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リアーナは走った。長い髪が鬱陶しい。霧が濃い。みえない、みえない。あの子の顔が。
霧越しの石畳はひどく足元をおぼつかなくさせた。道は合っていただろうか、この道は正しいのだろうか。ちゃんと、私は前に進めているのだろうか。
そんな思いがいったりきたりを繰り返した。ただ帰らなければ、という思いだけはしっかりとそこにあった。
靴が片方脱げてしまったが、どこにいったのかもそんなに気にならなかった。
不思議と人には会わなかった。こんな霧の深い日は、この街の人間はあまり外に出ない。そういえば、この街に初めて訪れたときに「霧が深い日は迷子になるから、この街に住む人間は外へは出ない。もし外に出たときに霧が深くなったら、その場所から動かずに霧が晴れるか、誰かに会うまで待っているんだ。そうじゃないと、【帰れなくなる】からね」と教えてもらった気がする。あれは、誰に教えてもらったのだろうか。
リアーナは立ち止まった。一刻も早く帰らなくては、娘になにがあるかわからない。置いてきてしまったのは自分だけど、後悔が激しく足を急かすけど、それでも教えてもらった【帰れなくなる】という言葉が足を止めさせた。
「帰りたい。私は……」
「帰るとは、どこへ?」
自分とは違う声が聞こえて、リアーナは振り返った。そこに誰かいるが、霧に隠れて顔はみえない。けれどその人影はスカートをはいているようで、女性であるとわかる。
「あ、あの、アミナール区25番地3-6の名もなき住処というアパートに帰りたいんです!ご存知ありませんか?」
「ふむ。知っているけれど、どうしてそこへ帰りたいの?」
「どうしてって……、そこに住んでいるから……」
「住んでいるから帰りたいの?本当に?」
リアーナはあたりまえじゃないかと困惑しながら考える。自分はなぜ帰りたいのだろうか。そこに住んでいるからというのはもちろんだが、でもそれだけじゃないような気がした。
「……娘が、いるんです。そこに娘がいるから、帰りたいんです」
「そうか。じゃあ、こっちだよ、おいで」
太くたくましい腕だった、その手に引かれて、リアーナは歩き出す。彼女の手を引く女性は前を向いていて、顔はみえない。茶色い髪をまとめてバンダナをしている。その装いはこの街では珍しく、むしろリアーナの生まれ故郷で村人たちがよくしていて、懐かしいなと思った。
「そのオルゴールはどうしたんだい?」
「ああ、これは……。母の形見なんです。でも、鳴らなくなってしまって、どうしたら鳴るのか、わからないんです」
「ふーん。そうか、わからないのか。だから迷子になったんだね」
「え?」
「なんでもかんでも教えてもらえるわけじゃないんだよ。そのオルゴールを鳴らす方法を、自分で考えてみたかい?」
「で、でも……私オルゴールの専門的な知識はありません」
「そりゃなくてもさ、まずはちゃんと自分で考えてごらんよ。誰かが助けてくれるのを待っていても、誰も助けてくれないよ。もし誰かがあんたを助けようと手を差し出しても、あんたが自分でそれを握り返さなきゃ、なんにもならない。俯いてたら、その手に気づかずに通り過ぎてしまう。前を向くのも、自分から動くのも怖いことさ。勇気がいる。振り払われるかもしれないからね。でもそのやわらかい心と勇気があれば、そのオルゴールを動かすことができる」
「やわらかい心と勇気?」
やわらかい心、という言葉が記憶の隅に引っかかった。
「女はやわらかいよ。そのやわらかさこそが女の武器さ。失敗しても、やんわりと受け止めて。そして空へと放しておやり」
さあついた、と言われて顔を上げると、そこには確かに自分のアパートがあった。そしてとんっと背を押される。その力の向くまま数歩駆け出して、リアーナは振り返った。
「あ、あの!ありがとうご……」
振り返ると、そこには誰もいなかった。