文章の宛先について
わたしたちは自分の詩や文章を、唯二人に届けばいいと思っている。一人はわたしの中の異なる面であるところのわたしへと。つまりわたしたちの中の最も批評するわたしへと。もう一人は他へ。不連続体であるわたしたちと何処までも深い裂け目で隔てられている他へと。それは、ある銀河から他の銀河への通信に似ていて。果たして届いたかどうかは分からないのだけれど。それでも、もしも交流があるならば。奇跡的な相互通信を求めて、果てしなく希釈された意味たちが飛び交っている。
しかしわたしたちが放つのは、温もりという自足ではない。(或いは含むかもしれないけれど)果てしなさに近しい温度のない言葉。これは誰のためでもない意味だ。わたしたちのためでもなく、他のためでもない。しかし、未確定の世界の一部を意味付けるという行為であるから、受け取り手にとっては意味が無いわけでは無いだろう。
わたしたちは狂気を理解することが出来ないから(誰もそうだが)、正気であることの限界に触れることを恐れるあまり、自他の隔たりを無視してしまいたくなる。わたしたちは誰ひとり自分自身を全て理解できない。それは狂気に踏み込めないからであり、わたしたちの視野と知性がそこまで広くないからでもある。
わたしたちは、確かにこの宇宙の一部であることを思い返して欲しい。一部は全体と繋がり、全体は一部を含む。わたしたちの中には、この宇宙の全てと繋がる回路があるのだ。
わたしたちは在る。このことがどれほどのことかは、そうでなくなってからという、無意味な仮定の上でしか語れない。在るということ。そのことを深く思う時、そこに在るという事実が再び取り戻せない資質として存在している。
例えば、月が在ること。太陽が在ること。この地球が在ること。わたしたちは、このことに意味があるかどうかという議論に加わるつもりはない。意味とはつまり人が判断するもの。存ることとは、人の判断を超えるもの。つまり、誰かが在るとは意味を超えた事実であり、そのことがその人を保証する。そうして生き死にすら意味を超えており、もはや個人という属性すら意味を超えていく。
そういった扱いきれないものを無理に統括しようとして、社会が組織され、相互扶助を暗黙として、日常は進む。しかしながら、わたしたちの内で誰ひとりとして、全てを理解されることはない。しかしそれは、この世界を解き明かそうとする試みと同じく、常に行われ続ける知性の営みとして、わたしたちの中で不断に行われ続けているのだ。