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この呪は確か、人間に憑いた魔や鬼を祓う呪言のはずだ。ならば、自分が人間だと認識できていれば、巻き込まれずに済むはず……。
「絶対、守ってみせる」
俺の言葉に、微かに男が頷いた。
「教化に付かざるに依りて時を切ってすゆるなり。下のふたへも推してする、急々如律令!」
征志の声が響いて、荒れ狂っていた風と共に、憎悪の念が消えていく。
こいつは連れていくなと強く念じながら、グッと腕に力を入れる。背中にしがみつく男の手からは、消えたくないという『思い』が染み出していた。
急に軽くなった空気に、ゆっくりと目を開ける。腕の中に男の存在を確認してから、左右を見渡した。もう、何も残っていない。見事に全てが消えていた。
「よかったぁ…」
ほぅと息を吐いて、男の肩に顎を乗せる。体の力が抜けていく。今頃になって、足が震えだした。
「見せつけてくれるじゃないか、お二人さん」
声に振り向くと、少し顎を上げるようにした征志が、ニヤリと笑って俺達を見下ろしていた。俺と目が合うと、ククッと笑いだす。それにつられて、俺も笑いだした。
「俺、マッジで死ぬかと思った」
差し出す征志の手を掴んで立ち上がる。征志の手の温もりが、生きている事を証明してくれていた。
「ありがとな、征志。わざと人の霊には効かない呪を唱えてくれただろ」
俺の言葉に、ヒョイと片方の眉を上げる。
「さあてね。礼を言うのはまだ早いんじゃないかな」
両腕を組んだ征志が、俺の後ろの男をジロリと睨む。しばらく目を細めて男を凝視していた征志は、ゆっくりと口を開いた。
「悪いな、お前に鏑木をくれてやるつもりはない。どうしてもと言うなら、今度こそお前を滅するぞ」
低く言い放った征志に、男だけではなく俺までもが凍りついた。だって普段の征志は、いくらなんでも、こんな冷たい言い方なんてしない。
まるで、知らない男のようだ。
夜の所為だろうか。征志の瞳は、闇のように漆黒になっていた。
「ちょ…ちょっと待てよ。征志」
庇うように男の前に立った俺に、征志の冷ややかな視線が向けられる。
「なんだ? お前は死にたいのか?」
「何言って……!」
「いや、死にたいんだ、お前は。無意識の内に死を望んでる。だから、そんな奴に付け入られるんだ」
「征志!」
「いや。付け入られたんじゃない。利用されたのは、こいつの方か……?」
俺の声を聞かず、ブツブツと言葉を綴り続ける征志を、マジで怖いと思った。
眉を寄せて顔を顰めた征志が、見下すように俺を見る。
「くだらないな。あの人のいない寂しさと、自分だけが生き残ったという負目。それが、今のお前の全てだ」
征志は、いつも以上に他人を寄せ付けない鎧を纏っていた。その征志に近付こうとする俺の肩を、男が掴む。
「やめろ。今のあいつには、誰も逆らえない」
俺を後ろに押しやって、男が前へと出た。
「僚紘。お前を一緒に連れていくのは諦めるよ。あんな力を見せつけられちゃ、俺なんかひとたまりもないからな」
俺から顔を背けたままで言う。
「思い出してもらえないなんて……。辛いよな」
まるで征志に対して言ったような台詞に、征志がギンと目を見開く。しかし自分を抑えるようにきつく目を閉じた征志は、クスリと自嘲気味に笑ってみせた。
「逝くか?」
再び目を開けた時、征志はいつもの冷静さを取り戻していた。そっと、男の額に手を伸ばす。
黙って頷いた男は、体を預けるように俯いた。チロリと斜めに俺を振り返って、目を細める。
「おい……あんた…」
近付こうとする俺を、征志が視線で制する。男の額に手をあてたままで、小さく首を振った。
「俺はさ、弱いから……逃げてしまったけれど。本当は、後悔してるんだ、今さらだけどな。だから僚紘、お前は強くなれ。辛くて苦しい、その思いすらも大事にしてくれ。きっとそれが、生きるって事だから……」
やさしい声が、耳に届く。俺は足を止め、二人を見守った。
「生きて、会いたかった…」
名前も何も知らない。いや、その方がいいのかもしれない。この場所に、なんの思いも残さず逝けるよう。あいつの中にだけ居る、『俺』を連れて……。
今度こそ、迷う事なく。
「銀の路にて光をあつめ、杏に乗りて彼の岸へと導かん。ひとふたみよ、いつむゆななや、ここの、たり。ふるべ、ゆらゆらと……。せめて、心穏やかに……」
低く唱える征志の声が辺りに響き、うっすらと男の姿が消えていく。完全に男が消えてしまうと、征志は大きく息を吐いた。
顔を上げた征志の視線が、俺の左耳のピアスで止まる。孝亮の『形見』としてもらった、ナイフ型のピアスだ。
「悪いな、鏑木。俺がいる限り、お前は死ねないよ」
初めて見る征志の不安げな顔に、ああ、あの声は征志だったのかと気付く。
クスリと笑った俺は、コツンと征志の胸を小突いた。
「征志。お前、ずっと俺を呼んでたろ。僚紘、僚紘って。だから、俺はここへ来た。さっきのあいつに会ってた俺じゃなく、お前と共にいた俺が、ここへ来たんだ」
上目遣いに俺を見た征志の瞳が、微かに揺れる。そしてその闇の瞳に吸い込まれるように、俺の意識は途切れていった。