ばれたのは、何も庄座衛門が個人的に頼んでいたからというためだけではなく、件の両浜組の口ぞえがあった上で、松前藩から命令されたからである。以前から折々に日高の商場に来ることを許されて、いわば「仮の相談役」といった形であったのが、今回、いよいよ正式に任命されることになった形だ。
とにかく、先だっての争いで庄太夫の父、庄座衛門がシュムクルアイヌによって殺されたのには違いないし、それによって庄太夫が気分を害していないはずがないというのは、子供でさえも分かる理屈である。よって、
「ここは一つ、庄太夫とやらの気持ちを和ませるためにも、庄左衛門と近しい人物を…」
と、両浜組も考えたのだろう。
もちろん、そこのところは庄太夫も十分察知しているから、
(この状況を、逆に利用してやろう)
と彼は思った。
どうしても避けられぬ争いなら、争うより致し方がない。しかし、
(争うなら勝つ。勝って、相手をこちらへ組み入れる。シャクシャインを中心とした蝦夷のアイヌ王国を作り上げる)
アイヌを一つに纏め上げるための、それもひとつの方法には違いない。
到着したばかりの市座衛門のおかげもあって、メナシクルコタンのアイヌ達が何とか今年一年、過ごせそうなほどの得物は手に入った。
「さすがは小父です。助かりました。私一人なら、もっと安く買い叩かれていたに違いありませんから」
「いや何。これからメナシクルアイヌの相談役とやらになるための、ほんの手土産だよ」
ホッとしながら庄太夫が礼を述べても、市座衛門はそれを誇ったりしない。
「商売の底にあるものは、信頼だ」
庄太夫に案内されて、ついてきた護衛達と一緒に静内川河畔のコタンへ向かいながら、
「それがない取引は、いつか破綻する。どちらか一方が栄えたままなどありえない。栄えるとするなら…それはもはや、対等な取引とは言えぬ」
歌うように、ぽつりぽつりと言うのみである。さすがに松前藩を憚って、はっきりとは言わないが、
(支配する者とされる者。小父も、今のアイヌと松前藩のことをそう思っているのだ。そして内心、アイヌに同情しているに違いない)
思っているのでなければ、口にはしないであろう。庄太夫が確信しながら、
「小父、見えてきました。あれがシベチャリのチャシです。シャクシャイン殿はあそこにいるはずです。その側に点在して見えるのがコタンでして。残念ながら、シュムクルとの争いは未だに続いていますが」
夕日を背に受け、そちらの方角を指して言った時、
「庄太夫! 遅かったではないか!」
カンリリカが走ってくるのが見えた。
庄太夫が手短に紹介した市座衛門の矮躯を抱き寄せ、老いた皺深い手をぐっと握って、
「イランカラプテ」
目を白黒させている市座衛門に、ともかくも丁寧な挨拶を返してくるが、よくよく見ると彼の目は血走り、息が上がっている。
「何があった」
「親父が、シュムクルへ攻め入った。オニビシの奴を殺したらしい。俺も知らなかった」
両者の問答を、アイヌ語を知らぬ市座衛門とその護衛たちは、きょとんとした風に聞いている。しかし、
「庄太夫。何があった」
思わず血の気を引かせた庄太夫の様子を見て、何か不穏なことがあったことを察したらしい市座衛門が尋ねるのへ、
「…メナシクルとシュムクルの対立のことは、小父もお聞き及びでしょう。シャクシャイン殿が、あちらの首領のオニビシを倒したそうです」
ようやく息を整えて、しかし震える声で庄太夫は答える。
「カンリリカ、落ち着いて話せ。お前の親父殿が、オニビシを殺したというのは事実か。お前はそれをきちんと確かめたのか」
(いつかは来ると思っていたが、予想外に早い)
たちまち高鳴る胸の動悸を、意識的に深い呼吸をすることで落ち着けようとしながら、庄太夫がカンリリカの両肩をつかんで揺すぶると、
「…ウン」
「義兄」は力なく頷いた。
「本当か」
その腕を取り、引っ張るようにしてコタンへ向かいながら、庄太夫は再び問う。二人の後を、要領が飲み込めぬながら、緊張した面持ちで市座衛門と助之丞、そしてその配下の者達が続くのを感じつつ、
(これからだ。いよいよこれから、シャクシャイン殿の王国を創り上げるのだ)
考えた庄太夫の全身に震えが走ったのは、少なくとも怯えのためではない。
「それは噂ではないのか。真実か。お前はそれを誰から聞いた」
カンリリカに何度も問う声は、問うたび覚えず詰問口調になっていた。それに対して、
「…俺は、戻ってきたコタンの奴から話を聞いただけだ」
半ば呆然と、半ばうなだれて、カンリリカは小さな声で答える。己が力と頼む庄太夫に会って、力が抜けてしまったらしい。
(不甲斐ない。良い年をして)
幼馴染のこういったところは、時に歯がゆく思える。現部族長の子なら、もしかやってくるかもしれない敵対勢力に備えて、コタンの防備を厚くしておく、戦いが起きている場所へコタンの者を使いにやって、真実を確かめる、などなど、やることは山ほどあるはずなのだ。
「市座衛門殿も参られたことだ。とにかく落ち着いて話そう」
カンリリカの腕を握り締めた手に、励ますようにぐっと力を込めて庄太夫が言うと、カンリリカは再び力なく頷いた。
アイヌ、和人両側の伝承を引用すると、そもそもの起こりは、仲直りしたはずのシュムクルアイヌの一人を、シャクシャインが殺したことから始まるらしい。
ここで、再びあの砂金堀文四郎の出番となる。文四郎はかつての戦いの後、
「手前は商人である。商人というものは、いくさには一切関与しないもの…」
松前藩の息もかかっているということも言外に匂わせながら、静内川の河口に近い、かのメナシクルチャシの対岸に広がる原野に己の家を移させていた。
ご丁寧にも土塁で周りを固めたその「邸宅」は、当然ながら、メナシクルチャシからは一望の元である。
「我らを監視するためだろう。だが、手出しはならぬ」
着々と進む工事を見ながら、シャクシャインが苦笑して言ったように、文四郎の目的はメナシクルアイヌの動向を探るために違いなく、
「シュムクルの奴らに、俺達が少しでも危害を加えるような素振りを見せたなら、すぐにでも松前藩に報告するつもりなのだ」
だから行動を慎め、と言っていたはずのメナシクル部族長がしかし、シュムクルアイヌを殺害してしまったというのだ。
なぜそんなことをした、と問い詰めたカンリリカに、
「あれは我が部族の娘を犯した」
そっけなく答えて、シャクシャインは息子の顔を、当のアイヌがそこにいるかのように苦々しい表情で見つめたという。
あれ以来、戦に勝って「仲直りしてやった」という奢った意識のまま、シュムクルアイヌたちはたびたびメナシクルアイヌの「生活領域」を侵した。むろん、叩きのめされたこちらに、対抗するだけの力がないと侮って…事実そうだったのだが…いたからである。
こちらに力が無いまま相手側に攻撃したりすれば、相手はそれを口実にして得たりとばかりに攻めて来るに違いない。そうなればメナシクルは全滅で、だからこそシャクシャインは「負けて」から、
「悔しくともこちらからは手出しをするな」
と言い聞かせていたのだが……。
「そのような理由があるのなら、致し方ないと俺も思った」
熊の敷物の上にがっくりと両手を付いて、カンリリカは大きくため息を着く。
アイヌの人々の間でも、殺人は最も大きな罪である。当然の結果として、オニビシは誠意ある謝罪を要求してきた。しかしその使いを、シャクシャインはニベもなくはねつけたばかりか、その額へ向かって、得意の弓を満月のようにキリリと引き絞り、
「命だけは助けてやる。これが俺の返事だ」
とっととシュムクルコタンへ帰れ、と、脅したそうな。
これが寛文七(一六六七)年春のことである。こうして、両者は互いの「国境」で、再び戦闘を繰り返すことになってしまっていたのだ。
それから一年あまり経ったが、先ほど庄太夫が市座衛門に「シュムクルとの争いはまだ続いている」と言ったのは、このことによる。
「それはしかし、ただの小競り合いだと私は思っていました。いつものように、またいつかなし崩しに収束するものだと」
と、そこで庄太夫は大きく一息ついた。
シュムクル側としても、そうそう何度も、「本当は心の底で嫌っている」松前藩に介入して欲しくはなかったろう。そのことは、
「争いを避けるためにも、何某の金品をこちらに納めよ」
「我らは何度も文四郎と話し合って、和解の条件を定め直している。誠意を示している」
文四郎にでも含められたのか、そんなことを言い言い、和解を求める使いが七日に一回はメナシクルのチャシへやってきたことからも伺えるのである。
文四郎にしても、またも戦いになってしまっては、当たり前だが「安心して商売ができない」のだから、そうなるまでの小競り合いの段階で、何とか止めたかったのに違いない。
しかし、その都度シャクシャインは使いを追い返した。追い返すときの語気の激しさは、息子のカンリリカはもちろん、側で聞いている庄太夫さえハラハラするほどで、
「また大きな争いになるのではありませんか」
カンリリカがたまりかねて言っても、シャクシャインはただ、黙って笑うことでそれに答える。するとカンリリカは、ぷいと父から顔を背け、砦を出て行ってしまう。そんな時、シャクシャインは決まって静内川の対岸を眺めた。
そこには、言わずと知れた文四郎の家がある。シャクシャインの横顔には、もう六十を越えて数年経とうかというのに尚、精悍さが溢れていて、
(何をそんなにも熱心に眺めているのだろう)
それを見つめながら、庄太夫は思った。
シュムクルの相談役である文四郎の家には、当然かもしれないが、頻繁にオニビシが訪れる。メナシクルの砦からその姿は丸見えで、
「俺を狙えるものなら狙ってみろ」
とばかりに、わずか数人の供を連れたのみで堂々とやってきては、時にこちらの砦を見上げて、
(お前たちには、こんな近い距離にいる俺を討つことも出来ぬ)
馬鹿にしたような笑みを浮かべさえする。近頃では、彼はどうやらこちらをすっかり侮っているらしく、時には供も連れずに文四郎宅を訪れもする。
思わず自分の顔を見つめた庄太夫を、
「俺の考えを読み取ろうとしているかのようだ」
シャクシャインもまた、苦笑を浮かべながら見つめ返して、呟いたものだ。
「はい、ですが分かりません。何を考えているのですか?」
だもので、庄太夫は思い切ってこの義父に尋ねた。彼の黒々としていた髪は、いつか白いものが混じり始めたと思っているうち、あっという間に全てその白さに覆われてしまっていたが、
「いいか、庄太夫。よく覚えておけ」
再び視線を文四郎の家に戻して語り始めたその声は、庄太夫が幼い頃に聞いたそれと寸分違わない。
「アイヌの部族の強さは、部族の長によって決まる」
今更ながらのことを言われて、刹那、庄太夫は面食らったが、
「……はい」
(この言葉にも、何か意味があるのだ)
そう考えて、その時は頷くに留めていたのだ……。
そこまで語り終えて庄太夫は、
「ここからは、お前の番だ。話せ」
と、傍らで暗い顔をしている義兄を振り返る。するとカンリリカはギクリと大きく肩を震わせた後、長く重い吐息を一つついて、
「俺が知っているのは、文四郎の家に泊まっていたオニビシを、親父が殺したということだ。ただそれだけだ」
言い、再び重苦しい息を口から吐き出した。
その言葉だけで、
(ああ、そうだったのか)
庄太夫は悟り、カンリリカ同様、重苦しいため息を着いたのである。
つまり、シャクシャインがしつこいほどに文四郎の家を「監視」していたのは、オニビシが文四郎宅へ、安心しきって一人でやってくる、その時をじっと待っていたからなのだ。
昨晩も、庄太夫は、オニビシが文四郎宅を訪れるところを目撃している。それは余りにも当たり前に「ありふれた光景」になってしまっていたから、
「お前が商場に出かけた後、親父はオニビシを殺したのだ」
震える声でカンリリカが告げた言葉を、庄太夫は和人の言葉に直すことも忘れて、しばらく呆然としていた。
しばらくは、小屋の外を吹き渡っていく風の音だけが響いて、
(こういうことだったのか…部隊というものは、つまり率いている将さえ除いてしまえば、あっけなく崩壊する。それをシャクシャインは言っていたのだ)
やがてバタリと大きな音を立てて、小屋の窓が閉まった。そこで我に帰った庄太夫は、あの時にシャクシャインが自分に告げた言葉の意味を、ようやく悟ったのである。
「で、シュムクルのアイヌたちは今、どうしているのだ」
「オニビシの姉とウタフが攻め入ってきたが、親父がオニビシの首を掲げたら退散した。そこを俺達の部族が、な」
そこでカンリリカは、言いよどんで口をつぐんだ。自分たちの部族長が殺されたことが、真実であると知って動揺し、逃げるシュムクルアイヌたちを、メナシクルアイヌたちは追いかけて散々に打ち破ったらしい。
「親父、もうやめましょう!」
声を枯らして叫ぶカンリリカの言葉も何のその、積もりに積った恨みをここで晴らしておかねばとばかりに、シャクシャイン率いるメナシクルアイヌ達は、勢いに乗ってハエまで行ってしまったというのだ。
結果的には、オニビシを殺されたために、シュムクルアイヌのハエのチャシは全滅、酋長であるオニビシに近い者達…その姉や、義兄のウタフも散り散りになって、命からがら味方のコタンへ逃げ延びていかねばならなくなった。前回、自分たちがメナシクルアイヌへ仕掛けた、それ以上のことをされてしまったわけだ。
「…こういった次第になってしまいました」
主不在の、シャクシャインの館である。熊の皮の敷物を勧められ、それに腰を下ろした市座衛門は、庄太夫が通訳するところのカンリリカの話を聞いて、思わず腕を組み、大きく息を吐いた。
やがて、
「シャクシャイン殿は私と同じ年頃であるはずだが」
ふっとほろ苦い微笑を浮かべ、
「いやはや、お若いお若い」
「小父」
「分かっておるさ。冗談ごとでは済まぬ。実際お前の親父は、そのことで命を落としておるのだから」
自分へ向かって膝を勧める若者へ、再び微苦笑を漏らして、市座衛門は口をつぐんだ。
(そろそろ縞梟がやってくる頃だ)
その前にしつらえた燭台の上で、蝋燭がわずかに揺れている。黙ったまま腕を組んでいる市座衛門の口元を見つめながら、
(八年前のあの時と同じだ)
庄太夫は息の詰まるような思いで、それが再び開くのを待った。
初老の市座衛門の身には、蝦夷の春風はやはりかなり冷たく感じられるらしい。窓や扉を全て閉め切っていても、時折吹き込んでくるその風に、蝋燭の炎が消えかけて再び燃え上がった刹那、
「松前藩がどう動くか、だの」
ようやく市座衛門は口を開いたのである。この一言で、
(やはり市座小父は我らの味方だ。最初から我らの味方をするつもりで、日高へ来たのだ)
庄太夫は確信し、
「……はい」
市座衛門の次の言葉を待った。
「聞けば先ほどの戦いで、シュムクルとの仲立ちをしたという…松前藩は、シュムクルの味方なのだな」
「はい、われら、そう思うております」
その言葉に覚悟を決めたように頷く庄太夫へ、
「だが、我らには種子島がない」
目を閉じて答える市座衛門の脳裏に浮かんでいるのは、この時から数十年前に天草で勃発した、島原の戦いのことに違いない。
その折には、少なくとも戦国時代の生き残りである武士達もいた。旧式とはいえ、少なからず種子島、すなわち鉄砲も持っていた。何よりも強い信仰に結ばれていたから、幕府側の板垣さえも一時は敗退させることが可能だったのである。
「商人である私が言うのも僭越だが…関が原の折に漏らしたという故福島公の言葉ではないが、もう十年ほど早ければ、と思わざるを得ぬな」
側にいるカンリリカへ、庄太夫がアイヌ語で市座衛門の言葉を伝えると、カンリリカは暗い顔をしたまま吐息をつき、頷いた。
「いつの世でも、血気に逸る若い者を抑えるのは容易なことではない。加えて、年老いたとは申せシャクシャイン殿もまた、そのまま引き下がるような御方ではないようだ。我らに圧倒的に不利とは申せ、戦いを始めた以上は、勝たねばならぬであろう」
「はい。今こそシャクシャイン殿を中心とする、蝦夷アイヌ王国を創り上げる時だと思います」
我が意を得たりとばかりに意気込んで、より膝を近づける庄太夫へ、
「しかしそれは、時期早尚というものだ」
市座衛門はわずかに苦笑して答える。
「まだ早いと仰るのか」
「そうだ。メナシクルアイヌはまだまだ弱い」
そこでふと、市座衛門は言葉を途切れさせ、扉を見つめた。他の二人も釣られてそちらを向くと、
「シャクシャイン殿!」
マタンプシやアミブは言うまでも無いことながら、ざんばらになった白髪にも茶色く変化した血をこびりつかせたシャクシャインが、
「……我らの方が、圧倒的に不利だとおっしゃるか」
年老いても力を失っていない大きな目を、さらにぎらぎらと光らせながら、市座衛門を見下ろしている。
乱暴に開いた扉の後ろには、同じような格好をしたアイヌ達が、てんでに得物を持ってうろうろしているのが見え、メナシクルコタンは一気にざわめきに包まれた。
誰もが興奮しているその空気の中、
「市座小父っ!」
「親父っ! なんということを」
「…答えられよ。何故にそう仰る。何ゆえに我らが弱い」
シャクシャインが、手にしていた槍を市座衛門の鼻先へ突きつける。カンリリカと庄太夫は思わず腰を浮かせた。
「左様」
しかし市座衛門は、慌てふためくことなく、静かにメナシクルの部族長を見上げる。どうやら彼は、言葉ではなく感覚的にシャクシャインが言ったことを察したらしい。
庄太夫のほうを振り返って、「通訳をしろ」と言うように頷いた後、
「アイヌ同士でいつまでも争っていること。あなた方にとって本当の敵、共通の敵は何処にござりましょうや。不毛な争いを繰り返している間にも、その敵は肥え太る。分かっていながら、感情のままに動いてばかりでどうにもならぬ。これがまず第一の敗因」
「…第二は」
「第二は」
青い顔をした庄太夫が、それでも自分の言葉を正確に伝えているらしいと思いながら、
「我らがあなた方のことを知る必要はないと思っているように、あなた方も我ら和人のことを知ろうとしない。敵を深く知ろうとしないのが第二の敗因。和人憎しとばかりに、我らの言葉すら覚えようとしないあなた方は、戦う前から負けている。だからあなた方は弱いと申しあげたのです」
突きつけられた槍の先へ頷いて、市座衛門は答える。
その言葉を庄太夫が伝え終わると、シャクシャインの目から発せられていた光がふと和んだ。
「…分かっている。和人の言葉、難しいこととなると皆目分からないが、庄太夫が話した貴方の言葉、この家の外で聞いていて、本当は最もだと思っていた」
血のこびりついた槍を土間へ投げ捨て、シャクシャインは板の間へ上がった。扉から見て正面に敷いてある熊の皮の上へどっかりと腰を下ろし、
「あなた方シサムから見ると、我らはさぞ愚かに見えるであろう。だが、理性では分かっていても、貴方が仰るように、感情の上ではどうにもならぬ。あなた方にも分かるのではないか…同じ人間であるなら」
市座衛門へ苦笑を向けながら告げた言葉は、カンリリカと庄太夫が思わず顔を見合わせたほどに穏やかだった。
「分かります。同じ人間ですから」
市座衛門もまた、己と同い年のこの初老のアイヌを見つめながら頷く。そして、
「カンリリカ殿はどうやら反対のようですし」
と、庄太夫の隣にいる壮年のアイヌを見て、わずかに苦笑した。
「ずばりと言わせていただくが、実はこれからあなた方と松前藩との架け橋として、交易を始めようとしていた手前個人にとっても、此度のメナシクル側からの攻撃は迷惑であるし、暴挙であったと思わざるを得ません。シャクシャイン殿も、相手側の背後に、松前藩があることを十分に承知しておられたのであろうが…いやさ、これは事が起こってしまった後で申しあげても、まことに詮無き事」
市座衛門が話し、庄太夫が伝えるその言葉を、シャクシャインは腕組みしながら目を閉じ、黙ったまま耳を傾けている。その顔から、往年の精悍さと自尊心の高さが失われていないように見えるのは「さすがは」と思えるが、
(アイヌのポンヤウンペ…この方も、どこか疲れたような顔をしている)
今、庄太夫が見つめている彼の横顔には、蝋燭に照らされたためばかりではない、疲労の影が浮かんでいるような気がする。
(当たり前だが、この方も年老いたのだ)
シャクシャインのその顔を思わず凝視していた庄太夫は、
「過ぎたことをあれこれ悔やんでも致し方ない」
続く市座衛門の言葉にふと我に帰り、慌ててその言葉をアイヌ語に変えて他の二人に再び告げ続けた。
「向後は、松前藩がどう出てくるか…此度のメナシクル側の『不当な攻撃』を、シュムクルアイヌが誇張して伝えぬはずがない。今、戦況は? オニビシは貴方の攻撃によって死亡したというが、オニビシの姉の夫…ウトマサ、いや、ウタフと呼ばれているのですか」
「ウタフだ」
そこでシャクシャインは、閉じていた目をカッと開いた。同時に燃えるような眼差しを市座衛門へ注ぐ。
「左様、ウタフ」
それを受けながら、市座衛門は頷いた。
「実は先日、一艘の船に行き違いました。その船は、松前藩の本拠のある松前半島へ向かっているようだった。ニシンの取引のために乗っている我ら和人の船かと思うたが、よくよく見るとその中に、あなた方アイヌとそっくり同じ格好をしている人間が幾人か乗っているではないか。それにそれらの代表者らしき人物、髪や服は泥まみれ血まみれ、これは尋常ではない事が起こっている、果たして何事が起きたのかと思うておりましたが、これで手前にも納得がいった」
「恐らくは我らのあることないこと、松前藩に訴えに行ったのであろう」
「そう、手前もそう思います。でありますから」
と、市座衛門はそこで大きく息を吐き出し、カンリリカと庄太夫を当分に見る。
「それに対してこちらも備えるべきだと、手前も考える。日高から福山までは少なくとも往復に一週間はかかるはず。それまでにこちらとしても硬く硬く備えを」
その言葉を庄太夫がシャクシャインとカンリリカに伝えると、シャクシャインはむっつりと頷き、争うことにはあくまで反対であったカンリリカは、がっくりと肩を落とした。
日高に到着したばかりの市座衛門が述べたように、実にこの時、オニビシの義兄であり、シュムクルの副部族長であったウタフは、松前藩の本拠のある福山城へ向かっていたのだ。
むろん、松前藩にこの事態を訴え、助太刀を頼むか、それが出来ないまでも、最新式の武器なりなんなり貸してもらえるように頼み込むためである。
ともあれ、再び始まった両部族間の争いは、こうして「はっきりと」抗争の形を取った。ウタフが松前藩へ出かけて不在である間にも、シャクシャイン率いるメナシクルアイヌの攻撃は止むことが無く、八年前とは逆に、今度はシュムクル側が追い詰められていったのである。