序
和人の暦で寛文八(一六六八)年、四月初めのことである。
部族の人間は、その遺体を見て彼が毒殺されたのだと誤解した。
発端は、二つの部族間の狩猟圏、つまり生活圏における争いである。一方の部族が、武器援助を和人の国の一部である松前藩に頼みに行った際、
「所詮は異民族の農民である貴様らを助ける義理などない」
と、すげなく拒否されるという経緯があった後のことだ。
和人の国が、「江戸幕府」という奇妙なシステムによって支配されて、六十年余りが経った頃だった。和人と彼らアイヌの国は、和人が津軽海峡と名づけた海によって隔てられている。
松前藩は、蝦夷からその海峡を越えた和人の島のうち、一番近いところに位置している国である。この国は四十年ほど前からアイヌ同士の衝突に余計な首を突っ込んだり、交易においてアイヌ側を不当に差別したり、といったことをやらかしていた。
であるから、さほど期待していたわけではなかったが、なにほどかの武器の支給くらいはしてもらえるだろうと思っていたはずが、
「あんまりにもあんまりだ。我らを侮りきっている」
使者に立ったウタフという名のアイヌが、そんな風にぶりぶりと怒りながら、自分の砦ヘ戻ってくる途中の船の中で、
「顔や体中の肌に赤く小さな腫れ物をたくさん吹き出させて…」
死んだ、というのである。共に松前に行った者達もまた、似たような症状で次々に亡くなったという。
日頃から松前藩に対するアイヌたちの印象が大変に悪いところへ持ってきて、さらにアイヌの使者が松前から帰ってくる最中に死んだ、というのであるから、
「毒を盛られたのではないか」
そういった風説が飛び交うのも、無理もない状況だった。
ウタフ、一説にはウトマサと呼ばれていたともいう。彼は、対立していた二つのアイヌ部族のうち、新冠川上流を居住地としていたシュムクル部族の人間である。
こちらは日高国から西、胆振国にかけて勢力を誇っており、対するメナシクルと呼ばれていた部族のほうは、日高沿岸部以東を居住地としていた。よってこれら二つの部族の間には、特にシベチャリ川の漁業圏を巡っての争いが絶えなかったのである。
部族間の争いは、一六四八年頃から表面化したらしい。
今回、自分たちが実は嫌っている和人へ、ウタフが何故わざわざ援助を求めたかといえば、彼の惣大将で、義理の弟でもあったオニビシが、対立勢力であるメナシクルの惣大将、シャクシャインによって殺されたからである。なぜオニビシがシャクシャインに殺されたかというと、シャクシャインの前部族長であるカモクタインが、一六五三年に起きた両部族間の抗争によって、オニビシに殺されたからである。
要するに、
「相手を叩き潰すため…」
嫌っている和人へ助けを求めるほどに、両者の対立感情は深かった、ということなのだ。しかし、ウタフが松前藩に毒を盛られて帰ってきた、ということは、
「ウタフの仇を取れ」
「これ以上、我らの大地でシサムをのさばらせるな」
皮肉にも、対立していた二つの部族の手を結ばせることになった。
シュムクルの砦へ呼ばれてやってきたメナシクル部族長、シャクシャインは、木の床に横たえられたウタフの遺体をじっと見つめた。
顎が左右にがっしりと張り、彫りの深い精悍な顔立ちをした老人である。老いて皺深くなった目を細めてその側に片膝を着き、
「これに直接触れたか」
尋ねると、部族の者達は首を振る。肌にも出来た腫れ物が破れては、そこから面妖な液体が流れる、といったことを繰り返すので、これも毒だと思い、触れると同じようになると恐れた、というのだ。
よってウタフの遺体は、オヒョウニレの樹皮を剥いで作ったアットゥシ(反物)を幾重にも巻かれた上で、ここまで運ばれてきたわけだが、
(これは毒を盛られたのではない)
シャクシャインは、すぐにそう察した。ウタフと共に松前藩へ行った者達の話によると、
「鼻汁が止まらず、苦しげな咳を繰り返していると思っていたら、肌にも赤い腫れ物が出来、次第に熱が出て死んだ」
というのであるから、
(疱瘡神がウタフを襲ったせいではないか)
和人の蝦夷進出に伴って、様々な病気も流行した。和人の商人である越後の庄太夫を娘婿にしている彼は、庄太夫から聞き知っていた知識と、以前にも流行した病の同じような症状に基づいて、そう考えたのである。
だが真実を告げたところで、日頃から
「シサム憎し」
の心で凝り固まっているアイヌたちは信じまい。
(悪いが、この状況を使わせてもらう)
よって、シャクシャインは思った。共通の憎しみの対象が出来ると、それまでどんなに対立していても仲直りできるのだから、
(人というのは浅ましいものだ)
和人のことは笑えまい。しかし、
(俺達は、和人のようにはならない)
シャクシャインは苦笑して立ち上がり、
「これは、確かに毒を盛られたのである。俺達は今こそ、この大地を和人から取り戻すために戦わねばならぬ」
ついにそう宣言した。
武器の違い、戦い方の違い…双方には格段の差があることも、彼は十分承知している。
戦いにおいても、こちらは未だに弓矢を使い、和人のほうには鉄砲と呼ばれる道具がある、ということも知っている。
和人から日本と呼ばれている国の―日本、と、一からげにされてしまうのには、大変に抵抗があるが―北の果ての大地から、ほぼ一歩も出たことが無いのだから、鉄砲なども生まれてこの方、見たこともない。が、
(この大地全土のアイヌが手を組めば、恐れることはあるまい。われらは数の上で勝つ。要は戦い方次第だ)
この歴戦の猛者はそう考えた。
藩、と名づけられている、小さな和人の国。それらをまとめている「江戸幕府」という統治者も、このような僻地で勃発した戦いには、わざわざ首を突っ込もうと思わぬのではなかろうか。
(俺達と松前藩との戦いだ。これに勝てばきっと、我々の状況も覆る)
「蝦夷全土のアイヌへ呼びかけるのだ。松前藩によって我等が皆殺しにされたくないのなら、今こそ立ち上がれと」
恫喝の混じったこの激は、さすがにもう冗談としては受け取られなかった。これにより、蝦夷のほぼ全域で、アイヌ達が蜂起することになったのである。
ウタフが松前藩によって「毒を盛られて」から、わずか二週間後の四月下旬であった。