【9】快と自然
【9】
2018.04.12
結局のところ、僕は、「書く」ということ、ただそれだけのことを、神様が嘉して下さっているように、感じるのです。大それてはいますが、これに、辿り着く為に、今までの人生があったようにも、思います。振り返ってみますと、これまでの僕は、スポーツや音楽活動を主に行ってきました。スポーツは、野球を12年間、音楽活動は10年間行いました。紆余曲折しながらも、これらの活動を透しながら、自分の存在意義や自分自身を探求し続けましたが、今のところ、僕は、ただただ「書く」ということに、辿り着いたのです。
聖徳太子が好んで説いておられた「捨身」という言葉が御座いますが、そのような境地には、もちろん達してはおりませんが、自身の中では、まさに「捨身」に似た、思いで取り組んできたのです。今、こうして、文章に起こしていることも、まさに、そうした継続運動、連続運動の集大成のような営みなのです。僕の場合は、「書く」ことで、今まで起きた出来事や体験が、ホロニックに、タペストリーのように織り成し、繋がっていき、全てが結合していくのです。自分自身の力を、最大限に発揮する道とは、今のところ、この「書く」という営みです。
大抵状態が悪くなってくる時は、「書く」ということを怠っているときです。最低でも、一日一篇の詩を書くか、このように一日に千文字ほどの文章を書くか、をしなければ、気が狂おしくなってくるのです。これは、幸か不幸か、このような体質になってしまいました。書くという営みが、僕にとっては呼吸という営みと等しいのでしょう。しかも「書かなければならない」という感覚では、ありません。「いつまでも書いていたい」このような至福の感覚が伴う、営みなのです。ですから、僕にとっての「快」でも、あるわけですね。人は、やはり「不快」なことを求めるというよりも、「快」に向かって、歩んでいる存在であると、思います。もしも「不快」なことが、訪れたとしましても、それは、やがて「快」をもたらす、プロセスや糧、あるいは手段にも成り得ますので、「不快」さえ「快」の一部分であり、やはり、この世界は、まるごと「快」であると、僕は捉えております。
「災い転じて福と成す」ということわざがあるように、災いだと感じるようなことでも、そこで大事な教訓を得たならば、むしろ、それによって、支えられ、育まれていきますので、振り返ってみましたら「な~んだ、あのことがあって、良かった!」と、捉えかたが変わり、進展していき「災いの正体は福であり、快であり、まさに、神様からの恵みであったのか!」と、いわゆる、逆転の発想になってくるように、人生は、運ばれていくものだと、思うのです。ヨハネの黙示録でも「天使が災いを起こす」と、書かれているぐらいですから、起きてくる出来事はなんでも恵みであり、喜びであり、快なのだと、思います。
このように書いておりますと、単なる「楽観主義者」や「快楽主義者」のように、思われたり、「能天気者」に思われるかも知れませんが、僕は、それでも、良いと思います。起きてくることに、なんでも礼を尽くして、感謝をしていけるように、なりましたら、おのずと、不満や不快も無くなっていくことも、僕は知っております。自然と快と、喜びに満ち溢れてくるのです。
人は弱い生きものですから、喜びがあったり、快が無ければ生きてはいけません…。人は、ある種、この弱さによって、延命することが、可能となっているのではないでしょうか…。痛みや弱さを知っておくことで、不必要なことや、傷つけるようなことは、あまり行わなくなりますから、自分自身や他を大切に、大事にして、さしあげることにも、繋がると、思うのです。弱さや儚さを、知って、初めて人としての全体性が回復し、成熟していくのだと、思います。そのようなことを大切にすることで、人間に宿る、自然性や命の柔らかさや、愛らしさを育み、尊べるようにも、成っていけるようになると、僕は思います。僕達の胸のなかには、思いのほか「自然や天然に還りたい!」という切願や衝動が、あるのではないしょうか…。一人一人が自然体や天然を取り戻し、一人一人が、ありのまま、あるがままに、なっていかれますように。