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珍しくその日は晴れていた。それでも夕方には必ず霧が漂う街、ランドンの石畳の道を、弾む足取りで歩く少女がいた。彼女は胸に大事そうに紙袋を抱え、二回エレベーターに乗る。そしてシャインフィードと書かれた表札の掲げられている家に入った。
「ただいまー」
家に入ると、被っていたお気に入りの麦わら帽子を脱ぎ、彼女は二階へ駆け上がる。そしてとある一室に入ると、レモン色の目を細めてにっこりと笑った。
「ただいま、おじいちゃん」
日の差し込む窓。白いカーテンが風に揺れるその部屋で、1人の老人がベッドの上で眠っていた。
「……ハン……リー。……ライアス…。リリ……。……ご」
老人は寝言をいった。少女には、老人がなにを言っているのか、すぐにわかった。
一年中霧の日が多いランドンでは、植物を育てることは難しい。日の光をあまり必要としない植物では種類が限られ、必然的にこの街には花などの植物が少なかった。とはいえ、やはり花束などは贈り物としては人気があり、よその街から花を仕入れて売られたりしている。ただ、そんな中にも例外が存在した。
エレナは自宅の庭に誇らしげに咲く花を世話しながら、花の開きが丁度いいものを切って籠に入れていた。
この庭は彼女の祖父の庭で、昔から彼女のお気に入り場所だった。色の少ないこの街にある、鮮やかな色の溢れるこの庭では、祖父のお気に入りの色の紫、赤、黄色などの花や、エレナが好きなピンクや水色の優しい色の花が植えられている。
昔から当然のようにこの庭には日の光を好む花が植えられていたので、エレナはこの庭を魔法の庭と呼んでいた。
この庭が祖父の庭ではなく、エレナと祖父の、2人の庭になったのは今から十年前だ。
母親が亡くなったことで、家で1人で過ごすことになるエレナを寂しがらせないように、祖父の暮らすこの家に移り住むことを、父親が決めたのだ。それまで何度か遊びに来ていた家であるし、祖父のことが大好きだったエレナは喜んだ。今では、父親の再婚後に弟妹ができて、寂しいなんてことは全く感じなくなった。
エレナは摘み終えた花を入れた籠を抱えて、家を出た。道行く人にあいさつを交わしながら、とある建物の裏で花籠をおいて用意していた花瓶に入れる。それらを前にして座っていると、何人かの通行人が親しげにエレナに話しかけた。
「やあ、エレナ。今日はどんな花を売っているんだい?」
「ジョスリンさんの容体はどうだい?」
「ジョスリンさんは魔法使いだ。この街でこれだけ立派な花を育てられる人は、あの人だけだ。不思議な話だな」
「それとそれと、……その花で花束を作ってくれないか?今日、彼女にプレゼントしたいんだ」
1人1人に笑って答えながら、エレナは庭で摘んだ花を売っていく。義母からはお小遣いをもらえないので、エレナはこうやって少しずつお金を貯めて、そしてそのお金であの雑貨屋でバネを買ったのだった。
最後の一本が売り切れたその時、ハンフリーが近づいてくるのがみえた。
「ハンフリー!」
「姉さん」
「こんなところまで、どうしたの?」
「頼まれてたじいちゃんの時計、直したよ」
「ほんとに?ありがとう!あのゼンマイはうまく合った?」
「うん。まるであの時計のために作られたんじゃないかってくらい、ぴったりだったよ」
「ほんとに?時計の音、鳴りそう?」
「知らない。それは、動かしてみないとわからないよ。確かにあのゼンマイはぴったりだったけど、一回使ったら折れそうだったし……」
「そっかそっか!ありがとう!私じゃ直せなかったし、器用なあんたに頼んでよかったわ」
「……。もう、俺にあの時計を触らせるようなこと、しないで」
「え?」
ハンフリーは少し息苦しそうに、そう訴えた。
「あの時計は、じいちゃんの大切な時計だろ。きっとあれは、姉さんにしか触ってほしくないと思う」
「どうして?」
「だって、じいちゃんが本当に大切にしているものを触らせるのは、姉さんだけじゃないか」
「……え?」
「あの庭だって、俺もイライアスも、そんでリリアンも、触ったらじいちゃんは怒ったよ。父さんの形見の懐中時計だって触らせてくれなかったし、イライアスが気に入った万年筆も触らせなかった。リリアンが気に入ってた庭のりんごの木も、かなりリリアンがぐずって折れたじいちゃんが実だけ食べてもいいって許したんだ。でも姉さんは、そのどれもじいちゃんになにか言われたことないだろ」
「……」
「その顔は、知らなかったんだな。……俺、じいちゃんが好きだよ。いっぱい俺も遊んでもらったし、いろんなこと教えてくれた。たぶん、死んだ父さんの代わりのつもりもあったんだと思う。イライアスもリリアンも、じいちゃんが大好きさ。でも、姉さんだけはじいちゃんの特別なんだ」
「それは……」
「俺は、じいちゃんが嫌がることしたくないんだ。寂しいけど、したくないんだよ。だから、時計のことはあとは全部姉さんがやって」
「……」
「あとこれ、時計の中から出てきた。姉さんにって」
ハンフリーが差し出したのは、小さな手紙だった。そこには小さく祖父の字で、『孫へ』と書かれていた。
ハンフリーが去った後、ぼーっとしていっこうに進まない片付けをしていると、人影がエレナの前に立った。
「こんにちは、バネのお客さん。花は……もう売り切れみたいだね」
「雑貨屋さん!」
シルクハットを軽くあげてアルトが笑った。
「すみません、花は売り切れてしまいました」
「そうか、残念だな。魔法使いの花は、持っていると幸せになれるともっぱらの噂なのに」
「たぶん、明日もここに売りに来るので、よければまたいらしてください」
「ふーん。そういえば、あのバネはお客さんのお役に立ちましたか?」
「え、あ……はい」
微かな困惑を含ませて答えたエレナに、アルトは目を細めた。
「花はいいので、一つお願いがあるんだけど、いいですか?」
「え、あ、はい。私でできることなら」
「この種を、育ててほしいですよ」
「種?」
アルトが渡したのは、小さな茶色い種だった。
「この街ではどこに植えても育たないけど、あなたの家の庭なら育つでしょう」
「あ、あのでも……祖父は今寝たきりで、もう育てられないんです」
あの庭は不思議で、祖父が手ずから育てなければ花は育たない。エレナができるのは、祖父が植えて芽が出たものだけは枯らさず育てることができるだけだ。だからエレナも街の人がいうように、祖父は魔法使いだと昔から思っていた。
しかし、アルトは首を横に振る。
「おじいさんじゃない、あなたが育ててほしいんですよ。あなたが育てたその花が咲いたとき、私はその花を買いに来ます」
そういって、不思議な雑貨屋の店主は去って行った。