一話:探偵は依頼される
それは、まったく奇妙な話だった。
目の前には、一人の女性が倒れている。
その光景にはまるで現実感がなく、眠っているようにさえ見えたが、昨日まで染み一つなかったカーペットを染めあげている紅の色が、逃避しようとしている思考を引き戻す。
「――」
僕は彼女の名前を呼ぼうとし――、
呼ぼうとし、けれど何の音も紡ぐことが出来ず、口を閉じた。
知らない人という訳じゃない。この館にいる人間で、彼女を知らない人間などいないだろう。
「……誰、なんだ?」
けれど、わからなかった。
誰がこんなことをしたのか。そして――今床に倒れている彼女は誰なのか。
面識はある、生きていた頃の声も思い出せる、昨日だって普段通りに話した。
しかし誰も、彼女の名前を口にすることが出来なかった。
*
「なあクロ、まだ行く気にならないか?」
いつもの様に床に本を積み上げ、活字に溺れる様に大量の本を読むクロに問いかける。 その質問を、クロは黙殺することで返事に代えた。
行く気にならないか? というのは学校の事だ。
クロは元々外出を好まないが、ことに学校に行くのを嫌がる。簡単に言うとプチヒッキー状態なわけで。まあ、頭は切れるので授業に出ずとも、テストは常にオール100という嫌味な奴だけど。
ただ、学校の方には、クロが酷く人付き合いが苦手なこと以外にもそれなりの理由があって、それはおそらく先月の事件なんだろうと僕は思う。
先月の事件。クロを説得して、無理矢理学校に連れて行った時に『校内で』起こった、殺人。
皮肉なことに、犯人と被害者は今回初めて出来た友達で、クロは探偵だった。
クロの能力は両刃の剣だ。持ち前の推理の才を使って事件を解決に導くことは難しくないが、その際に触れざるを得ない、憎しみや哀しみなどの莫大な感情の渦は、同時にクロ自身をも傷つける。
要するにいくら言動などが大人びていようとも、奴もまだ14才なのだ。少しばかり頭がいい程度のごくごく普通の少女。少なくとも、僕にとっては。こんな事を言うと、クロを知る人間はいやいやと首を横に振るかもしれないけれど。
「まあいいさ、ゆっくりで」
あんな事件の起こった後なのだ。学校だってしばらく休みになったし、再会された今だって、休んでいる者はたくさんいる。
「しっかし、極度の活字中毒だな。家にいる間はいつも読んでんのか?」
けれど、またもクロからの返事はない。適当な相槌すらない。
「おーい、クロ? 氷鉋さん?」
沈黙。
ちょっとちょっと。もしかして最初からまったく聞いてないとか?
さっきまでの僕の思いやりは全部無駄だと?
「……。ここにルバーブのタルトと洋梨のタルトがある。10秒以内に答えたらどっちか選ばせてやるけどどっちがいい?」
「なによ、さっきからうるさいわね。ルバーブと洋梨? そうね……」
負けた。ルバーブと洋梨に負けた。
意外に食べ物に弱いらしい。
「ルバーブがいい。紅茶があれば最高だけど」
そう言って、クロはちらりと目線をこちらに向ける。言外に紅茶を持ってこいと促してきた。
いいように使われてたまるものか。しかし、クロは無言で圧力をかけてくる。……ちょっと空気が肌に痛くなってきた。
いたたまれなくなって仕方なく部屋のドアを開けたところで、階段を上ってきた小織さんと目が合う。
小織さんは柔らかい笑みを浮かべた。
「紅茶お持ちしましたよ」
なんて良いタイミングなんだ! 僕はガッツポーズを取る。
小織さんは、氷鉋家の住み込みのメイドさんだ。
メイドといっても、別段メイド服を着ているというわけではないが。
「黒羽さん」
紅茶を部屋のテーブルに置くと、小織さんがクロに声をかけた。
「久々にお仕事です」
クロが本から顔を上げた。
仕事――つまり、クロのもう一つの顔である『黒猫』の探偵業。
今までクロが推理しているのを見たのは、偶然事件に巻き込まれたときばかりだったため、こんな風に依頼されて動くところを見るのは初めてだ。「どんな内容?」
「依頼人は漆島理子。漆島家の血筋の方だそうです」
「漆島家……ってあの!?」
僕は思わず口を挟む。
「知ってるの?」
「噂には聞いてる」
漆島。それは日本でも有数の大富豪の名前だ。
そんな家の人間が、クロに何を依頼したんだ?
「依頼人は山奥のお屋敷に住んでいるそうで、近々誕生日パーティーを開くそうです。そこで、是非黒羽さんに来て欲しいと」
それは依頼じゃなくて単に招待というのでは?
「遊びではないですよ。ちゃんとお仕事です」
僕の内心を見て取ったのか、小織さんが微笑みながら、ゆるりと首を振る。しかし、次の瞬間真面目な顔に戻り、こう言った。
「漆島さんはこうも言っていました。――命を狙われているかもしれない、と」
「!」
その一言に、部屋の空気が僅かに張りつめる。そういうことは先に言ってもらいたかった。
突然『命を狙われているかもしれない』と言われても、普通ならまさか、という一言で一笑して終わるだろう。
しかし、僕らは知っている。
この世には本当に、命を狙う人間と、命を狙われる人間がいることを。
「依頼人が命を狙われていると感じた理由は?」
クロの質問に、小織さんは淀みなく答える。
「脅迫状が届くのだそうです。最初はただの悪戯だと思って気にしていなかったようですが、山奥の家なのにかなり頻繁に届くのと、段々内容が物騒なものにエスカレートしてきたそうで……。また、最近漆島の当主の容態が悪いようで、遺産争いから消すためかもしれない、と動機も十分です」
「なるほど、ね……」
小織さんの話した内容をしっかり噛み砕いて記憶し、クロは頷いた。
「依頼人は、近日行われるパーティーへ招待した人物の中に、脅迫を行っている人物がきっと混ざっていると考えています。そこで黒羽さんに誰がその人物なのかを推理して頂きたいのです。大勢の人がいる手前、犯人が行動を起こす可能性は低いでしょうし」
クロは数秒考えこむ。
「もう二つ……依頼人と一緒に住んでいる人はいる? それと、脅迫状の宛名は?」
小織さんは頷いて口を開く。ちゃんとその辺の答えも用意しているようだ。
「依頼人と一緒に住んでいるのはメイドが二人だけで、脅迫状の宛名は無かったそうです」
「なるほど。それじゃあ、脅迫状が依頼人宛てであるとは断定出来ないのね。メイドに宛てたものであるというより、可能性は高そうだけど」
クロはちらりと僕を横目で見ると、真っ直ぐに小織さんの方を向いた。
「請けるわ」
「わかりました。そうお伝えします」
小織さんは微笑んだ。少しばかり嬉しそうに。
小織さんの気持ちも少しわかる。少し前までは推理すること自体に乗り気じゃなかったクロがようやくやる気になったのだ。
クロが前の事件を乗り越えられるようになるのなら、僕も嬉しい。
「立森さんはどうします?」
「え?」
小織さんの質問はちょっと予想外だった。
僕は推理に関してはただの一般人であって、体質上、色々な事件に遭遇した経験はあるけれど、解決は出来ない。
話を聞いた以上、興味がないわけじゃないけれど。
「僕も行っていいんですか?」
「立森さんが行きたいなら構わないと思いますよ。ですよね?」
「……どっちでも」
クロは曖昧に返事をした。判断は僕に任せるらしい。
さて、どうしよう。どうせ冬休みで暇だし、場所は漆島家のパーティー、悪くはない。
遊びがてら、クロにちょっと訊いてみる。
「来てほしい?」
「別に。全然来なくていい」
こいつが絶対にこう答えることはわかっている。僕はにやりと笑ってみせた。
「よし、決めた。行く」
「な……っ」
「決まりですね」
ぱん、と小織さんが手を打った。
「日時は来週の日曜。夕方頃にお迎えに行きます」
「よろしくお願いします」
にこにこと話を進める僕と小織さんを、少々苛ついた様子でクロが眺めていた。
「来なくていいってば」
「本当に?」
「……いい。本当にいい。むしろ来るな」
普段が無表情なやつをからかうのは非常に楽しい。
これ以上やると本当に今回の件から閉め出されかねないので、これくらいにしておくが。
僕は、忘れられてすっかり冷めた紅茶を手に取り、一口すする。
うん。苦いものなら事件じゃなくて紅茶の方がいい。
作中の「前の事件」については「Detective Cat -Where is the right answer?-」 の内容となっております。