『エンドレスマーダー』
『エンドレスマーダー』
幸せな日々。何をしていても幸せを感じる日々。そんな日々を私は過ごしていた。例えば、好きな人と恋人になれるかなれないかという、結果は分からないがほぼ可能であろうという時の感覚。例えば、お花畑でスキップをしながら君影草の花を摘んでいる時の感覚。例えば、今日は台風の影響で学校が休校となった時の小学生の感覚。そんな感覚が内面化されたような日々を過ごしていた。
そこには何の苦労もない。何をしていても体力を奪われることはなく、無限に生きていけるのではないかというような感覚。例えば、海苔の佃煮と一緒にご飯を食べている時の感覚。海苔の佃煮は確かに美味しいが一般的に考えてご飯を無限に食べることは不可能である。しかし、食べ始めは本気で無限に食べれるのではないかと考えてしまう。そこにはその様な感覚が入り込んでしまっているのではないだろうか。隙間からこっそり侵入し、レストランの残飯を漁るネズミの様に。そんな感覚がここ最近続いていた。
「天国みたいだ」
夢の様な感覚で私はそこに存在した。人々はルノアールが描いた様な柔らかくて暖かい人々。暖色が似合う人々。寒色はそこには存在しない。周りを見渡すと風景は、モネが描く様な柔らかみのある中に強い主張を秘めている様であった。モネの絵は地図に似ている。そこに居ると、その一点に居た時、対象を把握できない。しかし、俯瞰して見ることで、少し離れて全体を見ることで、物事の真理、対象物、自分の位置、自己の認識が成される。また、そんな夢の様な感覚の中で、思考はピカソや、ダリの様に働いていた。枠組みにハマることなく、常に枠組みの解体を行う様な、規範に当てはまらない感覚。
「天国なのかな。」
私がいる此処には、自然が豊かでこれこそ「自然」という様な感覚が存在していた。ふと眼を右に向けると、渓流でヒグマが鮭を捕獲している。ふと眼を左に向けると、二頭のキリンが首をぶつけて闘っている。ふと後ろを向くと、ゴリラの群れが、手を負傷した子供ゴリラの動向を伺いながら餌を求めて新たな場所へとコロニーで移動する。ふと眼を空にやると、タカがネズミを捕食しながら巣へ戻ろうとしている。なんだこの世界は。
「天国だ。」
その時、そう感じた時、急に誰かに後ろ髪を引かれた。振り返ると、これまでの人生が早送りで逆再生され始め走馬灯をみている状態に陥った。そして、あたり一面が真っ暗になり自己が消滅した。
すると、視界が光を感知する。そして、「ピー・ピー・ピー」という甲高い音が脳に響いて、生きているという感覚が湧き自分自身の再起動がなされた。そう、「あの世」の様な場所から「この世」に帰還したのである。周りにいる人は騒ついていた。その感覚は、宇宙飛行士が地球に帰還し、ボロボロになりながらも、宇宙船の階段から何人かの肩を借りて降りてくる様な。
私は病院で横になっていた。何故なのか。どの様な経緯で横になって寝ているのか。何があったのか。記憶がない。周りの人々は誰なのか。私の何なのか。何故体が動かないのか。私は誰なのか。全てわからない。
ふと眼を横にやると、ベッドの横に少女が1人立っている。少女が、お見舞いに来ていたのか、リンゴの皮を剥いてくれた。その少女は私の姪にあたる子であるがその時の私にとってその少女は少女Aに過ぎなかった。そして、リンゴの皮をむいている少女の姿をみたその瞬間、何かの記憶とリンクしたのか、記憶が全て脳に戻って来た。記憶が蘇ったのである。何故かわからないが、リンゴの皮剥きにデータがバックアップされていたのだろう。
私の名前は、宮野心である。東京生まれの東京育ちで、1992年に世田谷区で生まれる。小さい頃から母親が剥いてくれるリンゴを嫌ほどほうばっては、気持ち悪くなり、「もういらない」と言ってパンパンになった口の中を見せた。そんな心も現在は一流企業の企画開発部で働く二年目の貴重な女性社員である。いつもの通り、30分残業を行い、18時半に退社した。そして、毎週金曜日の習慣であるお酒を、いつものコンビニで買い帰宅した。しかし、普段なら忘れることはないのだが、今日は何故か、会社の資料を誤って持ち帰っていることに気がついた。慌てて会社に戻り、資料を置いて再度帰宅した。その最中に事件は起こった。
「ドン!」
帰宅途中に、すれ違った男に肩を押されて身体全体が衝撃を受けた。肩を押した男の顔を見ると半ニヤケで歩いて去って行った。なんだったんだ、と思った瞬間、胸から何かドロっとしたものが流れていることに気がつき、その後、鉄の匂いが自分の身体を包み込んだ。そして眼の前がホワイトアウトしていき、未知の世界へと誘われた。
という経緯で心はベッドの上で横たわっているのである。ふと病室のテレビに眼がいくと、ニュースがやっていた。
「殺人未遂で逃亡中」
という文字に心は「自分のこと見たい」と思っていた。すると、防犯カメラで捉えた犯人の顔というのがニュースで流れ、自分の事だということを確信した。何故なら犯人の顔を心は記憶しているからである。意識が戻り数日後、警察が病院に来て事情聴取を受けた。心は真実を警察には語らない。犯人の顔を覚えていない。知らないあかの他人だと供述した。
「やっぱりあいつ、だったか。」
心は男を知っている。その男とは、もともと心と恋愛感情にあった神谷陵である。神谷と心は大学一年生の頃にのサークルで知り合った。年に一回あるサークルの合宿で意気投合し付き合い始めることになった。しかし、神谷にとっては、幸か不幸か心は顔が整った世に言う「美人」であった。そのため、様々な男が心に近づき、心を誘惑した。それに嫉妬した神谷は、近く男共に暴行を加え、追い払った。しかし、その事がきっかけで退学処分となった。退学になったと同時に心と神谷の間にある愛は破綻した。それを神谷は根にもっており、五年間影を潜め、心の仕事が終わった日の帰り道に犯行に及んだ。
心もまた神谷に苛立ちを覚えていた。付き合う中で、何か思うところがあればお互いに話し合おうと約束していたのである。しかし、ハッキリ言い切れないタイプの神谷は溜め込んで、心に黙って暴行を加えた。「言ってくれれば…」と心はずっと心の中で考えていた。
心は神谷に一人で会おうと考えた。そして話そうと。和解をしようと。しかし、心の身体は動かない。そのため、病院で一年半かけてリハビリを繰り返した。そして、リハビリをしながら神谷の事を考える日々を送っていた。そして、リハビリをしている裏側である計画を練っていた。ある計画を。
「時はきた。」
心の身体は完治し、計画も完成した。あとは実行するだけである。退院してから、二年が過ぎた頃、冬の寒い夜、計画は実行された。まず、神谷の住む川崎に君影草を買って向かった。心は神谷の居場所を知っていた。付き合っていたと言うこともあり、退学後に色々と情報が回ってきていた様だ。そして、一人暮らしをしている神谷の家のインターホンをおした。すると、何もわからない神谷は玄関に出てきた。そして、驚いた顔をして身体を震わせた。
「ただいま」
心は神谷に耳元で囁きながら、抱擁した。すると、神谷の顔は血の気が引いた様に青ざめ始め、倒れ込んだ。そして心は君影草の花束を置き玄関を出た。すると、辺りからは鉄の匂いが二人の世界を包み込んだ。
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