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「これは何ですか?」
「羊皮紙です」
「では次に、ここに描かれたものを順に口にしてみましょう」
「ええと、犬、鶏、牛……これは、魔物? 魔物ですね」
「……はい。それでは、この文章を音読してみて下さい」
「“ある所に独りぼっちの公爵様がおりました。彼は幼い頃より呪いを身に宿した影響により、人との関わりを避けて生きてきました。ある日、そんな彼の前に一人の少女が現れました。愛らしい笑みを浮かべるその者は、世の穢れを浄化するべくして各地を旅していた聖女様だったのです。聖女様は言いました”──」
「そこまでで結構ですよ、ありがとうございます」
このような問答がさきほどから幾度となく続いている。それゆえに少女は自分の身に起こっている事態を理解し始めていた。
おそらく……いや、きっと、自分は『記憶喪失』なのだろうと。
けれど、本当に何も覚えてはいなかった。頭が空っぽとでも言えばいいのか、考えれば考えるだけ無駄に思えてくる。
それは無意識に己が拒絶しているのか、どんな意味を持つのかまでは少女にはわからなかった。
少女と医者の傍らに立つイリーナは、診療所に訪れてからというもの神妙な面持ちで対話を見守っている。
(……)
彼女の名はイリーナ・カトリッフィ。中央大陸最大国家『アシュタルト王国』内のハンターギルド『獅子王の翼』に所属するハンターである。また、同所属のガイバーとチームを組んで多くの依頼をこなす名の知れた有名なハンターだった。
ハンターとは、またの名を冒険者とも云う。
何かを目的とし、常に探求する者。それが名誉、利益のために、あるいはそれにもたらすものがなくても冒険というそれ自体のために危険な企て、試みに敢えて挑戦を試みる者たちを指すほか、専門的な一つの分野に特化しようとする様々な人々の信念のカタチを総じてハンターと呼ぶ。
ハンターは実に自由な職業である。昨日まで無職だった者が「俺はハンターだ」と口にしてもそれが認められるのだから。ハンターには誰でもなれるが、そこからが本当の意味での本番でもあった。
ハンターを名乗る多くの者は、何らかの目的を持っている場合が主だ。
自分の力がどこまで通用するのか試したい。
名誉をあげて有名になりたい。
まだ見ぬ大陸を発見したい。
困っている人を助けたい。
大金を手にしたい。
憧れの有名なハンターギルドに所属したい。
私利私欲、無欲無私はその者の自由。
ただ実力が問われる世界なだけあって、無名のハンターは信用されずらい。もちろん無名であっても実力の備わった規格外のハンターがいるのは事実だが、人は相手の実績や肩書きに酷く敏感になるのもまた事実。
それにともない、なりたての無名ハンターは『ハンターギルド』または『ハンター機関』に訪れるのが一般的となっていた。
ギルドとは簡単に説明するならば仕事の仲介等をする組合であり、人数が二人以上であればハンター機関に申請すれば正式なギルドとして認められる。
申請せずに結成されるギルドも中にはあるようだが、名が上がれば注目され最終的にはハンター機関から申請するよう通達が届くそうだ。
ハンター機関とは、ハンター関連すべてを管理する機関である。機関でハンター登録をすると特典などが与えられる他に、身分証明代わりの自分のハンター証を取得することができる。無論、悪用されない為の対策もしっかり施しているらしい。
そんなハンター機関からの信頼も厚いハンターギルドのひとつ『獅子王の翼』は、多くのハンターの憧れや目標であり、所属を望む数も後を絶たない。
アシュタルト王国内でも知名度のあるギルドトップ3の一角に君臨する実力者揃いがこぞって集まるため難易度の高い依頼の持ち込みも多かった。
(まさか、こんな事になるなんて……)
かくいうイリーナも、先日ガイバーと難易度が極めて高い依頼を受けたばかりであった。
依頼人は西大陸の密林で覆われた人々が近寄らない地帯の小さな在郷でひっそりと暮らすエルフの長。
依頼を受けた日から一週間前に盗賊によって郷を荒らされ、若いエルフの娘達を数人攫われてしまったというのだ。
郷で暮らすエルフたちは極端に人間との関わりを避ける傾向があるのだが、そうも言っていられないと『獅子王の翼』に依頼をしたのだろう。
それを受けたのがイリーナとガイバーだった。
結果から話すと、エルフの娘達は無事に助け出した。
小規模闇市で奴隷として商品になる前に救い出すことに成功し、それ以外にも囚われていた人間の娘達を汚い地下牢から地上へと出し、ついでに闇市は潰し、関係者らは捕縛した。
潰しても潰しても湧いて出てくる闇取引の現場に怒りを滲ませたイリーナはその建物を半壊、ガイバーも便乗して大騒ぎとなったが、闇市関係者らと、酷い扱いを受け囚われていた娘達を衛兵に引き渡す際には御礼を受けた。
エルフの娘達も共に同行していた長の元に返し、自分たちもいざ帰ろうとしていた時だ。
草むらで倒れ込んでいる傷だらけの少女の姿を、イリーナは見つけてしまった。
両の手足は重い鎖で繋がれ、肌を包む布は服というにはあまりにも酷い。さぞ黒髪に栄えるであろう白い肌も、所々が痣と煤で汚れてしまっていた。
少女もまた、闇市に囚われていた娘達の一人なのだろうと衛兵を探したが、もうそこには自分たち以外の人間はおらず、放置しておくことなど出来ないので荷馬車に乗せ介抱をしたのだった。
イリーナとガイバーの予想通り、少女は闇市で奴隷として売られていた。エルフの娘達とは違い、背中に烙印を押され既に『商品』となっていたのだ。
痩せた体や鞭で痛めつけられたのか目を背けたくなるような傷の数々。イリーナは出来る限りの治療を少女に施した。
幸いにも少女の舌は切り取られていない。
見目だけを重要視するような闇市では、女が声をあげないようにあらかじめ舌を取ってしまう卑劣な行為をする者もいるという。
こんなにも儚く、見目の麗しい少女はどれほど辛い日々をあの場所で過ごしたのだろう。イリーナは胸が締め付けられる思いであった。
荷馬車に乗せて一週間。
さすがのイリーナとガイバーもぴくりとも動かない少女に焦り始めた頃だ。今まで意識の戻らなかった少女がようやく目を開けて、驚くことに上体を起こしていた。
ぱちくりと瞳を瞬かせる少女は、同じく目を見開いたイリーナをじっと見つめていた。
水色の天然石をその身に閉じ込めたような神秘的な瞳を宿した少女に、イリーナは息をハッと引ききる。そのような容姿では闇市でも一際苦労したに違いない。イリーナはそう思ったが、すぐに考えを振り払う。
いけない。今はそれよりも少女を安心させることの方が重要だ。
闇市にいた他の娘達は皆怯えていた。助けに入ったイリーナやガイバーにも最初は拒絶反応を起こして喚く有様だったのだ。
だからイリーナは少女を気遣った。せめて怖がらせないように、腰を低くして接する。
(……変だわ)
少女は無反応だった。
泣き喚くことも、怯えることもなく、ただただイリーナの姿をじっと食い入るように見ている。
御者台から急に現れた大柄のガイバーにも臆することなく、それどころか頭を撫でられても首を傾げ曖昧に笑う始末。
何かが、おかしい。
イリーナの胸は僅かに早鐘を打ちながらも、平静を装って少女に名前を問うた。
──それから数秒後。
少女の事態を察したイリーナとガイバーは大慌てで荷馬車の操縦を任せていた雇いの御者に近くの街への行き先変更を申し入れたのであった。