三 抗争
アイヌの男達がほとんど出て行った後も、コタンの中はざわめいていた。ただ、長のカモクタインの小屋の中だけがしんと静まり返っていて、
(長の言葉ではないが、まことに時期早尚だ。残念だ)
カモクタインが座していた右側に黙然と腰をすえたまま、庄左衛門は目を閉じて腕組みをしている。
庄左衛門が日高のアイヌコタン、メナシクルへやってきたのは、両浜組に呼び寄せられてのことだ。表面上のこととはいえ、当時はまだまだ松前藩の、というよりも和人のアイヌに対する態度は今ほど酷くはなかったような気がする。
(あの頃は俺も若かったわい)
まだ見ぬ北の大地、蝦夷で商売を開拓しないかと誘われ、
「これは良い機会だ。越後でコメを扱っているばかりが能ではない」
故郷を離れたくなくて渋る妻を説得して、父から受け継いだ米問屋―もともとさほど儲かっているというわけではなかったが、どうしたものか、己が受け継ぐとさらにうだつが上がらなくなった―を潔く畳み、連れ立って日高へやってきたのだ。
(妻を伴ってまで蝦夷にやってきたのは俺だけだった)
後に知り合った最上の助之丞も、「いやさ、寛大なご内儀もあったものだ」と、驚いて目を丸くした後、
「手前の家族は、どうしても手前には付いてきてくれませなんだ」
と苦笑した。当時の人々にとっては、蝦夷という土地は和人にとっては異民族の住む未開の地で、つまり「蛮土」である以外の何物でもなかったのである。
蝦夷で彼は、鷹待、つまりアイヌたちが蝦夷で獲る鷹を松前藩に収める、という仕事に初めて就いた。慣れぬながらも初めての取引を終えると、庄左衛門の手元に残った金は、
(商売下手の俺に、でさえも……)
これまでに商売で得たそれとは比較にならないほど莫大なものだったから、彼も彼の妻も目を丸くしたものだ。
現金なもので、最初は越後へ帰りたいと文句ばかり言っていた妻も、それでころりと態度を変えた。越後とさほど変わらぬ気候でもあるし、というわけで、日高に居つくうち、息子も産まれた。
商取引のため、庄左衛門が半年ごとに蝦夷と越後を行ったり来たりしているうち、はや二十数年が経ってしまっている。そのうちに妻は亡くなったが、彼は相変わらず静内川に設けられた松前藩の交易所を年に一回訪れては、アイヌと松前藩お抱え商人の間に立って交渉を進めてきた、というわけだ。
(俺も年をとるわけだな)
思わず苦笑しながら、白いものが混じっている小鬢を右手で掻くと、
「親父殿、良いのですか。今回ばかりは、メナシクルの方にいささか分が悪いと手前、見ておりますが」
一部始終を少し下がった座で聞いていた実の息子、庄太夫が、堪えかねたように膝を進めた。これが先述のように、日高へやってきてから生まれた子である。
物心付く前から、庄左衛門とともに越後と蝦夷を行き来しているものだから、いつの間にかアイヌの言葉も聞き覚え、父より達者になった。今では立派な「通訳」」である。
跡継ぎだからと、商場へ実地の訓練を兼ねて連れて行くうちに、
「松前藩、といいますか、我らの仲間(和人)のやり口は、ちと汚すぎませんか」
しばしば父に尋ねるように、今ではすっかりアイヌ贔屓になってしまっているから、
「親父殿。今からでも遅くはございますまい」
今も彼は、さらに父へにじり寄って言うのである。その側には、シャクシャインには付いていかなかったカンリリカが黙って座っていて、彼ら親子の会話へ耳を傾けていた。
(消極的ながら、最後まで開戦に反対していた……)
ゆえに、シャクシャインからは「それほどまで言うなら、お前はコタンにこもって震えていろ」とまで言われた……そんな「次期部族長」の息子は、今も砦で弓を片手に先頭を切って戦っているのだろう父親とは、
(頼りなく、穏やかで、武術も決して巧みとは言えぬ)
似ても似つかない風貌をしている。
従って、当初は「英雄の息子」ということで、大いに期待していたらしいメナシクルコタンの人々も、今ではカンリリカに塵ほどの関心を抱いていない。シャクシャインの周りには、彼の実の息子よりも屈強で、武術に長けた「十四人衆」と呼ばれる若者がいて、その側を固めているし、
「部族長は世襲制ではない。部族で強い者がなる」
という不文律も生きているためだ。果たしてこのことが、カンリリカにとって幸いであったか不幸であったかは分からない。
それとは逆に、
「我らから、砂金堀の文四郎殿へ掛け合ってみては如何で」
そう繰り返す庄左衛門の息子は、
(不器用で、まっすぐで……)
成長するにつれて庄左衛門そっくりになった。
(俺は、俺の歩いてきたのと同じ道を、こいつが歩こうとしているのを喜んでいる)
思って微苦笑をもらしながら、彼は庄太夫へちらりと一瞥をくれ、再び目を閉じて大きく嘆息する。
(庄太夫の言わんとすることも分かるのだが)
カモクタイン達にとっては、余計なことでしかあるまい。
実際、カモクタインも忙しくコタンと砦を往復しながら、日に一度は
「お前達は何故逃げないのか」
そんな風に言いたげな顔で、庄左衛門を見る。
(その通りだ。何故俺はここに留まっているのだ)
庄左衛門のほうも、カモクタインが、というよりもアイヌが、和人全員を心から信頼していないことくらいはとうに承知している。もともと田付と建部の両浜組が勝手に決めて、恩着せがましくアイヌ側へ押し付けた相談役だ。何の疑いもなく信用できるというほうがおかしい。
松前藩や両浜組、さらにはやはりその系列であるはずの庄左衛門にとっても、願ったり叶ったりのはずの「アイヌ同士の争い」に、庄左衛門が軍師ヅラをしてシャシャリ出る必要はないのだ。
「親父殿。アイヌの人々のために、手前どもが出来ることをしましょう」
しかし今、こうして自分に詰め寄ってくる息子は、父親同様、商人と取引相手という枠を超えて、この北の大地に生きる人々に深く魅せられている。
(人間というものは、幼い頃に育った環境に深く影響されるというが)
「そうだな。俺もメナシクルアイヌの人々の生き様が好きだ。皆、異民族の垣根を越えて、俺達に親切にしてくれた」
苦笑しながら頷いて、庄左衛門は、
「だから、ここに骨を埋めても良いとさえ思っている」
特にシャクシャインの息子や娘たちと幼い頃から馴染んでいるうち、何とその娘と将来を約束さえしているらしい我が子を見つめつつ、言った。
すると、
「手前もです。アイヌの人々は我らよりもずんと懐が広い。和人が思っているほどに愚鈍でもない。経験による深い知識を大事に受け継ぐ、素晴らしい民です」
案の定、親父の言葉に庄太夫は深く頷く。
当初は、
「イランカラプテ」
と言いながら抱き合う、大げさとも思える挨拶の仕方に戸惑ったものだが、
(貴方の心にそっと触れさせてください、か)
その言葉に込められた意味を知った時、何故か体中から溢れんばかりの懐かしさを感じた。商売に明け暮れてささくれていた己の心が、ふと緩んだような気がしたのである。
(己の身の回りにいるもの全ての中に、神を見る…)
松前藩以南に住む和人が、それなりの文明を発展させるとともに、いつかどこかに忘れてしまってきたものを、アイヌの人々は未だに大切にしているのだ。それを、
(遅れた文明よ)
と、嘲笑う和人のほうを愚かしいと思いつつ、しかしそれを口にしてしまえばたちまち和人商人の「蝦夷の商売王国」からはじき出されてしまうのもまた、庄左衛門は重々承知していた。
それを思うとき、
(「ケチな」米問屋だったが、それなりに上方や江戸との取引もあったものな)
彼はいつも「前の商売」を思う。もしも蝦夷へ来なければ、アイヌの人々のそのような考えを聞き知ったところで、
(文四郎殿のように、鼻で笑っていたに違いない)
のだ。
その文四郎だが、シュムクルつまりオニビシ側の相談役にはついているものの、庄左衛門のように、異文化を有するアイヌの民へある程度の敬意を払っているというわけでは、もちろんない。
文四郎に限らず、蝦夷の商場、とくに松前藩のある蝦夷南西部の渡島半島や松前半島へ近づくほど、
「アイヌの民はお人よしであるから、搾り取るだけ搾り取ることが出来る。百姓どもと同じで、生かさぬよう殺さぬよう、扱うが良いのだ」
和人商人たちのそんな考えは各々の心の中に濃く染み込んでいるようで、特に直接カネに繋がる砂金堀達にその傾向が強かった。
従って、「漁夫の利」を思うこともまた、文四郎のほうが当然ながらより強い。ひょっとすると今回、メナシクルアイヌたちを挑発したのも、オニビシについている文四郎の入れ知恵かもしれず、それゆえに、
(お前さんの顔は、とてもじゃないが商売人の顔じゃないね。もう少し貪欲であっても構わないよ)
もう今は亡くなっているが、両浜組の片割れである田付新助に松前城で初めて出会った時、鼻先で笑われながら言われたことを思い出して、
「俺の申すことなど、文四郎殿は聞くまいよ」
苦笑しながら庄左衛門は言う。文四郎もまた、同じような感情を己に対して抱いているに違いないからだ。
しかし、
「親父殿」
二十歳になったばかりでまだまだ頬の赤い息子は、ついに膝を付き合わせんばかりに進めて、
「ならば何故、手前どもも引き上げませぬ。何故先ほど、カモクタイン殿にシュムクルアイヌの奇襲を報せなさりました。助之丞小父もいつものように商場へ出かけている。それはこのコタンの人々の生活を守るためでしょう。小父も日高から引き上げるつもりはないのでしょう」
「……そうさな」
「ならば我等も、武器を持たぬといえども、商人に出来ることでメナシクルの人々を助けねば。親父殿、そうしましょう」
父の顔へ唾さえ飛ばしながら、熱心に言い募るのである。
(若いな)
思いながら、庄左衛門はしかし慈愛のこもった微苦笑で、激情のために額まで赤くしている我が子をつくづくと見やり、
「では、お前はここに残るのか」
「はい。しかしそれは親父殿も同じでしょう」
問うと、確信に満ちた即答が返ってくる。(生意気な奴め)と、己の心の内を当てられてしまったことへ再び苦笑を漏らしながら、しかし庄左衛門は、
「では、これからは市左を頼れ」
と言いながら胡坐を解き、立ち上がっていた。
「ああ、市左衛門殿ですか」
「そうだ。こんなこともあろうかと、二月ほど前に尾張へ連絡を取っておいた」
市左衛門は、庄左衛門が越後における彼の店を畳む折、その後を任せた誠実な商売仲間である。年は己よりも一回りは下で、いささか若いし、庄左衛門が言うように、今、市座衛門が店を広げている場所は尾張ではあるが、
(俺よりはマシな商売をしているようだから)
とにもかくにも御三家のお膝元である。幾多の店が軒を連ねて、いわば商売の激戦区での「やり手」ゆえに情報通である。尾張のことだけでなく、江戸のことにも詳しい。
我が息子、庄太夫とは少し年の離れた兄貴分、といった風情になるだろうか。温厚実直さが全面に出ている、あのノッペリとした平坦な顔を思い描きながら、
「その他にも、ほれ、お前もいつか商場で会ったろう。庄内の作右衛門殿、最上の助之丞殿の助けも得られるよう、手を回しておいた。そしていざとなれば、弘前藩の杉山吉成様から松前藩へ、それとなく仲立ちの労をとる事をほのめかせと、手蹟も渡してある」
「いつの間にそのようなことを」
と、驚きの目を見張る息子を見下ろした。
その左肩を叩きながら庄左衛門は続けて、
「商売人は商売人同士。俺はな、商売には不器用だが、己の身を護ることにだけは才覚が働くのさ」
そこでふと苦笑を漏らす。
「ことが一段落付く頃には、彼らもこちらへ来ておるだろう。お前はここに残れ。あれのことをよくよく、メナシクル部族の他の者達へ言い含めておけ。それがお前の役目だ」
「それは分かりましたが…親父殿は何処へ?」
「カモクタイン殿やシャクシャイン殿が立てこもるチャシだ」
砦をわざわざアイヌ語に言い換えて、庄左衛門は戸口の菰をぱっとからげた。途端に、湿り気を含んだ春の風が、小屋の中をどっと吹きすぎてゆく。
「親父殿。それでは手前もお連れ下さい」
慌てて立ち上がり、追いすがってきた息子へ
「心配するな。カモクタイン殿もシャクシャイン殿も強い。滅多なことでは破れまいよ」
庄左衛門はなだめるように言いながら、その身体を小屋の中へ押し戻す。
「様子を見に参るだけだ。必ず戻ってくる」
それに答えるように開きかけた息子の口を封じるかのごとく、そう言い置いて、庄左衛門はコタンから離れた。結果的に、これが彼ら親子の永遠の別れになった。
メナシクル部族の砦は、カモクタインのコタンからさほど離れていない静内川沿いにある。川面から七十メートルの高さに位置する断崖絶壁に手を施して作られた、堅固な半天然の要塞であった。
ちなみに、メナシクルの部族に属している各々のコタンもまた、静内川沿いにある。それは川の流れに沿って、日高山脈の裾ぎりぎりにまで点々と散らばっていた。
以前にもちらりと述べたが、それぞれのコタンには、通常五、六家族がひとまとまりとして生活を営んでいる。夜を照らすための明かりがそこかしこから漏れていて、普段ならば澄んだ空気ではっきりと見えるそれらの火は、今は川面から立ち上る蒸気のため、怪談話でよく聞く人魂のような光を放っている。
(不吉な光を放っている)
それを川下から舌打ちしたいような気分で見上げつつ、突風に時々消えかかる松明をかばうように掲げて、庄左衛門は砦へと急いだ。
(商売相手に情を移すとは、商人にあるまじきことである)
近づくに連れて、はっきりとした剣戟や人の喚き声が聞こえてくる。交えている弓の鏃や槍先に使われている鉄は、すべて自分達和人がアイヌにもたらしたもので、
(例えば俺などが鉄砲を渡せば)
圧倒的な勝利を得られるだろうと思いながら、庄左衛門は独り苦笑して首を振った。
己はあくまで、市井の一商人に過ぎない。当然ながら、一介の商売人が鉄砲を扱うのは、幕府によって硬く禁じられている。鉄を渡すのは許しても、相手が余計な力をつけることになる鉄砲の交易など、今の幕府が到底許しはしない。許されぬどころか、異民族に最新式の武器を渡したとなれば、問答無用で極刑である。
それに幕府の許可を得ずにやるとなると、密貿易ということになる。薩摩藩などは江戸から遠いのを良いことに、琉球や台湾などと半ば公然と密貿易を行っているが、
(同じ程度の距離が離れていても、松前藩は違う)
貿易、というものは、少なくとも相手が己と対等の立場で行われる取引のことを指すはずである。アイヌがお人よしすぎ、世界というものを知らなさすぎたため、
(俺達和人が、アイヌを舐めてかかることになってしまった)
庄左衛門が思うように、相手の腰が低いと嵩にかかるのが人の常というものだろう。対等な立場での交易のはずが、いつの間にか領主とそれに支配される領民、という風になってしまっている原因の一つには、そのせいもあったかもしれない。
そして
(商売というものは、一体何だ)
建前上は松前藩側に属していながら、そのことを思うたび、庄左衛門は考えるのである。
(商売というものは、作るものと必要とするもの双方を「ニンマリ」とさせてこそ成り立つのではなかったか。そもそも商売人というのは、双方の仲介人に過ぎぬはずなのだが)
そこまで思って(いやいや自分もよい年をした商売人の癖に、青臭い理想をいつまでも掲げているものよ)と彼は苦笑した。こんなことだから、せっかく一級の米どころと呼ばれる場所に父親が構えたはずの米問屋を受け継いでも、さほど利益を上げられなかったのかもしれぬ。
(俺は商売には向いておらぬ。建部殿がああ言ったのも無理はないわい)
そして、
(倅のヤツも、俺と同じような道を辿るに違いない)
とも思って、庄左衛門は苦笑した。
関ヶ原の折、敗れた石田三成の次男、重成を助けた己の父と同様、情にほだされすぎるのはどうやら、
(困っている弱いものを見たなら、助けずにはいられない……)
先祖代々の血らしい。
これが例えば両浜組の田付などであったなら、それこそ尾をからげて逃げていたに違いないのに、何故庄左衛門がこうして砦へ向かって歩いているのかと言えば、結局はメナシクルアイヌを助けたいためなのだ。息子の庄太夫に言われるまでも無く、彼は己の中に、己を突き上げるような衝動を感じたためだが、
(俺に何が出来るというのだ)
この戦いの行く末を見届けるのが、せいぜいではないか。
しかし、それが己の義務であるような気がする。自分でも自分に苦笑しながら、庄左衛門は静内川の土手をメナシクルの砦に向って歩いた。暗い地面へ目を凝らすと、草いきれがつんと鼻を突く。そこには大勢が踏みしだいたと思われる靴の跡があり、それは一斉に彼が目指すシベチャリの砦の方角へ向かっていた。
その靴跡を追って顔を上げると、そこにはやはり蒸気にかすんだ砦がぼうっと浮かび上がっている。
(カモクタイン殿ではないが、まことに残念だ)
思わずそちらへ向って松明を掲げると、一瞬の突風でその火は消えてしまう。しかし、彼自身が明かりを掲げずとも、砦で入り乱れている炎のおかげで、激しい乱闘が続いているのが良く分かる。
(遅かった。もっと早く分かっていれば)
こちらとしても、差し出た口を挟むのは良くないと遠慮していたのが裏目に出てしまったのだ。物見を発していると言っても、あくまでそれは商売優先で、抗争の勃発を嗅ぎつけることが目的ではない上に、例えば武士が雇っているような、専門の隠密などのような働きは当然ながら出来ない。
今回の「奇襲」も、たまたま東方へ使いに出ていた庄左衛門配下の者が、これまた偶然にもたらしたので分かった、という何ともお粗末な有様である。
もちろん、メナシクルアイヌとて警戒はしていたのだろうが、
(いつもならその場での小競り合いだから、今回もそうだと思っていたのだろう)
それがまさか、このような本格的な抗争に発展するとは思ってもいなかったに違いない。そのため、今の戦況は、素人の目で見てもメナシクル側に不利だと判断できる。
商売柄、運送途上に出くわす盗賊や追いはぎに対応することも多かったため、そこそこの度胸は持っているつもりの庄左衛門も、毒矢が髷をかすめて背後の地面へ突き立った時には、さすがに肝が冷えた。
砦に近づくに連れて、はや冷え切ったアイヌ達の死骸に躓く回数も増える。ふと静内川の流れに目をやると、岸辺やその近くの水面には、矢や折れた槍の突き立ったアイヌたちがやがり転がっている。
(当たり前だ。これは「戦争」なのだ)
己に言い聞かせながら、庄左衛門は暗闇をかいくぐるようにして砦へ近づいた。何度かオニビシ側のアイヌに捕らえられたこともあったが、
「俺は文四郎殿の手の者だ」
と誤魔化し誤魔化し、ほとんど這うようにして砦の壁へ取り付いた途端、
「ここで何をしている!」
太い声が響いた。崩れた砦の石壁の隙間から覗いた大きな手が、彼の襟首を鷲づかみにして中へ引っ張り込む。顔の前に近づけられた松明の明るさと火の粉の熱さに、思わず瞬きを繰り返している庄左衛門を見て、
「何だ、貴方だったのか。何故ここに」
忌々しげな、それでいてホッとしたような声を発したのは、シャクシャインだった。
「それにしてもよくもまあ、こちら側からやって来られたものだ。ここは今、一番の激戦区になっているのだぞ」
だから俺が受け持っているのだ、と言いながら、シャクシャインは庄左衛門を庇うように壁の前へ立ちふさがった。次の瞬間にはシャクシャインの右手にある弦が唸りを立てて、暗闇の先から男の太い悲鳴が響き渡る。
「貴方達を助けたくて来たのだ」
庄左衛門にとっては、初めて目の当たりにする「いくさ」である。唾をごくりと飲み込みながら、
「シュムクル側でも、文四郎という和人が後ろで糸を引いているのなら、貴方達メナシクル側にも俺という和人がついていないと、片手落ちというものだろう」
たどたどしいアイヌ語で言うと、シャクシャインは彼の顔をまじまじと見つめたあと、ふっとその顔を緩めた。
(彼も年を取った)
しみじみとそう思ったためである。
結構な付き合いでありながら、庄左衛門の顔を好意でもって眺めたのは、考えてみればこれが初めてだったかもしれない。日高へ来たばかりの時には若く、光沢さえ放っていたその肌には、今は初老の男らしく皺が幾筋も刻まれている。年相応に髪も薄くなり、申し訳程度に結った「町人髷」にも、白いものが混じり始めていた。
(俺も良い年になったということだ)
改めて思いながら、
「長の元へ。今、オニビシの手の者から和睦の書簡が届いた。その是非を貴方にも判断してもらいたい」
シャクシャインは初めて、庄左衛門へ心からの頼み事をした。
「和睦の?」
「そうだ。奴らがどういうつもりなのかは分からないが」
ほろ苦い笑みを浮かべながら、シャクシャインは尚も矢を暗闇へ向かって放つ。どうやらこの副部族長は、暗闇の中でも敵の位置が正確に分かるらしい。一矢放たれるごとにその方角からは悲鳴が上がって、メナシクル一の射手という呼称に恥じぬ活躍ぶりを、庄左衛門に見せつけた。
「長はそれに乗るつもりらしい。だから、貴方に第三者としての公平な意見、とやらを述べて欲しいのだ。俺にはどうも……」
後の言葉を濁して、シャクシャインは顎を奥のほうへ向ける。そちらの方角にカモクタインがいる、ということなのだろう。
シャクシャインへ向かって軽く頷いて、庄左衛門は小走りに教えられた場所へ向かった。
(シャクシャイン殿の危惧も分からぬではない)
石を積み上げ、木の枠で部屋を作っただけの、簡素ではあるが堅固な砦の一室に、カモクタインはいた。入ってきたのが庄左衛門であることを認めて、皺に埋もれた小さな目は少し丸くなる。
「このような危険なところへ、よくおいで下さった。貴方のご厚情に、メナシクル部族の長として深く感謝する」
そんな風に言う長へ頭を下げながら、
(なるほど、この長ならば、やはりシュムクル側の提示に乗るに違いない)
庄左衛門は心の中で思った。
シャクシャインが懸命に追い払ってはいるが、今の戦況はシュムクル側にとって、圧倒的に有利なのである。有利な側から提示された和睦には、
(必ず何か裏がある)
と見ていいはずで、武士ではない庄左衛門でさえもそのことが分かるのに、
「和睦を言い出すところを見ると、オニビシの奴も本気ではなかったということだろう。戦っている者達も、俺がこの和睦を呑めば撤退させると言ってきている。これで双方、これ以上の被害を出さずに済む」
カモクタインはそんな風に言って、いかにもホッとしたように笑うのである。
「オニビシからは和睦と謝罪の証として、向こう側で酒宴を開くと言ってきている。だから、俺は出向こうと思う」
続いたカモクタインの言葉に、
(シャクシャイン殿はこれを危惧していたのだ)
さすがに庄左衛門も悟った。これはオニビシ、というよりもむしろ、砂金堀の文四郎つまり和人のやり口なのではないか。
「しかしカモクタイン殿」
「シャクシャインが貴方にも何か言ったかもしれないし、貴方がどう思うかも分かるが」
言い掛けた庄左衛門を遮って、カモクタインは柔らかく笑う。
「俺はやはりアイヌを信じたいのだ。それに万が一俺がいなくなっても、シャクシャインがいる。あいつさえいれば、メナシクルは安泰だ」
「では、手前も共に参りましょう」
そんなメナシクルの長を見ているうち、たまらなくなって庄左衛門は口にしていた。言いながら、
(何故俺はこんなことを言った)
カモクタインも驚いているようだし、もちろん自分でも驚いている。
少しのバツの悪さを感じながら、
「手前は和人です。文四郎殿とはさほど面識はございませんが、手前も共に参りましたなら、同じ和人同士として、万が一のこと、という程な危うい目には遭わぬかと思います」
(俺はやはり、この不器用なアイヌの人々を愛しているのだ)
思い、庄左衛門は言い切った。
カモクタインが静かに、しかし嬉しそうに頷くのを見て、
「それでは僭越ながら、手前、シャクシャイン殿へ休戦を告げに参りましょう」
(俺にも、庄太夫という後継ぎがいる。あれは親から見ても出来た子だ)
不覚にも瞼が熱くなるのを覚えながら、庄左衛門は慌ててシャクシャインの元へ戻った。
カモクタインは、死を覚悟している。ということは、それについていくことを決めた自分もまた、死を覚悟しているということに他ならぬのではないか。
田付新介がかつて己に言った、
(お前さんは、親父殿に似て何とも不器用だ)
再び脳裏に蘇ったその声と、会ったのは松前城でのたった一度だけなのに、妙に印象に残っている砂金堀文四郎の顔が重なって、
(不器用で良い。俺は俺なりの商売のやり方を貫くのだ。それで死ぬなら本望であろう)
戦いというのは、どうやら人の心を、妙に激情に駆り立てやすくするものらしい。このまま太平が続けば、きっと考えもしなかっただろうことを思っている己に苦笑しながら、庄左衛門は俯いていた顔を上げた。その視線の先にはシャクシャインが左手に弓を持って、微笑を含んだ目でこちらを見ている。
「長はやはり行くのか」
ああは言ったものの、彼もまたそのことを悟っていたらしい。庄左衛門の顔を見て口元をほころばせ、ほろ苦く笑ったシャクシャインを見上げながら、
「いや、手前も共に参ります」
庄左衛門が言うと、シャクシャインは大きな瞳をさらに大きくした。
ぎらぎらと光を放つその瞳に、まるで射すくめられたような気持ちを抱きながら、
「和人の手前が行けば、相手も少しは警戒するかもしれません」
と、庄左衛門はカモクタインに言った言葉をそのまま、シャクシャインヘも繰り返す。
「貴方達の長は、同じアイヌ同士だから騙すことはないと信じているようだ」
「そうだな。信じたいのだろう。それが長の性分だ」
シャクシャインは、彫りの深い眼差しを足元に向けながら頷いた。そして構えていた弓を下ろし、
「シュムクルの者どもよ」
闇へ向かって呼びかけると、揺らめいていた松明の動きが一斉に止まる。
「わが長、カモクタインはお前達の提案を受け入れた。これから単身、お前達の長、オニビシの住むハエのチャシへ向かうと言っている。よって、武器を収めよ」
腹の底から出てくるその声は、いつもながら太い。砦の壁や静内川の水面に反響して、まるで音楽を聴いているような、不思議な心地良ささえ聞き手に感じさせる。
そして、辺りは一斉に静まり返った。ただ川の流れる音だけが響き、そこから発する蒸気が辺りに漂う中を、カモクタインは二、三の部族の者と庄左衛門を伴って、新冠川方面へ向かって静かに歩いていく。
それを、メナシクル、シュムクル両部族の人間が、松明を掲げて神妙に見送る。砦の上から眺めると、二筋に並んだ松明の列はまるで、
(イルラ・カムイに送られていくような)
死の国へ死者を送る神へ、カモクタインをみすみす委ねてしまったのではないか、という痛烈な後悔がシャクシャインの胸を襲った。
(長はもう、戻ってこない)
なんといっても、長い間憎しみあってきた者同士なのだ。それに、仲直りの酒宴を開いて、文字通りお開きになった頃とは、時代もアイヌの意識も違ってしまっている。
(和人のせいだ)
和人の流入で変わってしまったのは、アイヌ達の生活ばかりではないことを、シャクシャインは動物的な勘で感じ取っていたのだ。
小さく縮んだカモクタインの背が、闇の中に消えるまで見送って、
「警戒を怠るな。コタンのほうともより緊密な連絡を取れ」
シャクシャインは、小声で部族の若者に命じた。
この後の模様を、後に土地の古老が語り伝えたところによると、
「(静内)川筋の酋長が抗議に出かけたところ、陥穴の上で(オニビシが)酒盛りをし、これを欺いて殺した……」
ということになる。
カモクタインについていった若者数人が、カモクタインと庄左衛門の身体をそれぞれに担いで、屈辱の涙を堪えつつ戻ってきたのは、それから半日も経たぬうちのことである。好戦的と評判のオニビシでも、二人の亡骸だけは礼にのっとって引き渡したらしい。
ともかくこうして、両者の抗争は再開されたのだ。
(長、それでも貴方はシュムクルを憎むなと言うか)
その報せが庄左衛門の手の者によってもたらされた瞬間、シャクシャインは、壁に一番近いところで胡坐をかいていたシュムクルアイヌを一人、射殺した。
その行動で、「オニビシがカモクタインを殺した」ことを悟ったシュムクルアイヌ達は、一気に力を得て、メナシクルの砦へ続々とやってきたのだ。
それに反して、
(長が死んだ。その代わりに、ウタフとオニビシがやってくる)
敵の主力さえもやってきつつある、ということを聞いた若者達の間に、たちまち動揺が走る。結果、メナシクルアイヌの戦意は萎え、攻撃の威力は見る間に衰えた。
シャクシャインがいるとはいえ、オニビシやオニビシの姉、そしてその夫であるウタフまでもが直々にやってきているとなれば、
(俺達は勝てぬ。こちらにいる「勇者」はシャクシャインだけである)
若者達がそう思うのも無理はなく、従って、
「相手は俺達の長を、卑怯な手段でもって殺したのだぞ! 正義は俺達にあるのだ。気力でもって戦え!」
いくらシャクシャインがそう叱咤し、態勢を立て直そうとしても、敗色は濃くなるばかりだったのだ。
そして砦に立てこもることなんと二年。気がつけば、傷を負いながらもとにかく戦っている、と言えるのは己の周りにいる「十四人衆」のみである。
松前藩の命令なのかどうかは分からないが、交易もとうに止まっていた。それでも庄太夫や助之丞らは、どこをどうしたものか戦禍をかいくぐって何とか食料を届けてきていたのだが、それも最近では絶望的に少なくなった。ために、その十四人衆たちでさえゲッソリと痩せこけて、目ばかりを光らせている。
(これまでか)
さすがの「勇者の生まれ変わり」も、砦のあちらこちらに転がっているのがメナシクルアイヌ達ばかりであるのを見、さらには、
(庄太夫にはすまぬことをした)
幼い頃から己の娘と戯れていた庄左衛門の子のことを思い、死を覚悟した。
コタンからは、皆の家族をも呼び寄せてある。以前にも軽く触れたが、この砦は川沿いの断崖絶壁にある天然の要害だったから、
「この砦に篭っていれば安心である」
シャクシャインは、部族の者達へ毎日のようにそう言い聞かせている。しかし、万が一この砦が破られたなら……今ではもう、その可能性も濃厚である……オニビシ率いるシュムクルアイヌは、得たりとばかりにメナシクルの各コタンへ攻め入るに違いない。
(かくなる上は、俺の死と引き換えにコタンの保障を頼むか)
とまで、シャクシャインは考え、すぐその後に、
(この天然の要害を渡してはならぬ。相手はあのオニビシだ。約束を反故にすることなど何とも思っていない)
と考え直すのが常になっていた。
副族長である己までもが死んでしまえば、メナシクルアイヌはそれこそ「全滅」である。己の後を襲うのがもしも己の息子、カンリリカであれば、彼はこの天然の要害を相手に言われるままに受け渡すだろう。
(アイツは頭のいい、穏やかで優しいのだけが取り得のヤツだ。全く争いのない平和な世でなら、アイツにでも部族長は勤まったろうが)
と、一応は彼も息子を評価してはいるが、残念ながら戦いは続いているのである。だからこそ、シャクシャインも己の息子を正式に後継者にすることをためらっていたのだ。カンリリカが部族長になったら、彼はおそらくその重圧のため、心身をすり減らして早死にするに違いない。
ともかく今の時点で分かっていることは、この砦が落ちたらメナシクルアイヌはシュムクルアイヌの支配下に入ってしまう、ということだ。だからこそ、鬼のような気力で持って、シャクシャインはその妻と共に戦いを続けていたのだが、
「待て、その攻撃、待て!」
皮が破れ、痺れた指先で、シャクシャインが何百本目かの矢を番えようとした時、どうしたことか不意にシュムクル達の攻撃が止まった。
「待て。両者とも、攻撃止めい!」
何とも拙いアイヌ語が再び響く。そちらを見下ろすと、槍を交えているアイヌ達をかきわけかきわけ、馬に乗った和人侍がやってくるのが松明に照らされており、
「松前藩の使いである! 我ら松前藩が仲立ちするによって、両者とも、これ以上の争いは止めよ!」
その侍は、声を限りにそう叫んでいるのだ。
そして案内されてシャクシャインの側へやってきた松前藩士は、
「松前藩四代目藩主、松前高弘様の意向である」
と、甚だ尊大な態度でもって、手にしていた書状を上下にぴらりと開き、示した。
「アイヌ同士が争いあって、力を削りあうのは大歓迎…」
の松前藩も、さすがにメナシクル側が潰れてしまうことまでは考えていなかったらしい。攻めるにしても、シュムクルアイヌがメナシクルをほんの少し追い詰める程度で良いと考えていて、事実そうだろうと踏んでいた。それに、いずれまた勢力を盛り返すだろうメナシクル側にも、その後はまたシュムクル側の力を削ぎ獲ってもらわなければならない。それなのに、
「このままではメナシクルが滅んでしまいます」
シュムクル側の相談役である砂金掘文四郎もさすがに慌てて、商場へ行かせた使者にそう告げさせた。文四郎もまた、松前藩の意図することをよくよく承知していたからこそ、の行動である。松前藩にしても、もしも文四郎の見通しが事実になるなら、これまた都合が悪いことには変わりはない。
それに、松前藩はその矜持にかけて言わなかったが、
「メナシクル、シュムクル、それぞれのアイヌの戦いを貴藩が裁ききれなければ、我が弘前藩の手もお貸ししましょう」
弘前藩家老の杉山吉成もまた、そういったことを松前藩家老の蠣崎広林へ書き送っていた。
もちろんこれは、大変な揶揄を含んだ恫喝である。
そのためもあって、
「なんの、他藩の介入を許してなるものか」
松前藩としては、いささか慌てたものと見える。藩の管轄下にある蝦夷での内乱を裁ききれぬとあっては、藩の恥辱でもあるし、悪くすれば幕府によって取り潰されるかもしれぬ。いうなれば、杉山吉成の言葉が決定打となって、
「松前藩が立会い、両者の代表者が新冠、静内両川の中間地点において仲直りすべく…」
ということと相成ったわけである。
大きな瞳を光らせて、その使者を睨むようにしながら見つめていたシャクシャインも、
(また和人に騙されるのではないか…)
もちろん、松前藩が「ただで」仲裁役を買ってでたとは思っていない。
(和人の絡むことには、警戒の上にも警戒を重ねたほうがいい)
そのことは、何よりカモクタインが、その死で身近な例を示してくれている。
しかし、これ以上シュムクルとの争いを続けても、メナシクル側には何の益もない。実際この時、もしも松前藩が仲介に入らなければ、メナシクルは存続し得なかったのである。
だから、それを察していたシャクシャインは、
「承知した」
言葉少なに言って、頷いた。むろん、彼は「庄左衛門の依頼によって動いた杉山吉成の手紙で、松前藩が両者の仲裁に踏み切った」ことを知らぬ。
とにかく、その答えを聞いて、松前藩からの使者もまた満足そうに頷き、去っていく。同時に砦へ攻め寄せていたシュムクル達も続々と引き上げていくのが見えて、
「戦いは終わった。女子供からコタンヘ引き上げろ」
虚脱したような表情で、シャクシャインは命じた。
少年時代から小競り合いは繰り返していたとはいえ、本格的な抗争を経験したのはこれが初めてである。いわばこの戦いが、シャクシャインの「初陣」で、
(憎むな、か。憎しみは何も生まない。それは分かるが)
第二の父とも慕っていたカモクタインの言葉を、心の中で繰り返しながら、
(しかし俺には出来ない)
「死んだ者の家族を労われ。野辺送りを済ませたら、俺は仲裁の場へ向かう」
シャクシャインは言って、自らも砦を離れた。松前藩の使者は、先ほどは何も言わなかった。仲裁に関する詳細は、後に追って、ということだろう。それまでにまず、この戦いで死んだ者たちをイルラ・カムイの手に委ねなければならない。
「戦が終わったから、ようやく弔ってやれる。庄太夫にも報せを頼む」
シャクシャインは自嘲の意味を込めた苦笑いを放ち、アットゥシで包んでいたカモクタインの屍を肩に負った。それを見て、生き残ったメナシクルアイヌたちもまた、思い思いに友や肉親の屍を負う。
コタンへ先に戻っていた村の人々は、彼らを涙ながらに迎えた。
習慣にのっとって、死んだ者たちの身体をまずは洗い清める。カモクタインと庄左衛門のそれは、
「俺がやる」
シャクシャインが買って出た。
この場合は、病や事故ではなく、戦死であるから「変死」の部類に入るかもしれない。しかし、シャクシャインは己の母が死んだ時と同様、二人を床に横たえた後で、家の玄関脇の壁を破り、夕暮れを待って屍の足から外へ連れ出すつもりでいる。
「庄左衛門も、そのように送る。それでいいな?」
側でその様子を見守っていた庄太夫を振り向くと、
「親父も、そのほうが喜ぶと思います」
彼も神妙な顔をして頷いた。
その間に、女達は死者に着せるための着物を縫う。近くの丘で、墓標にするための木を切り出すのは男の役目で、
「…幼い頃からずっと共にいたお前だから言えるのだが」
夜が明けて、春の空は皮肉なほどに晴れ渡っていた。他のアイヌの人々と共に木を切り出しながら、シャクシャインの子のカンリリカは庄太夫に向かって呟くように、
「今回ばかりは、親父のやり方は間違っていたと俺は思う。今回の戦いは、止めようと思えば止められたのではないか」
言いながら、マキリを振り下ろす。
「仕方ない。シュムクルとメナシクルの間には、積り積ったものがあったのだろう。同じように生活を脅かされたなら、俺もお前たちのように頭に血を上らせる。それが今回、爆発した、それだけの話なのではないか」
苦笑しながら庄太夫は答えた。最悪の結末になってしまったわけだが、父の庄左衛門も、決してこの結果を恨んでなどいないはずだ。
(本当のことだから、仕方ない)
実際、息子の庄太夫自身も、少しもメナシクルアイヌの人々を憎んでなどいないのだ。
しかし、カンリリカは激しく首を振り、
「俺は、お前にすまないと思っている。お前は俺達を憎んでもいい」
言うのである。
「親父は、長のように戦いを止めようとしなかった。俺の母親も、そんな親父を煽るばかりで、親父を止めようとする俺を罵った。カモクタインが、シュムクルの奴らの誘いにうかと乗ってしまったのも、戦いを止めようとしたからだ。今回の戦いのせいで、お前だって親父殿を殺されたではないか。もしも親父がカモクタインと一緒になって、命をかけて戦をとめようとしていたら、カモクタインもお前の親父も死ななかった」
(なんと)
いつになく激しい幼馴染の言葉に、庄太夫は思わずその顔を見直した。カンリリカはその視線を受けて、少し罰の悪そうな顔をしながらも、
「他のアイヌたちは、親父のことを勇敢だ勇者の生まれ変わりだなどと言うが、ただ戦うだけが勇敢であるということにはならない。戦にさせぬために戦うことこそ、実はより勇敢なのではないか。だから俺は、死んだカモクタインのほうが、俺の親父なんぞよりも余程勇者だと思っている」
言い切ったのである。
「お前は、そんなことを思っていたのか」
その言葉を聞いて、彼はようやく、父親である庄左衛門をシュムクルアイヌに殺された己自身よりもずっと、カンリリカのほうの怒りが深いことが分かった。
庄太夫より、恐らくは二、三歳ほど年上であろうカンリリカは、その父のシャクシャインを雄弁で勇敢であるとするなら、それとは正反対の温厚で寡黙な性質をしている。それゆえに今回、激情をたぎらせている若者達の中で、意外に冷静な表情をしていた……と、少なくとも庄太夫は思っていたのだが、
「そう思うなら、お前もなぜカモクタイン殿とともに、戦いを止める声を上げなかった」
「それを言われると辛い…しかし俺が言っても、親父は耳を貸さなかっただろうよ。今となっては愚痴だし、憶測に過ぎないが、カモクタインは本当のところ、最後の最後まで戦いたくなかったのだ。それに違いない」
小刀を墓標のニワトコへ振り下ろすその横顔は、かつて熊に襲われかけた庄太夫を、弓で助けてくれた時と同様、いつになく厳しい。
だから、
「それは良く分かるよ」
庄太夫はなだめるように頷いた。
どちらにしろ、カンリリカのほうがより怒っているのでは、
(俺はもう、怒ることができぬではないか)
思って、少しほろ苦く苦笑していると、
「だが、親父がその気持ちを台無しにした。結果がこれだ…いや、しかしこれは、お前が言うように、親父へ強く言えなかった俺のせいでもある」
「お前のせいばかりだとは言えないだろう」
話しているうちに、これも気持ちが高ぶってきたらしい。庄太夫は小刀を脇の切り株へ置き、少しずつ声の大きくなってくる幼馴染を再びなだめるように、
「こうなるのは、自然の成り行きだったのではないか? たとえシャクシャイン殿であっても、あの時のお前の仲間たちを止めるのは到底無理であったと俺は思う。もちろん、俺の親父もな」
庄太夫が言うと、
「うん」
カンリリカは、心持ち頬を膨らませながらも頷いた。
そうこうしているうちに、日高山脈の向こうにゆっくりと日が沈んでいく。切り出したニワトコの枝を払い、表面をすべらかにしたものを各々一つずつ担いで、二人はコタンのほうへと歩いていった。
その途中で、
「以前にちらりと聞いたが、お前は、俺の妹をお前の妻にもらってくれるのか」
前を歩いていたカンリリカが、ふいに足を止めて振り向く。
「ああ。そのつもりだ」
庄太夫が頷くと、そこでようやく彼は笑顔になった。
(よかった、いつもの彼だ)
庄太夫がホッと胸を撫で下ろしたように、カンリリカもまた安心した風で、
「他の和人ならいざ知らず、お前なら俺も信頼できる。妹を任せられる。親父はまだ渋っているようだが、俺が説得してやる」
父シャクシャインにはあまり似ていないが、やはり若者らしい笑顔で続ける。
そんな幼馴染へ、
「よろしく頼む」
庄太夫もまた、心から頭を下げながら、カンリリカの妹の顔を思い浮かべた。
アイヌの女性は、年頃になると口の周りと両腕に刺青をするのだが、彼も幼い頃から蝦夷に育っているだけあって、その風習を奇異に思ったことはなく、
(和人の女性が、お歯黒をするようなものではないか)
そんな風に、あくまで好意的に捕らえている。
今更であるが、庄太夫は和人である。しかもその親父が亡くなった今は、後を継いで鷹待にならねばならず、商売を有利に運ぶためには、
「アイヌと姻戚関係を結んでしまうのが一番なのだ」
松前半島において、今でも肩で風を切っている両浜組が常々吹聴しているように、アイヌと婚姻してしまうのが手っ取り早いと思われている。
しかし、当然ながら、利害の一致で行われる婚姻というものは長く続かない。和人同士でさえ尚更であるのに、異民族であるアイヌの人々と和人の婚姻が長く続いたかどうか。
実際に、蝦夷で和人との婚姻に積極的になっているのは、むしろ道南部に住むアイヌのほうで、
「和人との婚姻で、アイヌの血を薄くしたい」
と、心の中では思っているようなのだ。
そしてシャクシャインには、それも気に食わぬらしい。
「和人との婚姻など何だ。和人に頼らずとも俺達は生きてきたではないか。俺達の体に流れる血を、己で蔑んでどうする」
と常々言っていたから、庄左衛門の子である庄太夫のことを憎からず思ってはいても、実際に娘をやるとなれば、かなり渋るに違いない。
それでなくてもシャクシャインは、強面に加えてかなりの威圧感を持つ副部族長である。それに朴訥なアイヌ民族の中では、弁も立つ方である。若者にとっては、相対するだけでもほんの少し肝を冷やす存在ではあるが、
「何、実は親父もお前の親父のことを認めていたのさ。それに今回の出来事だ」
「ああ」
カンリリカがほろ苦く笑いながら言うと、庄太夫も頷いた。庄左衛門を死なせた負い目があるから、と、カンリリカは言いたいのだろう。
「野辺送りが済んだら、お前と妹との婚姻式だ。カモクタインも喜ぶ」
「だといいのだが」
未来に向けた事柄を話していると、ほんの少しだけだが心は明るくなる。ニワトコの木を担ぎながらコタンへ戻ってくると、
「だから、承知したと言っている。今は葬儀の最中だ。何度も言わずとも耳は良く聞こえている。お前達の国には、野辺送りの最中に己の都合を押し付ける習慣があるのか」
静内川から吹いてくる風に乗って、シャクシャインの怒鳴り声が聞こえてきた。
どうやら、カモクタインの野辺送りは半ばほど進んでいるらしい。アイヌの風習として、葬式の過程で亡くなった者の家を焼くのだが、その最中に、
「松前藩の使者が」
「そのようだな」
カンリリカと庄太夫が顔を見合わせたように、苛立ちを隠さぬシャクシャインと、松前藩士らしき武士の姿が、炎を上げて燃えているカモクタインの小屋の側にあった。
「分かっているなら良い。期限に遅れぬように」
それに対する藩士の態度は、あくまで尊大である。そう言い捨てて肩をそびやかした。
(何のアイヌごとき)
そう思っていることが、あからさまに目と態度に出ている。そして使いの者は、側までやってきていたカンリリカと庄太夫をちらりと見て、鼻を鳴らしつつ馬に乗った。
「親父。墓標が出来ました」
カンリリカと庄太夫が、シャクシャインへ恐る恐る声をかけると、
「聞いたか」
新メナシクル部族長は、これもまた忌々しげに吐き捨て、カンリリカが担いでいるニワトコの木を乱暴に受け取った。
「松前藩が余計な口を挟んできたおかげで、俺たちはシュムクルの奴らと仲直りせねばならん。明後日にその場へ来いと使いの者は言っている。仲裁の場はお前たちも聞いているように、シベチャリとニイカップの間の浜だ」
二人に向かって、付いて来い、というように顎をしゃくり、シャクシャインは歩き出す。すでにコタンの中央には、カモクタインや庄左衛門その他、今回の戦いで死んだ者たちやその家族が集っており、
「これから山へ向かう」
それらへ言葉少なに告げて、シャクシャインはコタンを離れ、今度は日高山脈へ向かって歩き出した。
アイヌの人々も、この当時の和人と同じく土葬である。通常の死、例えば病死や老衰などであれば、死者の家族は死者の身の丈に合わせ、前もって穴を掘っておくのが常識だ。
繰り返すが、今回の場合は「変死」の部類に入る。しかしシャクシャインは、
「常と同じように葬れ」
そう命じた。
特に長であるカモクタインには、女達が夜を徹して縫った新しいマタンプシとアットゥシアミブを着せている。掘った土の中へ死者を横たえ、彼らを悼む言葉を繰り返すのだが、
「しかし今回はその時間がない。後はすまないがお前たちに頼む」
シャクシャインは部族の者達を振り返りながら苦笑して、
「これから仲裁の場へ赴かねばならぬ」
と、カンリリカを見る。共にその場へ付いて来い、と言うのだろう。確かに期限が明後日だと、今から立たねば間に合うまい。
しかし、
「代わりに手前が行ってはなりませんか」
隣で一瞬、唇を噛み締めたカンリリカの様子を察し、庄太夫はそう申し出た。
「手前にとっても、砂金堀の文四郎殿は親の仇ですし、商売仇でもある。その顔を一度は見ておくのも悪くないと思いますゆえ」
「そうか。ならそれでも良い」
シャクシャインもまた、それ以上は追及せずにコタンヘ戻っていく。その後へ就いていこうとした庄太夫の背中に、
「すまない」
カンリリカが小さく呟いたのへ、
「何、構わぬよ。お前はお前の気が済むまで、カモクタイン殿の側におれば良いさ」
庄太夫は少し振り返って微笑った。するとカンリリカのほうも、限り無い感謝の念を湛えた瞳で彼を見つめ返してくる。
(カンリリカは、カモクタイン殿と話したいのだ)
軽く手を振ってコタンへ戻りながら、庄太夫はシャクシャインの背を見つめて思った。
死後の世界の概念は、アイヌと和人でずいぶん違っているように見えるが、本質は同じである。簡単に言えば、アイヌの人々は近しい者が死んでも、
「彼の世へ旅立っただけ」
と考える。この世には、肉体を神から借りてやってきたに過ぎず、従って悲しむには及ばない、というのだ。すなわち、死んだ者にもいつかまた会うことが出来る。
彼の母は彼が父親について商売を学び始めた十二、三歳の頃に亡くなったが、その時もアイヌの人々は、悲しむ父子をそう言って慰めてくれたものだ。
(だから、此度の戦いで亡くなった父のことも悲しむべきではない。肉親を亡くしたのは俺だけではない)
歩きながら、庄太夫が己に言い聞かせていると、
「庄太夫よ」
前を歩いていたシャクシャインが、不意に足を止めて彼の名を呼んだ。その背の半分を照らす西日に目を眇めながら、
「はい」
庄太夫が返事をすると、
「俺の娘婿になれ。カモクタインもきっと喜ぶ」
シャクシャインは言って、再び大股に歩き出す。
「はい、ありがとうございます」
「お前に感謝されるいわれはない。俺もそうした方が、これから何かと便利だと考えた。お前の親父の庄左衛門にも義理がある。ただそれだけのことだ」
言葉だけだと冷淡に見えるし、素っ気無いことこの上ない。しかし、
(泣いている)
シャクシャインがそこで左腕を挙げ、己の顔に当てた。そのまま乱暴に擦っているらしいのは、どうやら瞼の辺りらしいと分かって、
(カンリリカは、ひょっとするとこのような親父殿の姿を知らぬのではないか)
庄太夫は溢れんばかりの好意でもって思い、
(これから先、このことがメナシクルの人々にとって悪く働かねば良いが)
この小さなことを密かに危惧したのである。