5
階段を息を切らして上る。そして自分の部屋へと駆け込んだ。
「ハンナ!」
娘は、ちゃんとそこに無事でいた。しかし、部屋の中にいるのは娘だけではなかった。胸の強調された赤いドレスを着た女が、娘のハンナを抱いてあやしていた。
勢い込んで帰ってきたこの部屋の主をみて、しばらくぽかんと口を開けていたが、やがて眉を吊り上げた。
「あんた、こんな小さな子どもおいてどこに……っ!」
そう言いかけて、リアーナの乱れた髪や片方の靴を無くした足を見て、彼女は黙った。
「あ、あの……」
「とにかく、はやく身を整えてきな。それまではこの子、みててやるから」
「は、はい……」
「はやくしなよ。こんな酒臭い女、赤ん坊には悪いだろうからね」
そう言われてみれば、部屋の中にはつんとアルコールのにおいが漂っている。リアーナは慌てて服を着替え、髪をブラシで整えた。
箱を積み上げ、小さな鏡をおいただけの鏡台にオルゴールを置き、リアーナはその女性から娘を受け取る。
「勝手に入ったのは悪かった。謝るよ。だけど、こんな小さな子を1人で置いていくなんて、ちょっと非常識が過ぎるんじゃないかい」
「す、すみません。本当に、ごめんなさい」
身を縮こまらせて震えるリアーナに女性がため息をついた瞬間、それまですやすやと眠っていた赤ん坊が火がついたように泣き出した。
「ハンナ?!ごめんなさい、ごめんなさい!今泣き止ませますから!ほら、ハンナ!泣かないでー、お願いだから、泣かないで!ね、ね?」
軽く揺らしても、あやしても泣き止まない。目の前にいる女性は、昨夜外から声をかけた女性だった。また不快な思いをさせてしまう。また責められる。そう思って娘を泣き止ませようとしても、娘の泣き声は激しさを増すばかりだ。
「ちょっと、子どもを泣き止ませようとしているあんたが一番泣きそうな顔してるのはどうなんだい。あたしのことは気にしなくていいから、ちゃんと子どもをみてやりなよ」
「え……?」
責められると思った女性からの意外な言葉に、リアーナは顔を上げた。その女性は、綺麗に巻かれた髪を後ろにやり、ハンナに顔を近づけて笑いかける。
「このタイミングってことは、お母さんをいじめるなーっていう意味なのかな?大丈夫、べつにあたしはあんたのお母さんをいじめてるわけじゃないよ。な?」
「……」
つんつんと頬をつつかれて、それでも泣き止まない娘を彼女は笑いながら眺める。
「小さい体でもお母さんのことはわかるんだねー。いい子だ」
その言葉に、リアーナの目からはぽろりと涙がこぼれた。そこからは止められなかった。次から次へと涙が溢れて、止まらなかった。それに動揺したのは、目の前の女性だ。
「ちょ、ちょっと!なんであんたまで泣いてんだい!」
「う……、ううう……」
「あー、もう仕方ないね」
女性はリアーナが泣き止むまで、彼女の頭を撫でた。一方のハンナはリアーナが泣きだした瞬間涙を止め、きゃっきゃと笑っていた。
「落ち着いたかい?」
「はい、すみませんでした。あ、あのお仕事は……」
「今日は霧が深いからね。十中八九店も休みだから気にしないでいいよ」
リアーナの涙に最後まで付き合った女性の名はゲルダ。リアーナと同じこのアパートに住んでいるが、仕事は夜にひらひらと舞う蝶であるため、生活する時間帯が違うのでほとんど会ったことはない。だが、逆にリアーナが活動している時間がゲルダにとっては休み時間であり、その時間に毎回娘の泣き声で迷惑をかけていたことは確かである。赤ん坊の泣く時間に朝も昼も夜もないからである。
今日も昼に寝ていると、隣から赤ん坊の声が聞こえた。赤ん坊が泣くのは仕方のないことだが、どうにも青白い顔をしている母親と泣き止まぬ赤ん坊が気になって部屋を訪ねた。まあ当然母親から応えはなく、無視されるのもいつものことなので帰ろうとしたが、いつもこういうとき聞こえてくる母親がなにかぶつぶつ言っている声すら聞こえず気になり、大家に鍵を借りて中に入ってみれば、揺り籠の中にぽつんと赤ん坊がいるのを発見し、しばらくゲルダが様子をみていたという話を聞き、リアーナは再び彼女に謝り倒した。
「まあ、結果的に何事もなかったし、帰ってきたときのあんたの様子をみれば、多分もう二度とこんなことはなさそうだし、気にしなさんな」
「はい、すみません」
ハンナは今はすやすやと眠っていた。
「あたしが働いてるお店に来るお客さんは、ほとんどが男なんだけどさ、やっぱり子持ちの男も多くてね。ときどき子育ての話も聞くんだよ。それでお客の誰か言ってたんだけど、母親が不安定でも、赤ん坊は泣くんだってさ。そんで、赤ん坊が泣くと母親も不安になる。そんな悪循環もあるんだってさ。この子もきっと、そうだったのかもしれないねぇ」
「ハンナが……」
「ほら、人って泣くとすっきりするだろう?あんたが泣いたら、この子は泣き止んだからそう思っただけだけど」
「……」
「ちょっ、また泣くのかい?!」
リアーナの目から再び雫が零れ落ちていく。
「ずっと、ずっとなんでこの子は泣いてばかりなんだろうって、この子が泣かなければ責められることもないのに。部屋に1人でいると、ただ泣いてるこの子からも責められているように感じて、愛すべきなのに、愛さないといけないのに、この子が敵に思えて、
嫌いになって。自分の子どもを嫌いって思っちゃいけないと思いながら思ってしまう自分がまた汚く思えて……」
「そりゃ、自分の思い通りにはならないのが人間だからねぇ。言ってしまうのは簡単だけど、あんたほとんどこの子にかかりきりのようだったしねぇ。そらしんどかっただろう」
「でも、ゲルダさんの言葉を聞いて、ああ、この子は私の敵じゃないんだって。そうしたら、心の奥のぐずぐずしたものが、消えました。私の感情を感じ取って、泣いてくれていたときもあったんですね」
「……あんた、今まで泣いてなかったのかい?じゃあ、あんたの代わりに泣いてくれてたのかもねぇ、この子」
愛おしいと。これまでも思ってきた。それでもいままでは愛おしと思う以上に苦しいと思っていた。けれど泣くことができた今、落ちた雫は枯れた心に染みわたってやわらかくなり、愛おしいとぽかぽか温かいものが全身を巡る。
人と話すこと。ちゃんと泣くこと。声を聞くこと。目をみること。触れること。どれも全部大切なことだった。
『やわらかい心をもちなさい。そして勇気を持って、手を伸ばしなさい』
「あ、あの!ゲルダさん!」
「なんだい?」
「わたしと、友達になってもらえませんか!」
「……は?」
「わたしは、あなたとこれからも話したいです!」
「……友達になりたいから友達になりましょうなんて言うなんて、7歳の頃に卒業したと思ってたよ」
「だめ……ですか」
「ダメだね。あたしみたいな女、子どもの教育に悪いよ」
「そう……ですか……」
母の形見のオルゴール。それを両手に持って考える。このオルゴールはぱかりとフタを開けると音を奏でるオルゴールだった。
じっと目を閉じて、考えた。それでも思い浮かばなくて、目を開けて観察した。すると、側面に小さな穴がある。
「……あっ!」
その穴に、歯車の突起の部分をはめると、ぴったりと合う。それをまわしてフタを開けると、音が鳴りだした。
「そう。この曲……」
鳴りだした音は、母が料理を作っていたときによく歌っていた歌だった。リアーナの故郷の村は時計なんてものはなく、大体の時間は鐘の音で把握していたが、野菜を何分煮込むかということなどを計るものはなかった。だからあの村の女たちは歌うのだ。歌が終わる長さが煮込むのにちょうどよい時間で、料理ごとに歌があった。そのうちの1つが、このオルゴールの曲。
音を聞くと、ふと母の声が蘇った。その声に合わせて歌いだす。
「やわらかい心をもちなさい。そうして待ったら、良い匂い。勇気をもって手を伸ばしなさい。そしたらフタはあっつあつ。肉はトロトロ、野菜はぐずぐずどこいった?」
リアーナのような貧しい村では、シチューはごちそうだった。だからリアーナの好物を、この歌を歌いながら母が作っている背中を思い出す。茶色い髪をまとめてバンダナをしている母の後ろ姿。
リアーナが歌うと、揺り籠で眠っていたハンナが目を覚ましてきゃっきゃと笑った。
ハンナはこのオルゴールを聞いたから笑ったわけではなかった。このオルゴールを必要としていたのは、娘ではない。自分自身だったのだ。
薄い壁は隣のカタンという音を知らせた。その音を聞くと、リアーナは娘を抱いて扉を開けた。すると、同じく扉を開けたゲルダが苦笑をもらす。
「お仕事、がんばってくださいね」
「ああ、あんたは早く寝るんだよ。体強いわけじゃないんだからさ」
よく話すご近所さんレベルまで上がっただろうか。リアーナはにこりと笑って、彼女を見送った。
3話完結です。