前編
「突撃始め!」
けたたましい笛の音。子どもたちが一斉に前へ突進していく。それぞれの手には、ナイフ。そして、僕の手にも。僕は、みんなに負けないようにと必死に走る。けれども、勢いづいて走る彼らの流れに揉まれ、思うように出られない。どん、と肩を押された。体がぐらつく。ものすごい勢いで、背中にぶつかってくる何かを感じながら、僕は前へつんのめる。次々と押し寄せる衝撃に足がもつれた。地面が、急激に近くなる。
ナイフが手を離れ、からんと転がり落ちる。誰かが僕の手を踏んでいった。
———痛い。
「何だ、さっきのは」
恐い顔の軍人さんが僕を叱りつける。答えられずに下を向いていると、思い切り頬を殴られた。たまらずその場に倒れる。痛くて、涙が出た。まずい、泣いちゃいけない。そう思って目を拭った次の瞬間には、服を掴まれ、乱暴に立ち上がらされていた。
「泣くんじゃない!誰が悪いか、分かっているのか!ええ!」
そう言って軍人さんは、何度も何度も僕を殴った。僕が満足のいく返事をするまで、立て続けに。もう、痛くて答えられないのに。そう訴えたくても、何もできなかった。
いつもこうだ。僕は体が小さいから、みんなみたいに速く走れない。体当たりも強くないから、大勢で走るときいつも転ぶ。だけど、それだけじゃないんだ、今回転んだのは。誰かが、わざわざ手を使って、僕の肩を突き飛ばした。わざと強く背中にぶつかった。しまいには、転んだ僕の手を踏んで————彼らは、笑ってた。軍人さんだってちゃんと見てたはずなのに、知らんふりしてるんだ。
腫れた頬を押さえながら、宿舎に戻る。この時間がいちばん惨め。ばかだな、と思う。養兵所なんて、まっぴらなのに。宿舎で寝て————朝が来たら、またひどい目に遭わなきゃならない。……だけど、逃げるなんて無理。どうせ、僕の足じゃ逃げ切れない。そんなことしたら、もっと酷い目に遭うんだから……。
お父さんもお母さんも、僕を捨てるなら、もっとましなところに捨ててくれればよかったのに。お菓子屋さんの前とか。幼稚園の前とか。……でも、ないか。いらない子だから捨てられたんだ。きっと、僕がどうなろうが、どうでもよかったよね。
* * *
次の日も、訓練で失敗した。誰かが僕の朝ごはんを盗ったから、うまく力が出なかったんだ。昨日僕を殴った軍人さんが、あのときよりももっと恐い顔で、僕の目の前に刃物を突きつけた。
「これは何だ」
銀色に光る鋭利な刀身。冷たい輝きの中に、泣き腫らした僕の顔が写っていた。
「……ナイフ、です」
「そうだ。何に使う」
僕は、言葉に詰まった。軍人さんが何て答えてほしいのかは知ってる。でも、僕の胸の中は、どうしようもない拒否感でぎちぎちになった。
「言え!」
軍人さんが、僕の顔に刃をぐいと近付ける。僕は恐くなって、震えながら答えた。
「う……人を、殺すため……」
すっ、と僕の目の前から刃が降ろされる。銀色の軌道はゆっくりと下に降りて———その柄が、強引に僕の手の中に閉じ込められた。
「そうだ。忘れるな……ちゃんとやるんだ」
握らされたナイフに視線を落とす。もしも僕を捨てたお父さんやお母さんに会ったら、殺してやりたい、なんて思うのかな。何度もそんなことを考えたけど、本当のところは、わからない。まあ、そもそも、相手の顔も知らないんだけど。ただ、僕は……人を傷つけたいとは、思わなかった。きらきらと反射する銀色に映る、痣まみれの自分の顔が———いつも、ひどく惨めだったから。
そんな日々を途方もなく繰り返して、僕はだんだん大きくなった。両親に軍事施設の前に捨てられて14年。だから僕は、今や14歳。さすがに背はそこそこ伸びたけれど、弱虫っぷりは相変わらずだった。そんなある日。
「おい、お前」
軍人さんの声。
「お前だよ、お前」
声が近付いてくる。僕のことを呼んでいたらしい。こんな風に呼ばれると、今度は何を言われるのかなと、毎回憂鬱な気分になる。でも無視するわけにもいかないから、僕は呼ばれた通り彼の方へ向いた。
「なんですか?」
「ああ。お前に、大事な知らせがある」
なんだろう。とても、いやな予感がした。
「喜べ、初仕事だ。それも単独任務だ」
「え……?」
「とある政治家の邸宅に、使用人として潜入し、一家と関係者を皆殺しにするんだ。手段は問わない。至ってシンプルな内容だ」
軍人さんの顔がぐっと近付く。目が血走って、ぎらぎらと光っている。
「いいか、重要な任務だ。確実にこなせ。もし、失敗したら……お前を殺してやるからな」
目の前が、真っ暗になっていくのを感じた。軍人さんの薄ら笑いが、霞がかって見える。僕は、まだ訓練さえも満足にできないのに……それに、皆殺しだって?そんなの……僕にできるはずが、ないじゃないか……。
僕を処分してしまう気なんだと、すぐに分かった。僕は……ここでも、いらない子になってしまったんだ。
「あちらでは、“スピラ”と名乗るようにしろ。もう手配は済ませてあるからな。明日の朝、出発だ」
* * *
「わあ……」
船旅を終えてやって来たそこは、絵に描いたような大豪邸だった。両開きの重たそうな門。そこからずうっと続く、ピンクの薔薇のアーチ。庭の植物も、装飾品も、地面さえもが、淡い光を放っているみたいに眩しく見えた。まるで、知らない世界に迷い込んだみたい。こういう風景を目の当たりにしたら、誰もが「天国みたい」だなんて、言うのかな。
だけど、僕にはこのブロンズの門が、地獄の門に見えていたんだ。……まだ、この時は。
「……はい、よろしくお願いします」
応接間に通されて、そこで邸宅のご主人や奥様、それに執事長や……たくさんのおとなの人に囲まれて、挨拶をした。怖いのと、緊張とで何度も舌を噛んで、そのたびに奥様がくすくすと笑うのが、とても恥ずかしかった。
お屋敷の人と順番に握手をしていくうちに、何やら廊下のほうが騒がしくなってきた。ドタドタという足音と、誰かが騒ぎ立てる声が聞こえる。
(ちょっと!どいて!)
(お待ちください、お嬢様!)
騒ぎが大きくなるにつれて、皆が廊下の方を見始めた。僕も気になって視線をやると、ちょうど応接間の両開きの扉がばん!と大きな音を立てて開き、女の子が転がるように部屋の中に入ってきた。あとから、執事らしき人も追いかけてくる。
しんと静まり返る部屋の中で、女の子はきょろきょろと首を動かし、僕の姿を認めると……なんと一目散にこちらに駆けてきた!
「あっ、ほんとに居た!ねえあなた、私とお友達になってちょうだい!」
———それが、僕と彼女の出会いだった。