ホームルーム
「……みんな凄いな……はぁ」
手に持った名簿を捲りながら、俺はため息をついた。時刻は朝七時。窓からは朝の暖かな日差しが差し込んできていた。
一昨日局長と一緒にもう、自分には縁がないだろうと思っていた長高級ホテルの最上階のビップルームに向った。マシュマロの上を歩いているような絨毯を踏んで進むと、そこにはあの伝説の死屍柴ヒルイの従者、狩谷さんがいた。
俺はコスモス情報調査局、護衛部に所属し三年経つが、先月局長付になったばかりの下っ端社員だ。そんな俺が狩谷さんに出会うことが出来るなんて、このホテルのビップルームの、俺の年収以上の値段がしそうな革張りの重厚なソファに座るよりも、想像だにしなかったことだ。
狩谷さんは白髪が目立ちだした髪を、整髪料で後ろに撫で付け、燕尾服を身に纏った紳士だった。温厚そうな笑みを浮かべて俺と局長を出迎えてくれたが、その佇まいには一分の隙もなく、流石は伝説の男、死屍柴ヒルイの従者だと思わされた。
「狩谷ちゃんお久。自宅に招くなんて珍しいね。今日はどうしたんだい?」
局長は慣れ親しんだ友人に話しかけるように、小太りの体を震わせながら狩谷さんに近づいていく。
一応俺は局長の護衛なので、狩谷さんのオーラに気圧されながらも、局長の後ろに立つと、狩谷さんは燕尾服の内ポケットに手を入れ、小さなナイフを取り出した。すると部屋の空気が瞬時に冷えたような錯覚を感じた。
「……ッ! 局長!」
俺は局長のジャケットを引っ張り、後ろに倒しながら立ち位置を入れ替えると、倒れる局長に向かい投付けられたナイフを人差し指と中指で挟み込み受け止める。
「ほう。やりますね」
狩谷さんは感心したように呟くと、空いた手に握ったもう一本のナイフを投げつけてきた。
いつ取り出したんだよ! もしかして一本はこの部屋に入ったときから持っていたって言うのか? 持っていてなお殺気を放たずに立っていたって言うのか? どんな化け物だよ。
俺は受け止めたナイフを手首のスナップで投げ、迫り来るナイフに当て、軌道を逸らす。逸れたナイフはマシュマロと例えた絨毯に深々と突き刺さった。見た目はペーパーナイフのようなのに、どれだけ切れ味鋭いんだよ。
「二発目も楽々捌きますね」
「局長! 早くお逃げください! 私が時間を稼ぎます」
局長を殺そうと、出先で狙ってくる暗殺者と殺り合うのはこれで六度目だが、狩谷さんはその殺し屋が素人だと思えるほどの、練達な動きを見せていた。間違いなく強い。
俺は腰に手を回し、隠し持っていた特殊警防を取り出し、一気に伸ばす。これだけの相手を前に勝てるかどうか分からないが、何とか時間を稼がねばならない。笑みを見せながら殺気を迸る狩谷さんに特殊警棒を向け、構えを取ると、突然狩谷さんが拍手をしだした。
「……えっ?」
突然の事に俺は理解を出来ずに小首を傾げる。
「どうだい狩谷ちゃん。社員自慢と言うわけじゃないけれど、十大組織の上位陣ともやりあえる実力はありそうでしょう」
「そうですね。一発目はともかく、二発目の躱し方は相当高度な技術を有しますから、これなら審判を依頼しても大丈夫でしょうね」
俺はまた、理解が出来ずに小首を傾げる。
「あっ、そっか。まだ話してなかったね。透君には、明後日の後継者争いの運営をやってもらいたいんだよ」
「……局長、話が見えないんですが……運営や審判って何の話ですか?」
「それは私が話しましょう」
狩谷さんは刺さったナイフを拾い、内ポケットにまたしまうと、俺達にソファを勧めてきた。
「お茶でも飲みながらお話しましょう」
無重力とはこういう事を言うんじゃないのかと思うほどの、柔らかいソファに座ると、鼻腔をくすぐるコーヒーの香りが漂ってきた。
「どうぞ」
俺の一ヶ月の給料に匹敵しそうな、コーヒーカップとソーサーを前に息を飲んでいると、狩谷さんはコーヒーに口を付けた。
「いただきます」
俺は壊さないように慎重にカップを握り、傾ける。
「美味しいですね」
「ありがとうございます」
嬉しそうに笑みを零し、またカップを傾け口から離すと、その顔には笑みはなく、真剣そのものの表情に変わっていた。
「それでは話をしましょう。単刀直入に言いますと、我が主人、死屍柴ヒルイが引退する事になりました」
「……はい?」
単刀直入に言われたが、俺には理解できなかった。
「……あの死屍柴ヒルイが……引退?」
あれが二日前のやり取りだ。
あの後俺は詳しい説明を受け、三日間の日程を記したマニュアルを渡され、今日までホテルに監禁され覚えさせられていた。