第6話 それは、保護ではない
帝国の朝は早い。
まだ薄明の時間、
執務室の灯りはすでに点いている。
セラフィーナは机に広げられた交易帳簿を読み込んでいた。
王国とは違う。
数字の流れが透明だ。
「夜明け前から働くとは」
低い声が背後から落ちる。
振り返ると、カイゼルが立っていた。
軍装ではなく、黒の簡素な外套姿。
「陛下こそ」
「皇帝は寝過ごせぬ」
短い会話。
だが、沈黙は不快ではない。
カイゼルは机の向かいに立ち、帳簿を覗き込む。
「北方の穀物流通を三割、南方へ迂回させる提案か」
「王国が三日以内に再交渉を試みるはずです。混乱は避けられません」
「崩壊を早めることになる」
セラフィーナは視線を落とす。
「わたくしが戻らぬ限り、遅かれ早かれ」
「迷いはあるか」
唐突な問い。
ほんの一瞬、間があく。
「……ございません」
嘘ではない。
だが、無感情でもない。
王国で積み上げた年月は、簡単に消えるものではない。
カイゼルは黙って彼女を見つめる。
「貴女は、自分を過小評価する」
「そのようなことは」
「ある」
即断。
「貴女が抜けた瞬間、国が揺らいだ。それが答えだ」
言葉に重みがある。
持ち上げるでもなく、
慰めるでもない。
事実として認める。
「帝国では、能力ある者は正当に扱う」
その声音が、わずかに柔らぐ。
「私の側で働く以上、誰にも軽んじさせぬ」
空気が変わる。
それは庇護ではない。
所有でもない。
“側に置く”という宣言。
セラフィーナは目を伏せる。
王国では、常に一歩後ろだった。
功績は王子のもの。
失敗は自分の責任。
だが今。
真正面から、見られている。
「陛下は、なぜそこまで」
問いかけると、皇帝は一瞬だけ視線を逸らす。
「優秀な者を失うのは、損失だ」
合理的な答え。
だが。
次の言葉は、少しだけ違った。
「……それに」
わずかな沈黙。
「舞踏会で、貴女は一度も動揺を見せなかった」
銀の瞳が真っ直ぐ向けられる。
「あの場で、あの態度を取れる者は多くない」
評価。
尊敬。
そこに、微かな個人的興味が混じる。
「強い者は好ましい」
低く、静かな告白のような言葉。
胸の奥が、わずかに熱を持つ。
「陛下」
「今はまだ、仕事の話だ」
だが、口元がわずかに緩む。
「だがいずれ、仕事以外の話もすることになる」
それは予告。
焦らない。
急がない。
だが確実に距離を詰める。
カイゼルは踵を返す。
「昼食は共に取れ」
命令の形だが、声音は柔らかい。
「拒否は認めぬ」
扉が閉まる。
静かな執務室に、セラフィーナだけが残る。
手元の帳簿が、少しだけ揺れている。
王子は、取り戻せると信じている。
だが。
もう彼女は、
守られる立場ではない。
選ばれ、
そして——
大切にされ始めている。




