決勝戦 一神対四家8
僕の目は人よりも優れているようだ。
視力は常人より多少上と言ったところだが、動体視力が並外れてよかった。
放たれた弓を目で追い、容易に掴むことが出来るくらいには。
けれど、僕はこの目を封じた。橘社長の命によって。
分厚いガラス板をはめ込んだ伊達眼鏡をつけることにより、僕の遠近感はずれ、世界がぼやけ始めた。
動体視力は落ちはしなかったが、このぼやけた世界では、動体視力などあってもなくても何も変わらなかった。見えないものを追うことなどできないのだから。
僕はこの眼鏡を本当の強敵以外には外す事を禁じられている。
橘社長は奥の手はとっておくものと言い、僕もその言葉に従い詮索をしなかったが、今はっきりと分かった。
四家に注意され。
僕は人形だと思っていたが……人形にはなりきれていなかったんだ。
頭では何も感じないと思っていたが、心には深い深い傷を負っていたんだ。何も覚えてはいないけれど。
目は口ほどにものを言うというが、僕の目には心の中が表れていた。それを覆い隠すために僕に枷を作った。心の拘束具がこの眼鏡。
力を抑えると同時に僕を糸で繋ぎ、傀儡に変えていた。
人形はどれ程精巧に作っても人にはなれない。
それは人形にあるのはガラス玉でしかないから。人間のように瞳がないから、心を感じない。
だけど僕には心があった。目には僕の心が表れていた。
「私は……僕は……悲しいのか?」
ポツリと呟くと、頬が急に熱くなってきた。傷が痛み出したのかと思ったが、熱いのは両頬だった。
「一神……ちゃんは悲しいんだよ」
四家が僕の瞳を覗きこんでくる。
「凄く、心もお目めも泣いてるよ」
熱いのは血ではなく涙だった。
これが涙?
初めて泣いたはずだというのに、この頬の熱さと視界の屈折がなんだか懐かしく感じた。
「一神! 何をやっている、さっさとその餓鬼を殺れ! 私に恥じを掻かせるきか!」
橘社長の殺意が篭った声が僕の耳に届く。奏者の指が動いた。人形はまた動き出す。
僕の涙がすっと止まった瞬間、零の怒声が広い部屋に木魂した。
「橘様! これは一神と四家の一対一の戦い! 声援したい気持ちは分かりますが、あまりお声がけしないようにお願いします!」
零は僕を向くとこくんと頷いた。
どういう意味だろうか。僕には分からない。分からないのに、また涙が溢れてきた。
なぜ僕は泣いているんだ?
なぜ僕は零の瞳を見て泣きだしたんだ?
「小僧。死屍柴ヒルイの従者だからと言って、あまり私に舐めた口を聞くんじゃないよ」
橘社長の殺気が部屋中に充満し、室温を一気に下げた。
その瞬間ばっと四家が社長に視線を移した。眼鏡を外し始めて分かったが、四家の瞳はブラウンだった。
綺麗だ。僕はその目を見てそう思った。
思った? 僕が? 人形だと思っていた僕は心を持っていた。
その瞬間、僕の脳には幼い頃の思い出である十数年前の古い映像が、劣化したビデオテープを再生しているかのように途切れ途切れに映し出してきた。
僕は誰かを見上げている。綺麗な顔をした綺麗な目をした女性が僕に笑みを向け、優しく澄んだ瞳を向けながら、僕に何か話しかけてくる。
あなたは誰なんだ?
誰だかわからないのに、どうしてこんなに愛しくて愛しくて心が温かくなるんだ。
「……お母さん?」
僕は小さな声で呟いた。頭の中に映し出される女性に向って。
『お母さん』
頭の中の僕も同じ言葉を話しかける。
『なあに、蓮君?』
蓮君?
蓮って……。そうだ、そうだった……僕の名前は蓮だった。
「蓮だったんだ……」
「……ッ! 一神! お前は私の駒だろ! さっさとその餓鬼を殺してこの戦いを終られろ!」
「……うるさいおばちゃん嫌い」
四家が答えると橘社長は、「黙れ!」と一喝した。
「ガーベラごときの殺し屋が口出しするんじゃない! さっさと殺しあって……一神に早く斬られろ」
橘社長は焦った声を出した。
まるで僕の記憶が戻る事を忌避するかのように。
もう僕が人形じゃなくなるから嫌なのか?
確かに僕は心を取り戻した。
いや、もしかしたらずっとずっと前から取り戻していたのかもしれないな。
だから目に悲しみが溢れていた。
僕は人形なんかじゃない。僕は人間なんだ。優しいお母さんに愛されて育った、一人の人間なんだ。
『蓮ただいま』
脳裏に男性の声が響いてきた。少し低くしゃがれた声が。誰の声だっただろうか……この声は……お父さん?
ああ、僕にはお父さんとお母さんがいたんだ。僕は……一人じゃ……人形なんかじゃない。
橘社長。僕はもう人形ではなくなるけれど……橘社長には感謝しています。この死屍柴ヒルイの後継者選びに呼んでもらえて……記憶の断片ではあるけれど、僕は自分を少しだけ取り戻すことが出来た。
何もない自分だと思っていたけれど、愛された過去が僕にはあった。僕には母と父との思い出があった。それが知れただけで十分です。
「社長、安心してください。この後継者選びは……僕が優勝します」
私ではなく、僕になったけれど、それでも思いは伝わってくれたはずだ。
あなたに恩を返す。
目を見開き四家の全体を俯瞰で見る。さっきまではぼやけた世界で、気配と大体の動きで反応していたが、今度は良く見える。
指先の微かな動きまで今の僕なら捉えることが出来る。
四家、君には記憶を取り戻す手助けをして貰えた。本当に感謝するよ。
だから……苦しまずに逝ってくれ。
眼鏡を外した僕は……橘牡丹の片腕どころか……彼女と肉薄した強さを持っているんだから。
君がどれだけ強かろうが僕には勝てない。
社長も僕も死屍柴ヒルイに比類する力を持つ者。
一介の殺し屋とはレベルが違う。
「……ああ。分かった。だが……いや、いい。一神、使命を果たせ」
僕に何か伝えようとしたが、橘社長は飲み込むと、指示を送ってきた。
「四家、悪いが僕が勝たせてもらう」
「……ダメだよ。お姉ちゃんと約束したんだもん。優勝するって。だから……ふぁ……疲れるけど……ふぁ……変わるね」
四家は欠伸交じりで返してきた。
変わる? 僕はその言葉が理解できずにいると、四家がゆっくりと瞼を閉じてきた。まどろみから夢の世界に飛び込んでいくかのように。
寝るのか?
「零!」
ヒルイ氏の大きな声が鼓膜を震わす。
「そこからこっちの部屋に移れ。巻き添えを食うぞ。その二人から……早く離れるのじゃ」
「……はい。かしこまりましたご主人様」
タッタッたと、零の駆ける音が耳に届くと、気配が離れていった。
危険か。確かにそうかもしれない。
さっきまでは四家から殺気も何も感じはしなかったというのに、今の彼女からは得体の知れない気配が漂っていた。
この感じはなんだ?
取り戻しかけた記憶を探っても、殺し屋として生きてきた人生を探ってもで会った事のない威圧感。
なんだこの感覚は。自然と手のひらに汗を掻くような感覚。肩が小刻みに震えるような感覚。
「ふっ」
僕は思わず笑ってしまった。十数年ぶりの笑みだ。けれど、それは苦笑と言われる笑みだった。
ああ、そうだったこれが恐怖だ。これが怖いという感情だ。逃げ出したい気持ちに駆られているというのに……僕はまた笑った。
新しく芽生えた感情が嬉しくて、僕は笑った。
「怖いけれど……嬉しいよ」
呟くと四家が動き出した。両手に抱えたファイティングナイフを僕に向け。




