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後編

 真夜中の屋敷は、広々としていて冷たかった。みしみしと軋む床の上を、息を殺して歩いていく。僕の手には、あんなに嫌いだったナイフが握られている。

 暗い廊下を、灯りもつけずに歩いた。常に誰かに後ろから、刃物を突きつけられている気分だった。冷や汗が滲む。振り返れば、暗闇の中から恐ろしい目が覗いている気がした。


『そろそろ作戦を決行しろ。今夜、そちらに警備兵を装ったうちの兵士たちを遣わす。絶えずお前を見張っている。失敗したら……分かっているな』


 なす術もなく階段を下り———やってきたのは、彼女とよく遊んだ中庭。

 夜の中庭は月光に映し出され、銀色に輝いていた。空気は少し冷たかったけれど、やわらかな薔薇の香りに包まれて、僕は少しだけ、気持ちを落ち着けることができた。

 ———これから、どうしよう……。

 手に持ったナイフを見つめる。これで、みんなを刺して回れば、僕の仕事が終わる。みんな寝静まった今なら、僕にもできるかもしれない。でも、それを考えると真っ先に彼女の顔が浮かんでしまう。殺すの?彼女も?……そんなの無理だ。

 それじゃあ、逃げる?……どこへ?どうやって?見張り役が来てるって言ってた。僕じゃ逃げ切れない。きっと、殺されてしまう。養兵所での痛々しい日々を思い出す。あれよりも、きっともっときつい痛みに耐えて、死ぬ?それとも、命令に従って屋敷の人たちみんなを殺す?……あんなに優しくしてもらったのに?

 すぐに選べればよかったんだけど、できなかった。やっぱり、僕は意気地なしだ。こんな簡単な二択が選べないなんて。そんなに痛めつけられるのが嫌なのか?ナイフを左右に傾ける。月の光を受けて、冷たい水銀のような輝きが返ってきた。思考するのにも疲れて、その輝きをぼんやりと見ていたから———背後に近寄る気配に、僕は気が付かなかった。



「……スピラ?」



 耳に飛び込んできた声に、心臓が跳ねた。あわてて振り向き、ナイフを取り落とす。

「あっ」

 拾おうとする前に、“彼女”が転げ落ちたそれを目にとめてしまった。

「何をしているの?こんな夜中に」

 彼女はナイフを一瞥したあと、まっすぐに僕の目を見据えて尋ねた。

 毎日遊んだ顔が、問いつめるように僕を見ている。澄んだ視線に、射抜かれそうになる。

「その……薔薇の、花が……悪い芽が出ていたから、切り落とそうと思って……」

 でも、彼女は騙されてくれなかった。

「そんなナイフで?上手く切れないわよ、ハサミを使わないと。それに、明るい昼間にやればいいじゃない、べつに」

 僕は、今度こそ言葉に詰まった。彼女が一歩あゆみ寄り、白い手で僕の髪を優しく撫でた。

「ねえ、スピラ……なにか、隠し事をしているの?私だけに、話してくれない……?」

 彼女の懇願するような瞳に負けて———僕は、泣き崩れた。

「ごめん……!ごめんね……!」


 僕、本当は軍から来たんだ。

 ここにいる人たち、みんなを殺すために。

 きみのことも殺さなきゃならない。

 今夜、このナイフで、みんなを刺して回るはずだった。

 騙してたんだ、ずっと。


 泣きじゃくりながらすべて吐き出すと、彼女はしばらく凍り付いたようにそこから動かなかった。

「……それじゃあ、殺すの?命令されたから……私を?今?」

 僕は、うなだれたままで頭を振った。

「……できないよ。そんなのいやだ。だけど、やらないと僕を殺すって……それで、どうしようか……ここで考えてた」

 すると、彼女は優しく僕の肩に触れた。

「やっぱり、あなたは素敵な人だわ」

 涙でぐずぐずの顔を上げる。彼女は、微笑んでいた。

「私ね、今までもたくさん、危険な目に遭ってきたの。騙されて、連れ去られて、人質に取られたりしてね。そのたびに、いろんな人の本性を見てきたわ。その人たちったらね、本当に嫌な大人だったわ……目先の欲と、立場の強い人間に、ぜったいに敵わないの。……あなたが初めてよ、そんなのいやだって言ってくれたのは」

 透明な瞳に、吸い込まれそうになった。いつも明るい彼女に、そんな過去があったなんて……僕は、何も知らなかった。

「そんな奴らに殺されるのだけは嫌だって、ずっと思ってた。私のために、迷ってくれてありがとう……あのね、スピラ。私……———」

 そのときだった。

 大きな音が、庭に———いや、建物全体に響き渡った。ぎょっとして音のした方を見上げると———邸宅の屋根が、火を噴いていた。どす黒い煙が立ちのぼり、オレンジの火の粉が中庭の方まではらはらと降り注ぐ。

「お父様たちの寝室だわ……」

 彼女の瞳が朱い炎を映し、ゆらゆらと揺れる。降りかかる火の粉が薔薇の花びらを灼いていた。僕は彼女の手を掴み、物陰へと引っ張った。

「とにかく、ここを離れよう!一階を通って庭に———」

 そう言ったとき、今度はもっと近くで爆音が鳴り響いた。外へと続く唯一の廊下に、火の手が立ち塞がっている。

「そんな……どうして……」

 炎に囲まれ、退路を断たれた。呆然と立ち尽くしていると、彼女が僕の手を解き、薔薇の茂みの中をかき分けるように進んでいった。

「こっち!こっちへ来て!」

 薔薇の棘に引っ掻かれながら彼女のあとを追うと、中庭の片隅の、茨の蔭になった場所に、四角い石畳があった。彼女がそれを掴み———ひっくり返そうとする。しかし、思うようにいかない。長年放置された石に、蔦が絡まっているのだ。僕は茨の中を引き返し、落としたナイフを拾った。それを持って彼女のもとへ戻り、絡まった蔦を断ち切った。重い石を二人がかりで持ち上げ、ひっくり返す。すると、石畳の下から、地下へ続く階段が出てきた。

「一応聞くけど」

 彼女が言う。

「あなたは、何も知らないのよね?」

 僕は頷いた。

「うん……僕が知ってるのは、見張り役の軍人が居るってことだけ」

「じゃあ、その人の仕業ね。酷いわ……最初からこうするつもりだったのかしら」

「わからない……もしかしたら、僕がぐずぐずしていたせいかも……」

 そう思うと、また涙が溢れてきた。

「スピラ……」

 そんな僕に、彼女が声をかける。

「あなたのせいじゃないわ……絶対に」

 僕は、力なく頷いた。

「うん……ごめん……」

「……さあ、この階段を下りたら、お屋敷の外に出られるわ」

「うん。行こう」

 彼女に手を差し伸べる。しかし、彼女は———微笑んで、それを見るだけだった。

「……どうしたの?」

「……ううん。スピラ……」

 彼女の手が伸ばされる。僕の、ナイフを握ったままの右手を……彼女の両手が、優しく包んだ。

「私は、行けない」

「え……?」

 どうして、と問いつめようとしたそのとき。柱の陰から、背の高いシルエットがぬっと現れた。———警備員の格好をして……銃を持っている。銃口は……僕の方へ向けられていた。

「ごめんなさい、スピラ……」

 彼女の笑顔に曇りが差す。いやだ、そんな顔をしないで……僕の頬を涙が伝い落ちた。彼女の手が、優しく僕の手を撫で————ゆっくりと、引き寄せた。

「い、いやだ……」

 ナイフの刃先が、彼女の首もとへ近付いていく。僕はたまらず、身をよじった。それでも、彼女は手を離してくれない。

「いやだ……どうして!?僕はこんなこと、したくない!」

 カチャリ、と音がする。僕は怯んだ。銃口が、僕を脅している。……やれというのか?僕に、彼女を……?

 せめてこの手を離してくれたなら、きみを逃がすのに。そうしたら僕は、もう撃たれたって構わないのに……!彼女がそれをさせてくれない。どうして?どうして……?


「スピラ」


 ———彼女の、優しい声。


「あなたは優しい人よ。だから……ごめんなさい。これから先、何があっても、あがき続けて…………勇気を出して」


 火の粉が舞う。降り注ぐ朱が、薔薇の花びらを灼いていく。噎せ返る匂いの中————僕と彼女は、ただ、見つめ合っていた。


「私の命をあなたにあげる」


 切っ先が、彼女の白い喉を裂く。


「だから」 


 噴き上がる紅が、僕の前髪を濡らす。


「死なないで」


 長く伸びた前髪の先から、鮮やかな朱色が滲む。


「生きて……」


 僕は泣きながら、彼女の澄んだ瞳を見ていた。




   *  *  *




 それから、僕は軍に帰還した。あの日の火災が、いつから仕組まれていたものかは知らない。問いつめる気にもなれなかった。ただ、あの火災で……お屋敷の人は、一人残らず亡くなったそうだ。


「おい、お前」


 聞き覚えのある声。初老の軍人さんが、僕を呼びつけていた。

「お前……?」

 僕の中に、彼女の声が蘇る。



『————……勇気を出して————』



「僕はスピラです」

 軍人さんを睨みつける。

「もう、あなたたちには負けない」


 ————忘れるものか。あの日起きた出来事。あの澄んだ瞳。彼女との、約束。

 それから僕は、泣くのをやめた。強くなった。自分の足で歩こうと思った。彼女のように強かに生きようと決めた。彼女のぶんまで、僕は、生きて、生きて、生きて生きて生きて……憎しみは、微笑みの裏に押し隠して。

 すぐに帝王軍というところから声がかかり、僕は、今まで居た軍の少年兵制度を廃止にさせることを条件に、誘いを呑んだ。そして———10年。




 あの日から、10年が経った。今でも、鮮明に思い出せる。彼女との約束は、守れているだろうか。もう、あの頃のように、世界は怖くなくなった。けれど、その代償は大きかったのだと、今になっても思う。

 ひとつは、あなたの命。

 ひとつは……私がこの先、もう誰も、愛せないだろうということ。

 そう、私には……まだひとつだけ、恐ろしいことが残っていた。そしておそらくそれは、もう一生、怖いままだ。



「スピラです。入ります」

 司令室のドアを潜る。司令官は既に、私を待ち構えていた。

「来たか。君に重要任務だ。わが帝王軍が実験を施した生体兵器のサンプルが、極東の村で目撃された。直ちに確認しに行ってほしい。状態次第では———再教育か……または、抹殺してもらう」

「わかりました」

「サンプルは、17歳の少年だ。名前はカインという。明日の朝、船を出すから……よろしく頼んだよ」


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