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「お前が」
両手をズボンのポケットに突っ込んだ征志が、静かに口を開いた。
「お前が夢で……。いや、正しくは魂だけの姿で、ここ幾晩か会っていた相手だ」
「え?」
「だからさ。お前は寝ても夢を見ないし、眠気も取れない。だって、寝ていないんだからな。その上こいつは俺に気取られないよう、起きてる間はお前が思い出さないように記憶を封じていたんだ」
ポケットに手を突っ込んだままで、肩を竦める。
「それが仇となったな。肝心な今この時に、こいつと会っていたお前ではなく、俺と過ごしていたお前が目覚めてしまったんだから」
フイと俺の顔を見た征志が、曖昧に微笑む。
「どちらがお前の望むものなのかは、判らないけどな」
「…………」
征志から目の前の男に視線を戻す。しかしジッと地面を見つめる男は、俺を見ようともしなかった。
俄かには信じられない。だけどきっと、征志が言う事は本当なのだろう。
「俺は……」
男と同じように、地面に視線を落とす。
どれ程の時間をこの男と過ごしたのか、どんなふうに過ごしたのか、その欠片すらも思い出せない。
なんと声をかけていいのか、それさえも思い浮かばないのだ。
「……お前は言ったよ、俺を信じろってね。だから、俺は信じたんだ。僚紘の言葉を。僚紘自身を」
顔を上げ、まっすぐと俺を見つめた男の髪が風に揺れ、その口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
男は俺の手を離して、よろよろと後退る。力が抜けた両足が絡み、ぶつかるように銀杏の幹に凭れかかった。そのまま、崩れるようにカクリと膝をつく。
「その結果が、このザマさ。もう人なんか信じないと心に決めていたのに……」
言って土を掻き毟るように掴み、拳で地面を叩く。何度も。何度も。
「自殺し、迷いの為に路を見失ったか。面倒だが、俺が送り出してやるよ。せめて、心安らかに逝けるように」
征志の言葉に、ピクリと男が反応する。しばらく肩を震わせた男は、気が狂ったかと思うほど大きな笑い声をあげた。
「安らかに、だって? 安らげる訳ないだろ。お前に僚紘を奪い取られて!」
男の髪が逆立ち、周りに風が渦を巻く。
「うわっ…!」
強風に銀杏の葉が舞った。慌てて、両腕で顔を庇う。
どこからか、呻くような声が聞こえ始める。無理やりに開けた目に映ったのは、地面から這い出そうとする、人では無くなってしまった憎悪の塊だった。もう形さえもはっきりしない黒い影となった者達が、男へと群がっていく。
ピリピリとした憎しみの感情だけが、肌を刺す。
「やはりな。魔物と化した者達に取り込まれていたか。だから、鏑木の記憶を消すなんて芸当が出来たんだ」
コキコキと首を左右に振って首を鳴らした征志が、ウンザリと俺を見る。
「……ダルイな。消滅しちまうか?」
「取り込まれて、だと? バカ…やろぉッ!」
叫んで、俺は男に向かって駆け出した。男を取り巻く、狂って吹き荒れる風の中に足を踏み入れる。
「やめろ! 鏑木!」
征志の声が聞こえたが、躊躇う事なく突き進んだ。
「お前ッ! 解ってんのか? そいつらと一体化してしまったら、もう人では無くなってしまうんだぞ!」
俺の叫び声に男が顔を上げ、そして、笑った……。
「鏑木! お前も巻き込まれるぞ!」
もうその姿すらも見えない征志が叫ぶ。風に含まれる、いったい何人のものなのかも判らない憎しみに晒された皮膚が、ズキズキと疼きだしていた。
「あきらめろ。そいつごと祓うぞ!」
「征志、駄目だ! 待て!」
必死に、男に向かって腕を伸ばす。
「…オン。アボキャ・ベイロシャノゥ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン!」
俺の声が聞こえているはずなのに、征志が呪言を止める気配はない。
「くそっ! 頑固者めっ」
「付くも不肖、付かるるも不肖、一時の夢ぞかし。生は難の池、水つもりて淵となる」
呪が進むにつれ、周りの悪霊と共に男が苦しみだす。
「おいッ 俺を見ろ。俺の声だけを聞くんだ!」
なんとか男の腕を引っ張り、頭を胸へとかかえ込んだ。
「鬼神に横道なし。人間に疑いなし」
「いいか! お前は人間なんだ! それを一瞬でも忘れるんじゃねぇぞ!」