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四話:『誰か』は瞼を開かない

遅筆のせいで現実時間と時間軸が大分ずれてしまいました。

作中の時間は1〜2月くらいとなります。

「奥様。氷鉋ひがの様と立森様を、書庫へお連れしてよろしいですか?」

「ああ、それはいいわね。私も行くわ」

 柚子さんの言っていた本好きの気に入る場所とは、やはり書庫のことだったようだ。

 クロは相変わらず表情に出さないが、足取りがなんとなく嬉しそうだった。

 入ってきたのとは反対側にあるドアから大広間を出て、廊下を歩く。廊下にもまた、大量の絵がかけられていた。風景画や静物画が主で、人物画はほとんどない。

「ここです」

 外見は何の変哲もない普通のドア。

 しかし、その中身は中々に特別だった。

 入ってまず目に飛び込んでくるのは、ずらりと並んだ本棚。さすがに図書館には及ばないが、個人の所有としてはかなり多い。

 脇にはソファと小さなテーブルがある。さらに、毛足の長い絨毯は足音を吸収するので、静かに読書が楽しめそうだ。

 うーん、欲しいなこの空間。

 テーブルの上には、模様の付いた透明な小鉢が置いてある。いや、違うな。もしかして……。

「クロ、あれって灰皿か?」

「そうみたい。クリスタルガラスだから、結構重量があると思う」

 へえ、綺麗な灰皿もあるもんだ。煙草の灰を落とすのがもったいなくなるな。もちろん、僕は吸わないけど。

「それにしても、すごい蔵書ですね」

「主に父のものなの。あとは、智が自分の家に置ききれなくなったものを持ち込んでくるわね」

 智さんは読書好きなのか。黒い服を好むところといい、ますますクロと気が合いそうだ。背中の半ば程まで伸びた長い髪も、そういえば似ているかもしれない。

 クロはすいっと本棚の前へ移動すると、その眼を持ってして、じっくりと物色し始める。

「この本なんか、奥様が好きですよ」

 小波さんが、ソファに面した本棚の中段から、一冊抜き取った。箱に収められたそれは、辞書のように重厚だ。続き物らしく、同じデザインの箱がいくつも並んでいる。

 一体、柚子さんと涼さんのどっちだろう、と考えていた時のことだった。

「あっ」

 何しろとても重い本。取り出そうと逆さまにした箱から受け損ねた本は、小波さんの手から床へと滑り落ちていく。

 小波さんが慌てて受け止めようとするが、どうあがいたところで間に合わない。

 ばさり、と本が絨毯に着地した、その瞬間。


「柚子! 涼っ!」


 空気を切り裂くような鋭い声で、理子さんが一喝した。

 名前を呼ばれた二人の小波さんが――本を落とした方もそうでない方も――びくりと肩を震わせる。

「気をつけなさいといつも言っているでしょう」

「す、すみません」

 小波さんは顔面蒼白な様子で、急いで床から本を拾って元通り箱にしまい、慎重に本棚へ戻した。

「ごめんなさい、お客様の前で」

 額に手を当てて、苦い顔をしている理子さんが、一言そう謝った。

「いえ……大切なものなんですね」

「ええ。とてもとても大事。あの本に何かあったらすっごく怒っちゃうわよー……って、今まさに怒った後ね」

 僕は曖昧に笑った。大事なもののために怒るのは、まあ、仕方がないだろう。

 少し気まずくなってしまった雰囲気を払拭しようと、話題を探した。

「そういえば、理子さんはなんのお仕事をされてるんです?」

「ふふ、なんだと思う?」

 逆に聞き返された。問いかけるのが好きな人だ。きっと、これは当ててみろということなのだろうと解釈する。

 そうだな……。

「画家、ですかね……」

「理由は?」

「この館に入って最初に目に付いたのは、壁にかかった大量の絵でした。それだけならまだしも、狭いスペースに収めるために、一部分を額ごと切り取った絵まであります。せっかくの絵を切り取るということは、あまりしないと思うんですよね……。もらったものや買ったものなら尚更。それなら自分で描いたものなんじゃないか、と思ったんです」

 理子さんは猫のように目を細めて、面白そうに笑った。

「ほぼ正解、かな」

 よし!

 クロと会ってから、周りを観察する癖がついた。あいつほど上手くはないけれど、毎日の積み重ねが物を言ったのか。

 でも、ほぼ?

「一つだけ惜しいかな。実は、あの切り取った絵だけ、私の描いたものじゃないの。他人の絵だから、切り取れたのよ。自分の絵を切り取るような真似はしないわ。壁の汚れ隠しにでも使ってください、って謙遜するものだから、本当に使っちゃった。あ、壁に汚れはないわよ?」

「……」

 さいですか。

「さっきも言ったと思うけど、ここは元々別荘でね。子供の頃たまに遊びに来ては、自然が本当に綺麗だなあ、っていつも思ってた。だから、ここが私の仕事場なの。一年のほとんどをここで過ごしているから、もう家のようなものね」

「寂しくなったりとか、しないんですか?」

 柚子さんと涼さんがいるとはいえ、この館は外界から隔離された世界だ。いくら景色が綺麗でも、人恋しくなったりは、しないのだろうか。

「全然大丈夫よ。皆でわいわいやっているのも楽しいけれど、私は一人が一番好き。この仕事はまさに天職ね」

「そうなんですか。クロと……えっと、氷鉋と気が合いそうですね」

 今更黒羽と呼ぶのはなんとなく気恥ずかしく、氷鉋にしておいた。

「黒猫さん? うーん、あの子は……一人が好きというよりは、一人が楽、って感じに見えるけど……」

 僕は理子さんを見返す。好きと、楽。その二つの間にはどれほどの違いがあるのだろう。その時の僕には、まだわからなかった。

 クロが物色していた本を戻して、壁の時計に目をやる。

「もうこんな時間。そろそろおいとまさせて……」

「今日はおすすめしないわね。部屋はたくさんあるから、泊まっていって構わないわ」

 涼さんが開けたカーテンによって、理子さんの言葉の意味を、僕らはすぐに知る。

「うわ、吹雪……!」

 酷い吹雪だ。夜闇でもわかる。外に出たら、あっという間に視界を奪われるだろう。

「夜道でこの天候は、無謀ね」

 泊まっていけ、という理子さんの言葉をクロは最初断ろうとしたようだったが、この暴風雪を見せられては、考えを改めざるを得なかったらしい。

「たしか来客用のパジャマもあったはずだから、大丈夫よ。柚子、涼、すぐに用意してくれる? あと部屋も。――他の人にも知らせた方がいいわね。私は一旦大広間に戻るけど……」

「あ、僕も行きます。クロ?」

 僕の呼びかけにクロは頷いて、書庫を後にした。


 *


「本当によろしいんですか?」

 保護者的役割である小織さんが念を押す。

「ええ。この天気じゃ遭難してしまいますよ」

 雪は時間と共に勢いを増し、治まる気配を一向に見せない。行くときはあんなに晴れていたのに。山の天気は変わりやすいって、本当なんだな。

「ほー。少しくらいなら可愛いもんなのに、これだけ降ると、見てるだけでうんざりしてくるな。明日には俺と同じ大きさの雪だるまが作れるかな?」 

 真恢まひろがのんきな事を言う。

「作れるんじゃないか? むしろ、僕の身長くらい積もってるかも」

 男である僕が『僕』という一人称を使っているのに対し、一応は女の子である真恢の一人称が『俺』とは、中々シュールな光景だ。

「その時は手伝えよ、僕っ子」

「……僕っ子言うな」

 この俺っ娘め。

 まあ、見ているだけでうんざりする、という真恢の意見には同意だった。理子さんの愛する端麗な景色も、きっと明日には白一色に塗りつぶされているだろう。もっとも、理子さんはそんな雪景色でさえ、愛しているのかもしれないが。

 僕はため息をつく。今はただただ、雪が降り積もっていくのみ。

 その真っ白な世界に、僕らを閉じ込めるように。

 



「……」

 うーむ、どうにも眠れない。

 枕が変わると寝られない、とかいう繊細な神経はしていないはずなのだけれど。

 完全に目が冴えてしまったので、僕は気まぐれに一階へ降りてみた。

 夜の館は、一層雰囲気が出る。いまなら絵の中が動いてもおかしくないような気さえした。

 その時。

「どうかしましたか?」

「わああああああっ!?」

「きゃあ!?」

 しまった、思わず大声を上げてしまった。

 振り返ると、小波さんがいた。パーティーの後片付けをしていたんだろうか。

「すみません、驚かせてしまって」

「いいえ、私の方こそ。眠れないんですか?」

「そんな感じです。小波さんは後片付けを?」

 小波さんは頷いた。「でも、私の仕事はほぼ終わりです。涼は、あっちに」

 ということは、柚子さんか。柚子さんは、目の前にある鏡を指差した。

 鏡には、作業をしている小波さんが映っている。右手に持った鋏で、絵の前に飾ってある花の、枯れた部分を切り落としているところだった。

「姉さん、もう終わったの? ……あ、立森さん。こんな時間にどうしました?」

 僕はさっきと眠れなくて、と答える。

「寒いのかもしれませんね。ええと、確か……あった、あった。どうぞ」

「カイロ?」

 涼さんはにっこりと微笑む。

「家の中でも寒いときは使うといいですよ」

「ありがとうございます」

 確かに、少々寒気が気になってはいた。少しでも暖かくすれば眠りやすくなるかもしれない。

「ふう……姉さんは作業が早くて羨ましい」

「涼が遅いのよ」

 見た目にはまったく区別がつかない二人だけれど、当然というか、中身までそっくり同じとはいかないようだ。

 明日、帰るまでには見分けられるようになれるだろうか。

 僕は二人に挨拶と礼を言って、部屋に戻ることにした。


 *


「……」

 まだ寝ぼけた目に、見慣れない景色が飛び込んでくる。

 自分の家のものとは違う匂いの布団。そうだ、まだ理子さんの館にいるんだった。

 起き上がろうと布団から出した肩を、ひやりとした冷気が撫でた。館の中にはちゃんと暖房が入っているが、それでも朝の冷え切った空気は、それを軽々と凌駕する。

 涼さんにもらったカイロは当然、冷たくなっていた。

 昨日の雪は一体どれほど積もったのだろうと、窓から外を覗いてみる。

 ん? 変だな。

 ここは二階なのに、地面が妙に近く見える。

「……!」

 それが高く積み上がった雪のせいだと気づくのに、僕の頭は少々の時間を要した。

 半ばまで雪に覆われた周りの木々が、雪の深さを物語っている。

 せっかく柚子さんと涼さんがつけた館までの道筋が埋まってしまった。いや、それだけじゃない。小織さんと晶一さんの車も掘り起こさないといけないかもしれない。

 その時、コンコンと軽快に、ドアを叩く音がした。

「シロ、起きてる?」

「ああ、今起きたところ」

 僕をシロと呼ぶ人物はただ一人。そんな特徴で確認をしなくても、付き合いもそれなりに長くなってきたから、声の調子でそれがクロだとわかるけど。

「小織さんの車、埋まったかも。手伝って」

 ああ、やっぱり。わかった、とクロに告げると、手早く身支度をして部屋から出る。

 朝の館は、昨日の喧騒が嘘のようにしんと静まりかえっていた。その静けさは壁に飾られた多くの絵と相成って、まるで美術館の一画のような雰囲気を作っている。

 一階は僅かに薄暗い。窓を埋めんばかりの勢いで、雪が積もったからだ。

 重労働になりそうだ、という想像が歩調を遅らせる。


 それは、左足が床に着いたのと、計ったように同じタイミングだった。


「!?」

 耳をつんざくような異様な音が――いや、『声』が、静寂なその場を唐突に満たした。

 平常な人間が平常な場では、けして出せない異質な音階。

 黒板を思い切り爪で引っかいた時のように、その声は背筋を冷たくする。

 書庫だ。

 間髪を容れず、クロの足が床を蹴る。

 クロは、書庫のドアノブを掴むと、迷わずそれを開け放した。

「あ……ああ――あ」

 部屋の中で腰を抜かしている声の主は、全身に黒い服を纏っていた。智さんだ。

「大丈夫ですか? 一体何が……」

 智さんの視線の先。そこには。

 駆け寄った僕らは、それに気づかざるを得ない。

 ざり、と頭の中でノイズが鳴る。

 智さんの奏でる声の調べと相成って脳をかき乱す、なんとも狂った不協和音。

 ――ああ、嫌な色だ。

 赤い。紅い。朱い。

 昨日まではなかった色が、カーペットを染めている。そしてその上の本棚と、その中に納まった本を。ああ、あれは理子さんの大事な本入っている本棚だったな、と僕の頭はこの状況でそんなことを思い出していた。

 本棚にもたれかかるようにして倒れている、色の根源たる人物。

 「――」

 僕は彼女の名前を呼ぼうとし――、

 呼ぼうとし、けれど何の音も紡ぐことが出来ず、口を閉じた。

 知らない人という訳じゃない。この館にいる人間で、彼女を知らない人間などいないだろう。

「……誰、なんだ?」

 けれど、わからなかった。

 誰がこんなことをしたのか。そして――今床に倒れている彼女は誰なのか。

 面識はある、生きていた頃の声も思い出せる、昨日だって普段通りに話した。

 小波さん。あなたは、柚子さんなのか、涼さんなのか。

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