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イランカラプテ  作者: せんのあすむ
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一 四十年

 津軽藩にいる杉山吉成が「俺は、かの石田三成の孫だ」と大声で言っても、誰も見向きもしなくなったのは、ようよう最近のことだ。


 関ヶ原の戦いに敗れ、石田三成の居城であった佐和山城も落城し、まだ頑是無い幼子であった吉成の父重成が、乳母の父津山甚内に連れられてはるか北、津軽にまで逃れたのはもう、三十四年も前のことである。


「三成殿を、実の親とも思うておりましたゆえに。この平太郎とともに逃れましょう」


 と言い言い、これもまだ二十歳になるかならぬか、という年頃だった津軽信建が、幼い重成の手を引いて、己と己の父の拠点である弘前藩へ導いた。


「若狭に、手前どもと日頃から懇意にしておる商人がおります。船で我らの藩へ参られよ。さすれば、北の果てのこと。徳川家とておいそれと手出しは出来ますまい」


 幼い重成に、懇々と諭す津軽信建の言葉には、誠実さが滲み出ている。なんとなれば、彼の烏帽子親は石田三成だったからであり、彼もまた、小姓として豊臣家に仕えた経験があったからだ。父津軽為信は、関ヶ原では東軍に組していたが、長男である彼は、西軍に組した。これも、信州真田家の例でよく知られているような、「生き残り策」だったのではなかろうか。そのため、津軽家への徳川家からの「褒賞」は、わずか二千石の加増であるに過ぎない。


 ともあれ、戦いが東軍の勝利に終わったからには、次男とはいえ大将の子が、その居城の近江佐和山にいつまでも留まっているのは危険である。


 琵琶湖を左手に見ながら、疲れたとぐずる幼子を、


「逃れねば恐ろしい鬼が来る。取って食われてしまう」


 と脅し、すかし、その手を引き時には負ぶいつつ、信建は夜を日についで若狭への道を辿った。もちろん、東軍の目を逃れながらの「行軍」である。


 やっとのことで敦賀の浜が見えた時、少しだけ後ろを振り返って、


「もう、我らの時代は終わりました。我らは負けた」


 小さな重成の手を強く握り締めながら、遠い目をして呟いたものだ。


 こうして一行が敦賀の浜へ到着したのは、佐和山が落ちてから一週間後である。


「ここから津軽まで、船で参ります。もう何も恐れることはありません」


 交易のためにやってきていた商人を後ろに伴い、津軽信建が言うと、一行はやっと、安堵のため息を付いた。


「もう鬼は来ないのか」


 舌足らずな幼い声に思わず破顔した信建は、その前にしゃがみ込み、


「はい、参りません。ゆえに、若もご安心を」


 彼自身もようやく安心して微笑んだのである。


「私はこれにて一旦、失礼致します。大垣に参っておる父と、向後の相談がございまするゆえ。ですが、ご安心召されよ」


 たちまち不安そうな目をする幼い重成の手を、安心させるように叩きながら、


「私もすぐに後を追いまする。船の商人どもは信頼できる。彼らを私と思い、何なりとお申し付けなされ」


 信建は言い、


「しからば、御免!」


 彼らを船に乗せた後、大垣城を包囲していた己の父の元へ駆けて行ったのだ。


 幼い重成には、全てが初めて経験することばかりである。陸地沿いに北へと向かう船のへりへ小さな両手をかけ、流れすぎていく景色をぼんやりと眺めていると、


(もう、我らの時代は終わりました)


 この間までの「逃避行」中、津軽信建が繰り返し呟いた言葉が、幼い頭に蘇る。


(我らは負けた…負けたから、逃げなければならないのか)


 いつも忙しそうに京大阪と佐和山を往復していたため、居城にあまり落ち着くことのなかった父三成のことは、あまり良く覚えていない。しかし、


「お律儀な方、情の厚い方」


「教養と学の深い方」


 事あるごとに周囲の者が褒めていたように、父は子である自分には、大変に優しかったように思う。


 船上を吹きすぎてゆく風が、水の匂いを運んでくる。それがついこの間までいた湖畔の佐和山を思い出させて、


(父上。我らは負けた…父上はもういないのか。あの城にはもう戻れないのか)


 喉の奥にこみ上げてきた熱い物をぐっと堪えると、己でも驚くほどに情けない音がそこから漏れた。


 その時、


「イランカラプテ。お前も蝦夷に行くのか?」


 遠慮のない声が重成に浴びせられて、彼はいつの間にか俯いてしまっていた顔を上げた。見れば、彼よりも余程仕立ての良い物を着ている、彼と同年か、ほんの数年年上か、といった風な少年であり、


「いや、違う。行く先は、ツガ、ツガル、というところらしい」


 無礼者、と、叱ることさえ忘れている。素直にかぶりを振りながら、つっかえつっかえ答えた重成に、


「俺と同じ商人の子か? 津軽は良いところだ。暖かいより寒いほうが多いが、食うものは美味い」


 相手はさらに近づいて、頷きながら言葉を発した。


 武士の子である己にかける言葉にしては、あまりにもぞんざいすぎる。だが無礼すぎるがために、反って怒ることを忘れたまま、


「さっきお前はイランカラプテ、と言ったな。それは何だ? お前は何者だ」


 逆に重成はその少年に問い返した。


 すると、


「俺は越後の商人の子で、庄左衛門だ。イランカラプテ、というのは、蝦夷の夷民が、初めて会った人への挨拶に使う言葉だ。響きと意味が気に入っているので、俺も使っている。津軽も良いところだが、蝦夷もよいところだぞ」


 庄左衛門と名乗った相手は、はきはきと答える。それへ、幼い重成は、丸い目を見張って頷くばかりであった。


「で、お前は?」


「私か? 私は石田三成の子だ」


 重成が言うと、


「お前が?」


 その少年は重成よりも目を丸くし、


「一度も会ったことはないが、俺は、てんか様(秀吉)が好きだった。だから、てんか様ゆかりの人間も好きだ。助けてやる。関ヶ原では残念だったな」


 次に白い歯を見せて、なんとも人懐っこく笑ったのである。


(イランカラプテ……それから三十年以上か)


「杉山吉成。右の者、千三百石知行、御証人役加判」


 津軽藩家老の言葉に「ありがたき幸せ」と平伏しながら、


(とんだ茶番だ)


 腹の中では、三十台半ばに差し掛かった己自身を杉山吉成は笑っていた。


(これで俺も、すっかり津軽の人間よ)


 かつては五奉行筆頭の家柄が、今はたかが東北の一藩から、俸禄をもらってありがたがらねばならない身分なのである。


 数年前に亡くなった父重成は、


「あの折に西軍が勝っていたなら、お前は関白家筆頭家老の跡継ぎであったかもしれぬものを、このような北の果てでむざと」


石田の名を大っぴらに名乗れぬことを、ことあるごとに嘆いていた。名乗れば大坂方を目の仇にしていた徳川将軍家は、その面目にかけて、それこそ北の果てまでも「石田の跡継ぎ」を追及したに違いなく、そうなれば、


「命を助けてくれた信建の家にも累が及ぶ……」


 ということになるからだ。そのために、三成の孫である自分、吉成は、津軽信建の娘を妻に迎えて、姓を「杉山」と変えた。それもこれも、徳川の耳目を避ける為である。


 幼い頃は素直に(そんなものか)と思い、祖父や父を気の毒にも感じたものだが、


(祖父は不器用だったのだ。大軍を指揮できる器ではなかったのだ)


 今ではそんな、冷めた思いしか浮かばない。


 どちらにしろ、吉成が津軽で生まれて五年目には、大阪の役が起きて豊臣家は滅び、徳川江戸幕府の時代になっているのである。


 幸い、と言っていいのか分からないが、そのために徳川も世間も、石田三成のことなどすっかり忘れたかのようだった。その後、ようやく訪れた太平の世を皆が喜んでいる折に、「我は石田の子孫なり」と言ったところで、万が一にも味方が現れるわけではないし、


「なんだ、古いいくさで敗けた将の子か」


 そんな風な冷笑でもって見られるばかりだということを、何よりも亡くなった父自身が、一番よく知っていたに違いない。


「我等がこのような北で果てなければならぬのは、負けたからだ」 


 父は繰り返しながら歯軋りし、


「何より小面憎いのは、蛎崎の奴らだ。さんざ、我ら石田の引き立てを蒙っておきながら」


 と、海峡を隔てた蝦夷渡島の南端、松前に城を構えて、今では「松前藩」の主に治まっている人物を、名指しで憎んだ。どうやらこれも今は亡くなっている彼の乳母の夫、津山甚内から、事の経緯を聞かされていたらしい。


 父重成がそう言う所以は、豊臣秀吉によって天下統一がなされた時に遡る。


 これまでにも蝦夷において、コシャマインとの戦いで名を挙げた武将、武田信広を祖とする蠣崎氏と、アイヌの人々との間に断続的に戦いは続いていた。その戦いの間に、蠣崎氏は付近の小豪族を従え、次第に蝦夷の和人たちを支配する立場になっていく。そして武田信広の孫、蠣崎義広の代になって、蝦夷にやってくる諸国商船から徴税する権利を与えられた。身分的には代官であったが、実質的には蝦夷の支配者になりつつあった、といっていいかもしれない。


 それまでも細々と続いてはいたが、まださほどでもなかった和人の蝦夷進出が、いきなり本格的になったのも、実にこの頃からである。それに、二百年前のコシャマインの戦いで負けてから、アイヌの人々の生活はますます和人に圧迫されるようになった。アイヌの人々が経験したことのない疫病も流行したし、和人との諍いも格段に増えた。


 それでもアイヌの人々は、戦いを終える儀式をした後は、互いにその恨みを忘れようとする。和人にとっては、まさに「お人よし…」以外の何物でもなかったろう。よって、和人との大規模な戦いを何度か経ていたにも関わらず、


「和解したのだから、憎むべきではない」


 それからも、蝦夷地へどんどん進出してくる和人へ、恨みを忘れて親しみを込めた挨拶を続けたのだ。


 そして天正十八(一五九〇)年十二月、蠣崎氏五代目当主、慶広は、秀吉によって志摩守という大名に取り立てられた。この時に、


「いずれ蝦夷にも殿下の恩恵を施すためにも、今まで蝦夷平定に力を尽くしてきた蛎崎の力は必要です」


 石田三成がこういった口添えをしたので、蛎崎は何の咎めもなく大名になれた……と、少なくとも父の乳母の夫である津山甚内は思っていて、己の憤りをそのまま重成に伝えた……のである。


 機嫌を良くした蛎崎慶広は、それから数年後の、文禄二(一五九三年)一月六日のこと。彼と素朴な取引を続けていたアイヌの人々を集め、


「志摩守となった俺の言うことを聞かなければ、関白殿下が大軍を率いて蝦夷へ攻め入ってくるぞ」


 と、脅したのだ。この話が伝わった折も、


「ほんのご愛嬌ではありませんか。殿下はそれだけ、夷民にも恐れ、敬われているのでございます」


 と、石田三成が口添えをして、秀吉の名を勝手に使った蛎崎をかばったのである。もっとも秀吉にとっては、はるか北の果てに住む異民族のことなど「蠣崎ごときで治まるのなら、それはそれで良いわ」といった程度のことだったかもしれないが……。


 ちなみにこの言葉は、蠣崎慶広が秀吉からもらったという朱印状の、


「諸国より松前に来る人、志摩守に断り申さず狄の嶋中自由に往還し、商賣せしむる者有るに於ては斬罪に行う可き事。志摩守の下知に相背き夷人に理不尽の儀申懸る者有らば斬罪に行ふ可き事。諸法度に相背く者有るに於ては斬罪に行う可き事」


 という、何とも物騒な内容が拠り所となっている。


 大雑把に言うと、志摩守である蠣崎慶広の許可なしに蝦夷地へ行ってはならないし、ましてや商売などしようものなら斬罪になる、アイヌという異人が何か不始末をしでかした時は斬っても構わない、これらの決まりごとに違反するものも同様である、そんな風な意味である。何とも思いあがった条文もあったものだ。


 アイヌの人々は、地位や名誉とは無縁である。己の中にあるのは、部族をまとめる長老エカシと、彼らがカムイと呼ぶ自然の神のみである。昔の和人が信じていた「八百万の神」とニュアンス的には似ているかもしれない。とにかく、そんな人々を集めて、


「関白殿下が云々」


 と厳かに告げたところで、その官位の意味する所を果たして彼らが理解したかどうか。よくて茶番劇としか受け取られなかったに違いない。々は抵抗したくとも出来ぬ状態に、ますます追い込まれていった。




 慶長四(一五九九)年に秀吉が亡くなると、蠣崎慶広はちゃっかりと家康に擦り寄った。そして家康から改めて築城の許可をもらって、


「藩主なら藩主らしい城がいる」


 大喜びの彼は、それから二年の歳月をかけ、松前に福山城を築いたのである。


 そして慶長九年、蝦夷全土の地図と己の系譜を差し出した上で松前の姓を許され、松前藩領主松前慶広となった。秀吉の頃に認められていた蝦夷支配をより強く保証された、というわけで、


「これが江戸幕府を開かれた将軍家直々の黒印状である。これより、お前達と和人は松前藩を通してしか交易してはならぬ」


 建築されてから三年程しか経っていない福山城内には、まだどこかに木の匂いが漂っている。その大広間に集めたアイヌの代表者たちへ、慶広は大いに肩肘張って、そんな風に主張するようになるのだ。


 黒印状というのは、要するに「お墨付き」である。これにより、松前慶広は正式に松前藩主として認められたことになる。


 おまけにその二年後の慶長十一年に、言葉の上でだけではなく実際に、松前藩は渡島半島亀田、同半島熊石へ番所を置いて、これより先の和人の立ち入りを禁止したし、蝦夷へ行く和船の検閲を松前において始めるようになる。


 お墨付きにしても、番所にしても、そういった概念すらそもそも無いのだから、どれほどの価値を持ち効果があるのか、当然ながらアイヌの人々には分からない。それに、関白殿下から江戸幕府、といった風に和人の支配者がコロコロ変わることにもついていけぬ。


 つまり「和人のやることは全く理解できない」わけだったのだが、


「何だ、つまりこれからは、松前藩という国としか交易できないということか」


 そこのところは、何とか理解したらしい。


 この黒印状では、和人との独自交易が禁止されたというだけで、樺太や遠くはシベリアの人々との交易まで禁じられたというわけではない。しかし松前藩は、この宣言と同時に「場所請負制」という制度を設けた。


 この制度は、松前藩がそれに仕えている家臣へアイヌとの交易権を与えたもので、交易権を得た家臣は「知行主」と呼ばれた。これらの知行主は、商場と呼ばれたとして定められた蝦夷六十一箇所のそれぞれを管轄し、年に一回そちらへ赴いて、アイヌとの交易を行う。米を生産できず、アイヌの人々との交易収入がほとんど全てだったと言っていい松前藩独自の政策である。


 平たく言えば、以前は蝦夷の好きなところで交易できたが、場所を限っての取引にする、その場所も、松前藩の許しがいちいちに要るということだ。


 アイヌと和人の間には、もともと前々から積るものもある。そこへもってきて松前藩が、手前勝手な都合ばかりを押し付けるものだから、


「そんな面倒なことは困る。それはそっちだけの都合だろう。我々の生活を何だと思っている。我々はお前達の奴隷ではない」


 といった具合に、和人へはっきりと嫌悪を示すアイヌばかりではなく、比較的温厚なアイヌまでもが、和人へ向かってそこはかとない敵意を抱くようになってしまった。


 ゆえに比較的温厚派であるアイヌ達、例えばヨイチ(余市)の大将、ケクシケなどは、


「これではいかぬ。和人と争うのは得策ではない」


 そんな危機感を抱いた。


 その頃、松前藩では松前慶広の孫、公広が藩主となっていたが、ケクシケはその黒印状を引っ込めてくれるよう、また和人による不当な取引を改善してくれるように、松前藩に直談判に行った所、何と逆に良い様に蹴られ殴られ、半殺し同然にされたうえで


「逆らうなら、お前の髭と髪を切る」


 そう脅されて、追い返されてしまったのだ。


 アイヌの人々にとって、髭を切られるというのは重罪を犯したことを意味する、何物にも耐え難い侮辱なのだ。こうして、アイヌの人々は、抵抗したくても出来ない立場にますます追い込まれていったのである。


 また、杉山が生まれた慶長十五(一六一〇)年には、現北海道渡島地方南西部、松前半島のほぼ中央にそびえる大千軒岳から金が出ることが分かっていたので、山に金山番所が設けられている。和人たちが金の発掘のため、人々を派遣したのは言うまでもない。


 日本における全ての金山銀山すなわち鉱山は、江戸幕府が定めた法律「山方三法」により、直轄であることが当時の常識だったが、千軒金山は何分、調査するための人間を派遣しようにも遠すぎる。よってこの金山だけは、寒冷地のため当時の技術では米を生産できぬという理由もあって、松前藩の直轄とされた。


 それ以降は、金山だけではなくて、川からも砂金が獲れることが分かった松前藩は、千軒岳周辺の川を調査するだけではなく、その調査の手を北海道道南の日高地方にまで広げることになる。しかも当初は松前藩主、あるいは藩の武士自らが取引場所へ出かけていたものが、


「面倒だし、手間だし、何より商売の仕方を知らぬから」


 というわけで、藩としては商人へ取引を委ねることに決めた。そのためもあって、松前慶広は以前から面識のあった愛知郡柳川村出身の二人の商人を呼び、彼らにアイヌとの交易を任せたのだ。後述するが、このことから松前藩は一つの藩としての面目を大いに保ち、逆にアイヌの人々の立場は一気に弱いものになってしまったと言える。


 先に「松前の奴らは小面憎い」と重成が評したのも、実に右のような経緯があったためだ。昔は格下であった相手が、今は自分よりも上の立場で、裕福な暮らしを送っているように見える。しかもその相手は、津軽海峡を隔てて目と鼻の先に住んでいる、とあっては、


(父が悔しがるのも無理は無いが)


 もらった目録を捧げ持って、津軽城内にある己の部屋へ戻りながら、杉山吉成は苦笑した。


「さんざ我ら石田の世話になっておりながら、あっさりと掌を返しおって、おのれらばかりが良い目を見おって」


 憤りと悔しさで、ほとんど毎日歯軋りしながら、夕暮れの北の空を見上げて父は言ったものだ。


(過去のことを今更言ったところで、どうにもなるものではない。石田の血を引いているといっても、もう今は津軽藩の一家臣として生きていくしかないのだ)


 その点、昔を知らぬ吉成のほうが、そう悟るのが早かった。これは特に彼が薄情だとかいうわけではない。「滅びた家中では良い身分だった」などと告げられたところで、己の生まれる前のことなのだから、甚だ現実味が薄かったためだ。


 父も使っていて、己がその後にもらったこの部屋から、父と同じように北の方角の襖を開き、晩秋の空を眺めると、


(あれは何の鳥であろうか。蝦夷の空へでもゆくのであろうか)


 大きな鳥が二、三羽、ゆうゆうと輪を描きながら飛んでいた、かと思うと、それらはついと身を翻して北のほうへ向かっていく。

いつものように何気なくそれを眺めやっていると、


「庄左衛門殿、お見えにございます」


 反対側の襖の外で声がした。


「おお、見えられたか。こちらへ」


 吉成が答えると、さらりと襖が開いて、


「近くまで寄りましたので、ご挨拶に参りました。イランカラプテ」


 廊下に平伏しながら、幼い子を伴った商人が言う。


「ささ、こちらへ。火の側へ。小さき者は寒かろう」


 相変わらずの挨拶に微笑をもらしながら、吉成はいたわりをこめた言葉をかけた。


 初老に差し掛かったこの商人は、かつて父重成が津軽へ逃げた折に、父と身分を越えた友情を結んだという。重成が亡くなってからも、蝦夷の珍しい土産や風土語りなどをもたらしたりする。吉成も幼い頃から、庄左衛門の語る蝦夷のことを、目を輝かせて聞き入ったものだ。


「ほれ、何をしておる。ずいっと中へ。遠慮のう」


 まだ遠慮している風な親子へ、吉成が繰り返し言葉をかけると、庄左衛門は年遅くにもうけた息子に、可愛くてならぬといった風に細めた目を向け、


「ご家老が仰せじゃ。火に当たらせて頂くよう」


 ごく自然な風に言うのである。また、その幼い息子も素直に吉成へ感謝の言葉を述べ、小さな両手を火にかざす。


(父も、こういった彼が好きになったのだろう)


 吉成は、目の前の親子を見ながら思った。彼らの振る舞いには、無遠慮といったものとはまた違う、ある種の心地よさがいつも漂っている。


「ところで、本日はどのような話を持ってきてくれたのか」


 吉成が水を向けると、「左様左様」庄左衛門は、近頃はとみに肉付きの良くなった顎を引いて、口辺に微笑を浮かべ、


「手前ども、しばらくのお暇ごいに参ったのでございます」


「なんと」


「いやいや、遠くへ参る、というわけではございません」


 驚く吉成へ、庄左衛門は分厚い右手を振った。


「このたび手前ども、杉山様にご紹介いただきました最上の助之丞や、ほれ、前々から申し述べておりました尾張の市座と共にな、正式にアイヌの相談役に任じられまして」


「ああ、そういうことであったか」


「はい。弘前の御歴々ともご縁が切れるわけではございません。これより松前藩配下としての交易を任されますわけで、はい。そうなりますと貴藩とも交易を……ということになりましょう。すべてこれ、両浜組の働きかけによりますもので」


「そうか。それでは私も藩の城代家老として、これからもますますお主らを贔屓にするよう、我が君に働きかけよう」


「ありがたいことにござりまする。なれど」


 安心したように頷く吉成に向けている庄左衛門の微笑は、さらにおかしげにゆがむ。


「なれど?」


「いやはや、手前、父と共に初めて松前のお城を訪ねました折のことを、また思い出してしもうて、つい。まことに失礼をば致しました」


「ははあ」


 納得したように頷きながら、吉成の顔もまた、おかしそうに歪んだ。


 庄左衛門が思い出した話、というのは、先述した松前二商人が、松前藩に莫大な運上金を納めるようになって、間もない頃のことである。


 通常なら松前藩の財政は飛躍的に豊かになるはずであったのに、


「まだ足りない。何とかならないか」


 初代の松前慶広は、彼に招かれた商人の一人、福島屋の田付を相手にそんな風に零していたのだ。


「父もあの時は、笑いをこらえるので苦労したと申しておりました」


 田付と共に呼び出されていた庄左衛門の父もまた、その時は顔にこそ出さなかったが、心の中で呆れ返っていたのだという。


「ほんの少しばかり贅沢したところで何あろう。俺には蝦夷という、無尽蔵に宝を吐き出す山がある」


 いささか奢ってそんな風に思っていたせいか、松前藩を立ち上げた頃からもう、藩の経営は危うかったのだ。


 「ほんの少し」「ほんの少し」と言いながら、それが過ぎてしまうのは、人の常である。その「ほんの少し」が積み重なって、自覚が出てくる頃には手遅れ、というのもよくありがちなことである。


 日高の交易場で、来年春のニシン漁について打ち合わせをしていたところだった田付は、


「巷では蝦夷の春、その三ヶ月ぽっちの間にニシン漁へ参加すると、一年は楽に暮らせるともっぱらの噂なのでござりまするがなあ。いやいや、こちらの気候もお殿様の御懐も、いつまでもお寒いということで」


 商談を中断させられた、という不機嫌さを隠さないむかっ腹を立てた声で、しかし上辺は笑みを絶やさぬまま言った。日高からここ、福山城まではもっとも速い船でも半日はかかるのである。


「…お前はいつも一言多い」


 田付の不機嫌をよく承知している慶広は、これまた仏頂面で言葉を返す。父の側で頭を下げながら二人の会話を聞いていた、その折はまだまだ頬の赤かった庄左衛門は、素直に吹き出しそうになるのを辛うじて堪えていたものだ。


 彼ら親子の様子を知ってか知らずか、彼らの前に平伏している田付は、


「ありゃ、お殿様にはまことにお心疲れとは存知ながら、出過ぎたことを申し上げました。お許し下されませ」


 如才なく言いながら、藩主にぺこぺこと頭を下げる。下げながら、


(武士というものは、これだから)


 などと腹の中で舌を出しているのだ。武士とは違って商人は、頭を下げることをもとより何とも思っていない。頭というものは何度下げても金を取られることなどないなのだから、下げておいて損はしないという勘定だ。


 それにしても人間、豊かになると次に気になるのは己の血筋らしい。よって松前慶広も、


「田舎大名と侮られぬよう、家の格をもっと上げたい」


 と考えて、財に物を言わせ、京の公家から奥方を迎えたのだが、


(たかだか実質九千石の僻地大名の分際で、公家の奥方なぞを迎えたのは分不相応というものだ。思いあがりも甚だしい)


 こんな風に、事あるごとに雇い主である慶広の愚痴を聞かされながら、田付新助はそう思っている。もともと上方に近い商人であったから、洗練された都会の実情というものも当然ながら良く知っているのだ。


 それでも田付は、


「いや、手前どもには、お殿様の仰りたいこと、ようく分かってございます」


 慰めるように言い言い、慶広から見えぬよう、袂から出した扇子で口元を覆ってこっそり笑った。


「手前どもも、アイヌどもへの取引条件を少々厳しくしようかと考えておりました次第で」


 彼は既に、この城から少し離れた所にある松前に福島屋を構えている。城のある福山には、慶広に招かれてやってきたもう一人の材木商、建部七郎右門元重がやはり店を構えていて、エゾマツなどを切り出し、諸藩へ販売などもし始めているところだった。


 この二人、蝦夷に来る以前は特に柳川浜と近江の薩摩浜、つまり海に関わる商取引を行っていた浜仲間である。柳川浜、薩摩浜、二つの「浜」を合わせて蝦夷地では「両浜組」などと呼ばれていた組織を形成していた上に、北陸や敦賀方面の運搬を担当していた商売人仲間との結びつきも強かった。


 江戸時代においては、ひとつの家が大名として認められるためには、その領土の石高が一万石は必要である。一万石でようやく大名としての格が与えられるのだが、


(たかが九千石の田舎者めが)


 田付が心の中で嘲笑ったように、松前藩の石高は実際のところ九千しかなかった。


 紀元前三世紀には、コメ作りが現・青森県の津軽平野にまで伝わっており、そこに水田が広がっていたことが分かっている。しかし、技術の伝播はそこまでで、江戸時代になっても、冷帯に属する蝦夷でコメ作りが行われたという記録は残っていない。


 繰り返すが当時、松前藩において、米の生産はどうみても不可能だったというわけだ。それでも大名として認められたというのは、ひとえにアイヌの人々との交易の恩恵、すなわち両浜組からの運上金のおかげを蒙っていたからである。


 この運上金を幕府に納めることでもって、初代当主の松前慶広以降、代々の松前藩主は江戸城においても上位の外様大名並の―例えば、五万石以上の大名でなければ入ることが許されぬ江戸城柳の間へも出入り可能といったような―扱いを受けることになったのだ。


 五万石以上の大名並の扱いであるから、暮らしぶりもそうあらねばならない、と考えたわけではないのだろうが、松前藩主の生活もまた、五万石級であったらしい。それは何も当主自身の濫費や参勤交代にかかる費用によるものばかりではなく、代々の当主が迎えた公家の奥方その他女性の、天井知らずの生活ぶりのせいもあった。


 何様、公家の人々というものは、贅沢は知っているが倹約を知らない。であるから、公家の奥方を迎えた初代慶広の頃からもう、松前藩の経営状態はいささか危うい。


 やがて幕府の取り決めによって、諸大名の奥方は江戸に留め置かれることになる。初代将軍家康や二代秀忠の頃は、参勤交代や諸大名の正室について、まだ正式に決められていたわけではなかったのだが、大阪の役と前後して、家康は諸大名の奥方を江戸へ住まわせるよう、命令を出していた。


 もともと、女というものは物見遊山や享楽を好む生き物であると相場が決まっている。それなのに自由に出かけることを禁じられ、大奥に押し込められている女性たちの欲求不満の解消手立てといったら、やはり食うことと着飾ることくらいしかなく、


「米を生産していないと言っても、海からも山からも様々な物が無尽蔵に獲れる蝦夷との交易のおかげで、お国元は豊かである」


 そんな風にしか聞かされていないから、彼女らの欲求はまこと、留まることを知らなかった。さらには太平の世を迎えて、何もかもが贅沢になっていたせいと、


「あちらの御家は金銀の縫い取りの内掛けをお持ちである」


「何某の御家は京の呉服屋から鼈甲の簪を大量に仕入れたそうな」


 という、女性特有の妙な競争心もあって、生活はますます派手になる。


 従って、五万石級の収入がそのまま出費となるだけなら差し引きゼロということで、貯蓄が出来ないということを除けば、まだ問題は無かったと言えよう。しかし人間、一旦身に付いた生活水準を下げるのは容易なことではない。時代が下っても、相変わらず先述のような放漫経営を続けていたために、


「かえって借財が増える…」


 といった悪循環になっていたのである。繰り返すが、松前藩初代からのことである。


 従って、その分のしわ寄せはどうしても松前藩が独占交易を行っている蝦夷、すなわちアイヌたちへかかる。


「いやさ、蝦夷は確かに宝の山でござりまするが、そのお宝を取り出すには効率が悪いようで。その効率の悪さが、おあしが足りぬということに繋がっておりますのでしょう」


 こちらへ向けられている田付の額は、相も変わらず、石の塊を左右に一つずつくっつけたような風情で、ひどく突き出ている。それのおかげで、前髪などはかなり後退しているのだが、本人はそれを嫌がるどころか、


「この額のおかげで、手前の特徴を相手様にすぐに覚えていただけますので、商売にはかなり得をしているのでございますよ」


 と嘯く。今日もそれをてらてらと光らせながら、


「足りねば、あるところから持ってくるしかございますまい。そのためには、ともすれば怠けようとするアイヌ達の尻を、もっと強く叩くことでございますよ」


 しれっとした顔で言ってのける田付に、


「そうだな」


 松前慶広もあっさり頷いた。「あるところ」というのはもちろん蝦夷のことである。


 慶広も慶広で、


(あくまで利潤のみを追求する、唾棄すべきあくどさである)


 たっぷりした豊かな頬に、いかにも愛想の良い笑みを浮かべている目の前の近江商人を、腹の中で軽蔑していた。事実、田付や建部がもしも自分の藩士であったなら、こうやって対峙する都度、その顔に唾を吐きかけていたかもしれない。


 商売のことはまるで分からぬし、そもそも「金を扱うのは卑しい身分の者がすることだ」と考えているから、そのことにはさほど触れぬようにしているが、たまさかに漏れ聞く彼らの商売のやり方は、藩主である松前慶広自身でさえ気に食わぬものなのだ。


 しかし、彼らが「やり手」であるために、藩が潤っていることは事実であるから、これからも彼らに頼らざるを得ないということも、彼は重々承知している。


 だもので、


「お前達の良いように仕置きせよ」


 重ねて松前慶広が言ったのを、田付は平伏して受けた。この言葉で、アイヌの人々の半奴隷化は加速したと言っていいだろう。


 立ち去り際、廊下に膝を付けながら、年の割にやや髪が薄い頭を下げかけた田付は、何を思ったか再びその顔を上げ、


「お殿様、何度も申し上げますが、商売に情けは無用。商売をする折の最大の敵は、己自身の情け心にござりまする。これからも手前どもが呼び寄せた越後高田、越前高浜などの商人ども、続々とこの蝦夷へ参ってくるはずにござりまするが」


 ニヤリと笑った。


「相手に妙なチエをつけてはなりませぬし、そうすること一切まかりならぬと手前、きつうきつう申し聞かせる所存にて。幸い、アイヌどもは我らの言葉を覚えようともしない。我らのように、商売の記録を文字にして残すこともない。幕府公儀へも良いように報告出来ますなぁ。ではこれにてまことに失礼致しまする」


 襖を閉めつつ田付がそう言い放ち、それに従って庄左衛門親子も立ち去った後で、


「やはり一言多い」


 これもいつものことながら、松前慶広はそう呟いて苦い顔をしたものだ。襖の外からそれを漏れ聞いてしまったものだから、


「いやはや、まだまだ小僧の身でありながら、あの折は笑いを堪えるのに苦労致しました」


 その時の様子を、重成と吉成親子に繰り返し語っては、庄左衛門は言葉どおり、「いかにも笑いを堪えている」といった、苦しげな表情をする。そして今でも、


「両浜組、松前藩、と聞きますと、どうもその折のことが思い出されましていけません」


 顔の前で利き手を振って、彼は言うのだ。


 もっとも庄左衛門が苦しげな表情をするのは……これは杉山吉成にも告げずに彼の心の中に秘めていることである……その折に襖を閉めながら田付が言った、


「お前さんは義理堅く、情に厚すぎる。商人には向いていないね……」


 その言葉をも同時に思い出しているためでもあるのだが。


 そんな彼の口から飛び出したもうひとつの話題が、「アイヌの英雄」である。


「なにさま、倅よりも一回りは年上で、手前から見たら息子のような年頃だが」


 と、庄左衛門は、その息子の頭をなでながら、


「矢を射れば百発百中。空飛ぶ鳥は必ず彼の両手の中に落ちてくるかのようで。弓には少々劣る腕前ながら、槍を取らせてもコタンの他の者にひけは取りません。一対一なら、彼に敵う人間はいないでしょうな」


 手放しで、メナシクルコタンの後継者とやらを褒めつつ、


「だから、彼の機嫌を損ねぬようにせねばならぬ。双方にニンマリとしてもらえるように取り持つのが、商人道。損して得取れ、が、商売人の心意気というものでございます」


 かつ、笑いながらそう言った。


(商売のことは良く分からないが)


 庄左衛門のそんな考え方が何とも好ましく、


「親父殿が好きか。蝦夷のアイヌどもをどう思うか」


 向かい側で幼い両手をかざしている彼の息子へ吉成が尋ねると、


「はい。将来は父の跡を継いで、父のような商人になるのが目標です。アイヌ民話のポンヤウンペも、アイヌの言葉も好きです」


 少年は、いかも庄左衛門の息子らしく、ハキハキとそう答えたものだ。


 息子の答えを聞いて、しきりに照れる庄左衛門が、「では本日はこれにて」と弘前城から退出して行った後、


(アイヌのポンヤウンペ、なあ)


 杉山吉成は火鉢へかざした両手をこすりながら、庄左衛門から聞いた、もうひとつの話を思い出していた。


(メナシクルのシャクシャインか)


 庄左衛門には言わなかったが、蝦夷にはすでに諸藩から多くの間諜が入り込んでいる。


 彼らがもたらした情報の中に、「メナシクルコタンの跡継ぎ」の話もあった。それによると、シャクシャインが生まれたのは、ヨイチの大将ケクシケの「髭切り事件」が起きた少し前…松前慶広がかのお墨付きを得意げに見せびらかしていた慶長九(一六〇四)年、つまり江戸幕府が開かれて一年経った頃か、または慶長十一年頃、という計算になるらしい。


(つまり俺とほぼ同年、ということだが)


 生年が二つもあるのは、彼が亡くなったおおよその年齢からの逆算で、彼が誕生した正確な日時までは記録に残っていないために、断言することが出来ないからである。


 間諜の報告はさらに、


「シャクシャインは己の居住地である日高から、たびたび十勝や釧路方面へ出かけては、そこに住むアイヌたちを、「悪さをする和人」から守ったり、部族同士の調停をしたり、といったことをしている」


「特に、アイヌに対して高飛車に迫る和人商人や松前藩武士にも、得意の弓矢でもって臆することなく立ち向かうので、西方アイヌ達は、彼のことをアイヌのポンヤウンペの再来ではないかと噂している」


 と続く。ちなみにポンヤウンペというのは、アイヌの伝承の中の英雄である。


 そんなアイヌの英雄ポンヤウンペの姿かたちは、


「身の丈八尺、肩幅も広く顎もがっしりと張っていて、見上げるような大男……」


 なのだそうだ。


(なるほど、言葉は悪いが原始的な生活をしている人間にとっては、体躯だけで十分畏敬の対象になろう)


 比べても詮無き事と思いながら、矮躯な己の体を見下ろして、吉成はつい苦笑した。


(この体格も親譲り……)


 と、何のためらいもなく父親への愛を口にする庄左衛門の息子と、己とをも引き比べたからである。息子でありながら、愚痴ばかりをこぼしていた父重成への敬愛が冷えてしまったのは、


(北の果てに来てしもうたせいであろうか)


 少しだけ温まった己の右手で、胸の真ん中を少しさすりながら、吉成は再び苦笑した。自分は明らかに、父を敬愛することの出来る人間を羨ましがっている。


(蝦夷もさぞや、寒いであろう)


 いつの間にか夜も更けた。腰元が敷いた布団へもぐりこんで、その冷たさに身震いしながら、吉成は目を閉じた。


(同年の英雄か)


 目を閉じながら、思うのは何故かそのことで、しかし、


(だが、ただそれだけのことだ)


 と、吉成は妙に冷静にそう思っている。良くも悪くも、人々の思いが広く伝わって行くうちに、一人歩きするのが噂というものだ。


(そして凡人は、その期待に答えようとして潰される。悪者になる)


 己の祖父がそうであったように、と、苦笑して、吉成は寝返りを打った。所詮はよその藩のことなのだ。


(俺には関係のないことだ)


 思って寝返りを打っているうち、寝具が温まってきた。北の地に生まれたはずなのに、いつまでもこの寒さに慣れないのは、


(先祖が近江生まれだからであろうか)


 詮無いことをぼんやりと考えながら、彼はようやく眠りに落ちたのである。



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