中編
「ね、来て!こっちよ!あなたに見せたいものがあるの」
そう言って、女の子は僕を強引に連れ出した。
「きっと気に入るわよ。……ねえ、あなた名前は?」
「……スピラ、です」
ぎこちなく、初めてもらった名前を喋る。
「スピラ?ふしぎな名前ね。どこから来たの?」
「えっと……東方の都から……」
「本当!?私、まだ東方には行ったことがないの。ねえ、どんなところ?」
「うんと……」
———怖いところだよ。
そう言いかけたのを、なんとか飲み込んだ。
「……にぎやかな、ところですよ。人が、たくさんいるんです。子どももいっぱいいますよ。それから……」
「ねえ、その喋り方」
「え?」
「です、ます、って。私は、あなたとお友達になりたいの。だから、敬語はいらないわ」
僕はたじろいだ。
「でも……」
「さ、着いたわよ」
そうこうしている間に、女の子が足を止めた。僕は話すのをやめて、彼女が示す方向を見た。
「わあ……!」
そこにあったのは、僕が最初に通された応接間よりも一回り狭いくらいの、小さな中庭。吹き抜けの空から光が差して、その空間をまるで祝福されたみたいにあたたかくしていた。そよぐ緑が、白い大理石の柱に蔭を落とす。そして、やわらかな香りとともに庭を彩っているのは———数多の薔薇の花。白い花弁に、ほんのりと朱色を垂らしたような、淡いオレンジ。
「きれい……」
「でしょう?私ね、お友達ができたら、真っ先にここを見せるって決めてたの」
彼女はそう言って、庭の奥にある半円状のベンチに腰掛けた。
「ねえ、こっちに来て。もっとお話しましょう」
僕はおずおずと、彼女に近付いた。さくさくと若草の生えた土を踏み、薔薇の香りのなかを突っ切って、彼女の隣に腰をおろす。
「あなた、齢はいくつ?お誕生日は?」
「齢は……たぶん14歳。誕生日は……知らない」
彼女は、とても驚いたようだった。
「えっ、じゃあ、お祝いはどうしてたの?」
「……なにそれ?」
「うーん……それは、困ったわね……」
一体なにが困ったのか、僕にはあまり分からなかったけれど、彼女は真剣に考え込んで———そして、いいことを思いついたというように、ぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、私と出会った今日を誕生日にしちゃいましょう!ねえ、それでいい?」
「え……うん、いいけど……」
「ふふ、決まりね。よろしくね、スピラ。じゃあ、次は私の番!私は———」
彼女は、屋敷の一人娘。僕とおなじ14歳。おてんばで、好奇心旺盛で、とても優しい。今までずっと屋敷の中で育ったから、自分と同じくらいの子どもと遊んだことがなかったらしい。だから、僕が屋敷に来たと聞いて、とても嬉しかったって。生まれて初めてのともだち。……僕にとっても。
それからの日々は、楽園のようだった。毎日のように彼女と遊んで、邸宅のお手伝いをして……任務のことなんて、忘れたように過ごした。彼女と話すと、不思議と胸が高鳴る。こころの奥が、じんわりと暖かくなるんだ。軍にいた頃は寂しく惨めだった僕のこころが、まるであの秘密の中庭みたいに———光が溢れ、花が咲く、あたたかなものに変わっていく気がしていた。そして———
「スピラ、もうすぐあなたの誕生日が来るわね」
僕が屋敷に来て、もう1年が経とうとしていた。その頃には、僕は自分がここに来た理由なんて、すっかり忘れていた。
「私のときは素敵なお祝いをしてくれたから、あなたにちゃんとお返ししなきゃね」
「いいよ、そんなの……気持ちだけでじゅうぶん」
「だめよ。大好きなあなたの誕生日だもの。ぜったい、ぜったいに素敵な日にしてみせるわ」
「うん……ありがとう……」
そう言って、その日は別れた。部屋に戻り、彼女との会話を思い出す。うれしくて頬が熱くなった。今夜は良い夢が見れそうな気がする。時計とネクタイを外し、机に置く。ベストのボタンに手を掛けたとき———小さく振動音が響いた。
僕はぎょっとして机の上の懐中時計を凝視した。微かに振動している。口の中に何かが絡み付き、息が詰まった。僕は、震える手を懐中時計に伸ばした。さっと、足元から体温が引いていく。
「———スピラ、です」
周りに誰も居ないことを確認して、僕は懐中時計に囁いた。そのまま耳に当てると———声が返ってきた。
「————……はい。………はい……わかりました…………」
僕の人生でいちばん幸せだった季節は、あっさりと終わりを告げた。