第5話 皇帝は、声を荒げない
帝国宮殿の執務室は、王国のそれよりも簡素だった。
無駄な装飾はなく、
磨き上げられた黒曜石の机が中央に置かれている。
その上に、一通の書簡。
王国の紋章が押された、正式な王命書。
カイゼルは封を切る。
無言で読み進める。
“国難ゆえ、旧責任者セラフィーナ・アルディアに帰還を命ずる”
“速やかに王都へ戻り、財政再建に従事せよ”
沈黙。
側近たちは息を潜めている。
書簡を最後まで読み終え、
皇帝は静かにそれを机に置いた。
「……命ずる、か」
低い声が落ちる。
怒鳴りはしない。
だが、空気が一瞬で冷えた。
「陛下」
側近が口を開く。
「王国は混乱しております。交易は完全停止。穀物相場は高騰。商会は帝国側の判断を待っている状況です」
カイゼルは立ち上がり、窓辺へ歩く。
遠くに広がる帝都の景色。
整然とした街並み。
規律ある動き。
「己が捨てた者を、道具のように呼び戻すとは」
銀の瞳がわずかに細められる。
「愚かだ」
その一言に、側近たちが背筋を伸ばす。
そこへ。
扉が静かに開いた。
セラフィーナが入室する。
帝国の衣装は深い蒼。
装飾は最小限。
だがその佇まいは、以前よりも凛としている。
「お呼びでしょうか、陛下」
カイゼルは書簡を差し出す。
「読め」
彼女は受け取り、目を通す。
その表情は変わらない。
「……予想通りでございます」
「戻るか」
問いは短い。
試す響きはない。
ただ、確認。
セラフィーナは書簡を静かに折りたたむ。
「わたくしは、すでに帝国の客人でございます」
わずかに視線を上げる。
「命令を受ける立場ではございません」
その声は穏やかだ。
怒りも、憎しみもない。
ただ事実。
カイゼルはしばし彼女を見つめる。
「貴女が戻れば、王国は延命する」
「ええ」
「戻らねば、崩れる」
「おそらくは」
沈黙。
皇帝の指が机を軽く叩く。
「選択権は貴女にある」
その言葉に、側近が目を見開く。
皇帝が、
選択を委ねる。
セラフィーナはわずかに微笑んだ。
「帝国は、わたくしを必要としてくださるのでしょうか」
即答。
「当然だ」
迷いは一切ない。
その瞬間。
彼女の瞳が、ほんのわずかに揺れる。
王子は一度も言わなかった言葉。
必要だと。
「……では、帝国にお仕えいたします」
カイゼルは書簡を再び手に取る。
そして。
ゆっくりと、破いた。
紙が裂ける音が、静かに響く。
「返書を送れ」
側近が膝をつく。
「内容は?」
銀の瞳が冷える。
「帝国は、貴国の内政に干渉しない」
一拍。
「だが、帝国臣民に対する命令権は認めない、と」
空気が凍る。
王国への、明確な拒絶。
カイゼルはセラフィーナを見た。
「二度と、貴女を道具にはさせぬ」
低く、確かな声。
怒鳴らない。
だが、それは王としての宣言だった。
王国はまだ知らない。
自分たちが拒絶されたことを。
そして。
取り戻せると思っていた希望が、
すでに焼き払われたことを。




